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彼女は脳にティアマトを抱えている  作者: XI
三十四.ツゲからの報せ
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三十四ノ01

 彼女――ツゲは私に手紙を置いていった。フツウに店番をしている最中(さいちゅう)のことだったので、彼女が眼前に現れた瞬間から、私は身体中から冷や汗を流しっぱなしだった。早々に立ち去ってくれたのは幸運と言えた。


 手紙は楡矢宛なれど、私が興味から内容をあらためるなんてわかっていたことだろうし、だから私はなかば恐縮しながらも拝見した。


『おいで、楡矢。わたしに恋をした、きみのことを殺してあげるから』


 誰のものかはわからない。血で書かれたその旨を確認した折には、レジ台の向こうに楡矢が立っていたものだから、不思議だった。


「やめておけ。見たところで、おまえにできることなんざないぞ」

「ええから、渡してくれや、鏡花さん」

「だから楡矢、私はおまえに忠告をして――」

「うっさい! はよ渡さんかい!」


 怒鳴りつけられることまで想定の範囲内だった。それを悟ってのことなのだろう。楡矢は右手を額にやり、ゆるゆると首を横に振った。「かんにんな、鏡花さん、らしくないよな、ホンマ、ははっ」と笑いもした。


「べつにおまえが失われようが、そんなことはどうだっていいんだよ」

「そうやよね。せやったら、俺はあなたになにを見せてあげたいんやろ」

「希望だろう」

「希望?」

「何度も言わせるな。処女を続けることは悪いことではないのだろうが、私は女としての悦びを味わいたい気がしている」

「鏡花さん」

「なんだ?」

「ほら、俺は、もう、汚い。きれいなあなたを抱ける身分にない」

「身分は重要ではない。大切なのは、思いであり、想いだ」


 もう夜。そうでなくとも滅多に客なんて訪れない店だ。そのようななかにあって、ガラスの引き戸がゆっくりと開け放たれ、次の瞬間には銃声が混じって――。


 楡矢が飛びついてきた。「頭を低く!」と標準語で述べ、「くそっ!」と、やはり標準語じみた言葉を述べ。


 銃弾が本をこする音がする。そんなの知っていなくたって感覚でわかるのだ。やり返したい気持ちに駆られる。だが楡矢が強く頭を押さえつけてきて――。


「なにが目的だ! なにがあんたの目的なんだ! 俺たちが愛したキャプテンは、もういないんだぞ!!」


 楡矢が叫んだ。悲痛さと悲哀さを含んだ声だ。あるいは涙すら流しているのかもしれない。そこまで胸に響く声だ。


「私の名はツゲ・イクミだ」改めて言うまでもないだろうに、女は名乗った。「出て来い、クワガタ、桑形楡矢軍曹。おまえは私の悪しき過去を知っている。ここで死んで赤色の花を咲かせる――のも、いいんじゃないのかな?」


 私の頭のてっぺんを左手で押さえつけている楡矢が、このとき、初めて微笑んだ。


「あんたがそんなふうに言うのはわかるんや。少尉! 俺を殺したら気が済むんやったら、喜んで命を差し出したる! せやけど、せやけど、これはなんか違うんやないんか? あんたは誰のためになんの復讐をしようとしてるんや! さあ、この問いに答えられん限りは、俺は全力であんたと戦うぞ!!」


 銃撃がやんだ。

 マシンガンだったようだ。

 もはや、店は店ではなくなっていることだろう。


「ふぅん、そうか。楡矢、やっぱりきみには、大切なものができたんだね」


 ツゲが嘲笑うさまが感じ取れた。至極、子どもっぽい口調。これが彼女のデフォルトか。


「もっかい言うぞ! ここでこれ以上やるつもりなら、俺はあんたんこと()るぞ。誰がなんと言おうが、絶対に殺したる!」

「それは怖いね。きみに成し遂げられることだとは思わないけれど」


 楡矢は押し黙った。なにを言うにしても、逡巡していることが窺えた。


「……頼むわ、イクミさん。もうちょいでええんや。準備の時間を、くれ……っ」

 ツゲは笑った、天を衝くくらい、甲高い声で。


「守るものがあるニンゲンは弱い。私にはそれがない。楡矢、きみねぇ、その時点できみは、私に勝てるはずがないんだよ」


 楡矢が私のことを押し倒し、いよいようえに覆いかぶさってきた。「よせ」と告げると、「ごめん。いまは好きにさせてくれ」と切実な声が返ってきた。


 狂ったように、ツゲがマシンガンをあっちにこっちにと放つ。「おまえもキャプテンの子どもなんだろうがぁぁぁっっ!と大声を飛ばしつつ、マシンガンをぶっ放す。


 けたたましい銃声がやんだ。楡矢があっちに転がった。転がって素早く立ち上がり、左の懐から抜き払った拳銃をツゲに向けた。


 楡矢が両の瞳から涙を流していることが確認できた。


「やめてください、イクミさん、お願いです……っ!」


 ここは退(しりぞ)こう。

 そんなふうに、ツゲはさっぱり言って――。


「私とキャプテンとの関係を知るニンゲンは、もうおまえだけになった」

「そんなこと、そんなもの、どうでもいいじゃありませんか。俺は……私はなにもかも受け容れています。あなたたちの関係はただただ美しかった。それだけじゃないですか」

「ああ、そんなことはどうだっていい。事実は事実だ。だがなあ、桑形楡矢軍曹、私は流産したんだよ」

「流産……?」

「ああ。あのヒトとの一粒種になるはずだった赤ん坊を失ったんだ」

「しかし、それは……っ」

「ああ、そうさ。妊娠後も私が作戦に従事していた結果だ。キャプテンもしかたのないことだと認めてくれた。ただなあ、私は我慢ならなかったんだよ。世の多くの女はさも当然のように赤ん坊を生む。だったらだ軍曹、どうして私はその機会に恵まれなかったんだ?」


 ツゲは無念そうな声を出し、残念そうな思いを表出させた。


「少尉……」

「この問いについては、誰も正確で的確な答えを出すことはできない。ただなあ、私はいま、それなりに楽しんでいるんだよ」

「そんなことは、そんなことはないはずだ。あなたは誰よりも潔癖だ」

「そんなことはどうだっていいと言った。私は私を受け容れなかったこの世界に復讐してやる。安直なことだと思うかい? だったら軍曹、おまえには両手も両足もあるんだ。気に食わないなら、私を止めてみせろ。まあ、優しすぎるきみには無理かもしれないな。死ぬことが柔らかな最期なのかもしれない」


 挑発的でありながら陽気さすらはらんでいた女の声が遠ざかる。期せずして、楡矢ががくりと膝をつき、私のほうへと上半身をほうり出してきた。やむをえないので全身の力を使って受け止め、支えてやった。


「楡矢」

「悪い、鏡花さん、五秒くれ。ちゃんと自分で立つさかい」

「七秒、くれてやってもいい」

「……おおきに」


 楡矢は私にしがみつき、「つらいつらい」と漏らして泣いた。


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