三十三ノ01
女はあたりを往来しているときから、きっとヒトを切り刻むような鋭い雰囲気をまとっていたのだろう。なにを隠そう、私が驚かされたくらいなのだから。
本棚に収納された本をなにげなく手に取っているように見える。だが、心はここにはないような……。――そんなふうに観察していたとき、女の顔が突然こちらを向き、そして、なぜだろう、不思議だ、そして情けない、私はその視線から逃れるようにして、改めて文庫本に目を落とした。額に冷や汗までかいていて、だからなおのこと、「情けない限りだな」とまで思わされた次第だ。
「ご主人さま」
最初、誰のことを指しているのかすらわからなかった。この店で「主人」と言われるニンゲンは私しかいないことに気づかされた。
「……なにか?」
どもらないことで懐が深く度胸があるように見せる――だけが精一杯である。伺いを立てるような高い声になってしまったので、くり返しの情けなさを覚えた。
「ここに置いてある本は興味深い。作り上げたんだね、根城を。だけど、それはご主人さまがやり遂げたことじゃない」
背筋を凍らせ、びくりと背を正すことしかできなかった。なんだ、この女は。私のなにを知っていて、そしてなぜ、私を攻撃してくる?
女は誰のためにあるでもない折り畳み式の丸椅子を使い、私のそばに腰を下ろすと、不思議なくらいに、あるいは怖いくらいに透き通った声色で、「あなたは処女ね」などと言った。
「それがどうした?」
そう返すのが、精一杯だった。
――新たな来客があったのは、そのときだった。
「鏡花さん、おはぁ」
間の抜けた声でそう告げてきたのは、間違いない、楡矢である。今日も朝っぱらから赤いジャケットを身にまとい、大きな茶色いレンズのサングラスをかけている。助かった――と思った。私は誰かに論理的かつ精神的な窮地から救い出してほしかったのだ。
「鏡花さん、こんな朝からお客さんなん? 珍しい――」
そこまで言ったところで、明らかに楡矢の顔色が変わった。見たこともない表情だ。強張った頬、唇。楡矢はサングラスを取り、革靴の踵同士をきちんと合わせると、これまでの自由奔放な振る舞いからは想像もできないくらいの、ビシッとした敬礼をしてみせた。
「お久しぶりです。ツゲ少尉」
ツゲ少尉――そう呼ばれたこの女、長い赤髪の女は、楡矢のほうへと横顔を向けた。
「そうかい。きみがこの界隈に住んでいるというのは事実だったのかい」
「少尉……」
「なんだい? 私の顔を見て、緊張しているのかい?」
ツゲ少尉は朗らかに笑った。
「久しぶりにきみの顔が見たくてね。あちこち、洗ったんだ。思いのほか早く見つかって、よかったよ」
「少尉……」
「だから、なんだい? せっかくの久しぶりだというのに、きみは敬礼したまま、それしか回答を持たないのかい?」
「あなたは私にとって、特別なヒトです」
「ああ、そうだね。私はきみより強い。きみが知っていることを私はすべて知っている。四つん這いになって犬みたいに奉仕してくれてもいいんだよ? この女性のまえにあっては、それは気が進まないのかな?」
楡矢はビシッとした敬礼を崩さないまま、「ご住居を教えてください。改めてご挨拶に伺います」と言った。彼らしくない言葉、行動。ツゲ少尉。ショウイ? やはり"少尉"で間違いないだろう。ほかに適切な語句が思い浮かばない。
「私はきみの敵ではないよ。うん、敵ではないはずだ」ツゲはクックと喉を鳴らして笑った。「きみが賢明であるうちは、私はきみの敵にはなりえない」
「申し訳ありません、少尉。ここは退いていただけませんか? 私はいま、この場であなたと殺し合いをする気には――」
「やはりそうか。きみはこの女に惚れているんだね?」
ますます高らかに笑った、ツゲ。
ツゲは立ち上がると、長く赤い後ろ髪を颯爽と揺らし、出入り口へと向かった。ガラスの引き戸を開け、去った、去っていった。
楡矢がありえないくらい、額からだらだらと汗を流している。私は「まずは座ったらどうだ?」と言い、ツゲが座っていた丸椅子に彼を誘導した。楡矢は「恥ずかしいとこ見せてしもたな。ああ、メッチャ恥ずかしい」とくどい言い方をして、頬を張ってやりたくなるくらいの女々しい苦笑いを浮かべた。