三十六ノ02
最寄りは赤い電車の駅だ。構内を抜け、国道を挟んだ向こう側には、北海道ラーメンの店がある。バターコーンラーメンが食べたくなると訪れるのだ。いくらなんでもラーメン一杯をケチるほどの貧乏はしていない。今日の昼飯にしたわけだ。「うまいな」と言うと、照れくさそうにする、いい大将なのである。
帰りにまた私鉄の駅構内を抜けるわけだが――デジャヴ、なんとまあ、コインロッカーから、また赤ん坊の声が聞こえてきたのだ。声の元をたどる。たどった先で、中からやはり、泣き声が聞こえてくる。「ふぎゃあっ、ふぎゃあふぎゃぁっ!」である。
私は額に右手をやり、静かに首を横に振った。これで通算二度目。駅員を巻き込まなければならない事案である。私は駅長室に向かった。駅長らしき中年男性は帽子を脱ぎ、禿げ頭を晒しながらのんきにコーヒーを飲んでいた。私が「おい」と呼びかけると、そいつは目を見開きカップを机に置き、「は、はいっ、なんでしょうか?!」と弾かれたように返事をした。真面目な男ではあるらしい。
「赤ん坊がコインロッカーの中に閉じ込められている。とっとと開けてもらいたい」
「えっ、ええぇっ!」
「議論の余地はない。早く開けろ。赤ん坊を死なせたいのか?」
駅長は真っ青な顔をして、しかし行動は早く、「わ、わかりました!」と言うなり、マスターキーだろう、事務机からそれを取り出し、そして私たちは慌ててロッカーに向かった。
――問題のロッカーである。「ほ、ほんとうだ。赤ん坊の声がする。どうして、こんな……」と言い、駅長は目に涙を浮かべた。マスターキーを使って「開けます」と言った若い駅員のほうが現状よっぽど冷静だ。開く。「ふぎゃあ! ふぎゃあ!」という声が一際、大きく鳴る。「まさか、こんなことがほんとうに……」と言い、若い駅員は右手で口元を押さえた。
私は大きく舌を打った。当該生物を抱いて「残念ながら、見覚えのある赤ん坊だ」と顔をしかめた。駅長も駅員も目を大きくしてみせた次第である。「前科一犯だ。私は母親を知っているぞ」と言うと、なぜだろう、ヒトがいいのだろうか、駅長も駅員も鼻をすすった。
「許せない」駅員が泣く。「こんなにかわいいのに、どうして捨てるなんてことができるんですか?」
その問いに対する答えを、私は持たない。母親になったことなどないのだから。
「込み入った事情でもないが、いろいろとある。ほんの少しだけ、待ってみよう」と私は言った。「母親が迎えに来るかもしれない」
「あなたは再犯だと言ったじゃないか」と駅長が切り返してきた。「前科一犯だって、言ったじゃないか」
「駅長に駅員、この一件にてヒトは見損なうべき存在と判断できるのかもしれんが、私はそれでも、親という要素は信じたいと思うんだ」
――想像したとおり、やってきたのは先日の女だった。長い髪はばさばさで、目を真っ赤にしている。私に、駅長に、駅員にそうしたところでしょうがないのに、ぺこぺこと、「ごめんなさい、ごめんなさい」と頭を下げる。
私は「二度もやったんだ。なにか理由があるんだろう?」と問いかけた。「なにもありません」と答えた女だが、その切羽詰まったような態度から、なにかしょうもない事情を背負いこんでいるであろうことは、否が応でも見て取れた。
女は事務的な回転椅子のうえで、ついに「夫が、彼が……っ」と漏らした。駅長と駅員が顔を見合わせた。私にだって、なにが起きているのかくらいはわかった。
「服に覆われている部分を殴られ蹴られする。すなわちDVにでも遭っているのだろうが、だからといって、夫の言いなりになるのはよくない」と私は伝え、「そしてだ、その行為から赤ん坊を守れないおまえもまた、罪深い」と続けた。
女はまた潔く――あるいは大げさに土下座した。「お願いです。警察には、警察にだけは!」と響く声を出す。
私は無慈悲かつ客観性を重んじるニンゲンなので、「別れろ」と言った。「でなければ、おまえからは赤ん坊を取り上げる」とまで告げた。
さすがに母親は怒ったようで、「あなたにそんな権利があるんですか!!」と声を荒らげた。「権利はないかもしれんが、そこにはヒトの命を蔑ろにしてはいけないという論理が働く」と私が述べると、「だったら、だったら助けてください……っ!」と涙ながらに訴えてきた。
しかし、責任を放棄する大人に助け舟を出してやるのもいかがなものか。
「勝て」
「えっ」
「勝てと言ったんだ。優先度はどちらが高い? 赤ん坊のほうだろう? 今一度、言う。男とは別れろ。おまえが無力だというのなら、おまえが望むとおり、私が力になってやる」
赤ん坊の漢字を見てやる。「悲」が「謝」になった。やはりわかるのだ、赤ん坊にも、状況が。なんとも興味深い事象ではないか。
「どうにもならなかったら、私を頼れ。ケータイの番号を残していく」
「見ず知らずのニンゲンに、連絡先を教えてくださるんですか?」
「赤ん坊のためだ。おまえのためじゃない」
女は「がんばりますっ」と言い、「がんばりますっ!」とくり返したのだった。