三十三ノ02
「もうそないなとこまで来てしもたんかね。俺としてはこのままでよかったし、このままの関係を望んでたんやけど」
出してやった麦茶を一口飲むと、楡矢は――らしくない、イラついたように貧乏ゆすりをくり返した。
「ツゲ少尉。そんなふうに言っていたな? だからこそ、問おう。おまえはいったい、何者なんだ?」
楡矢はしかたなさそうに笑うと、飲みかけのグラスを寄越してきた。それに口をつけてやると、「間接キスぅ」と笑った。
「元上司なんや、ツゲさんは。ヒトの目ぇ盗んで『イクミさん』って呼んだら、彼女は喜んでくれた」
「いつの話だ?」
「アフガンやったかな?」
「嘘をつけ。おまえの年格好から考えて、当時は――」
「場所なんてどうでもええってことやよ」
私としたことが、楡矢の強い口調に気圧されてしまった。
「俺はツゲさん……イクミさんに憧れてた。過去形やないな。いまでも俺の根っこにあるのは、イクミさんの言動やよ。彼女がいるから、いまの俺が作られた。っちゅうわけやさかい」ここで楡矢は楡矢らしさを伴って、にひひっと笑った。「聞かせてよ、鏡花さん。あなたはイクミさんに妬けますかぁ?」
私はアホみたいな質問だなと思い、「妬くわけないだろうが、馬鹿が」と言い放った。楡矢は笑った。「そりゃそうやよね」と言って、笑った。だが、まだ額に汗が浮かんでいることを私は見逃さない。
楡矢はもう、笑わなかった。ジャケットの袖で、額の汗をしきりに拭った。「いろいろ、あったんやわ」と言い、「ホンマ、いろいろあってん」と続けた。それを受け、私は「だから、おまえがツゲ・イクミに惚れていただけだろう?」と質してやった。
おかんとも友人とも恋人とも違う。ただ言うなら、「素敵な上司やった」と、楡矢は肩を落とした。
「ああ、メッチャ最悪。あのヒトの目につかへんやろうからって、こないな辺鄙な場所で生活するのを選んだっちゅうのに」
「想像するに、イクミはもう、退役したようだが?」
「せやろうね。――うんにゃ。俺より先におらへんくなってもよかったはずなんや」
「どういうことだ?」
「俺の上司はイクミさんやけど、そのうえにはまた一人、大尉がおってね。俺らはみーんな、『キャプテン』って呼んでた。事実、それくらい、度胸も度量もあるおっさんやったよ。彼については、おとうさんみたいなヒトやった」
「聞きようによっては、のっぴきならん話だな」
私はそう言い、一口分だけ残っている麦茶のグラスを、楡矢に渡した。
「この先、聞きたい?」
「そうでもないと言ったところで、おまえは話すんだろう?」
楡矢は申し訳なさそうに笑った。
「キスしたいとか、抱きたいとか、そういうんとはちゃうねん。ただ、俺は鏡花さんのことが大事やし、そうである以上、いつかあなたのことを巻き込んでしまう気がしてならへん」
私は「はっはっは」と笑った。
「舐めてもらっては困るな。行く末、立場くらい、自分で決める。そこにおまえが干渉する余地はないんだよ、楡矢」
楡矢は麦茶を飲み干すと、グラスを静かにレジ台に置いた。
「昔話や。ホンマ、どうでもええ、昔話なんや。せやけどそれを知っといてほしいって考えるんは俺のわがままで、俺の鏡花さんへの愛ゆえなんかもしれへんなぁ」
「おまえがおまえなりに、なんらか抱えていることはわかったよ。話してみろ。そうしてもらったところで、私の生き方が変わるとは思えんがな」
すると楡矢は晴れやかに笑い、「イクミさんは、俺の初恋のヒトなんよ」と言った。「サイコーの初恋やと思う」と笑った。
細かい貧乏ゆすりは、もう止まっていた。