プロ野球選手との淡い恋⑧
「とても順調に回復してますよ。明日からギプスは外して、リハビリ始めましょう」
実弥先生の言葉に、光田は思わずガッツポーズが飛び出した。
トレーナーの柴村も安堵の息をもらした。
「よかった。これなら、シーズン後半には間に合う。それに向かって少しずつ調整していこう」
光田は大きく頷きながら「必ず、秋までには戻ります」と気持ちを新たにしたようだ。
そんな2人に実弥は苦笑いをしながら
「少しずつですよ。間に合いますから、焦らないでよ」と今にもし走り出しそうな光田に釘をさした。
部屋に戻りると、ちょうど夕食を配膳していたそよにがいた。
こちらを見るなり、「勝手に入って申し訳ありません」と頭を下げた。
そよの手元にある配膳用のワゴンには大きな薬缶が置かれていた。
金色の重そうな薬缶に水滴が溢れている。
「そんなことありません」
光田の答えに安堵したそよは薬缶を抱えて湯呑みに麦茶を注ぎ夕食の脇に置いた。
「失礼しました」と頭を下げてワゴンを押しながら部屋を出て行こうとした。その時、光田が声をかけた。
「あの...」
そよは足を止めて光田を見上げた。
思ったよりもそよが小さくて、こんなに小さいんだなと眺めてしまった。
ふと我に帰ると慌てて「いつもありがとう」と精一杯の笑顔を込めて伝えた。
そよは丁寧にお礼を言われたことがうれしくて「こちらこそ、ありがとうございます」と答え一礼した。
自分のやっていることで誰かが少しでも喜んでくれたことが嬉しくて、そよは少し泣きそうになるほどだったから、笑顔で隠して慌てて部屋を後にした。
去っていくそよの後ろ姿を見ながら、光田は中学生だったある夏の日の景色がよみがえった。
野球に打ち込んでいた夏の日、よくマネージャーが薬缶に沢山の冷たい麦茶を用意してくれた。
それをみんなに配ってくれて飲んだ。
あの、他愛ない夏の日のセミの声、青い空、海の匂いを含んだ風。
そんなものが何故かそよの姿を見るたびに思い出されるのだ。
プロになってから、周りの景色は一変した。
好きだった野球は好きだけでは済まされなくなった。
必死にやって成績が伸び始めたら、周りにはいろんな人間が寄ってきた。
自分ではなく、プロ野球選手として活躍する自分に。
何とか気を引こうと寄ってくる女性もたくさんいた。
整いすぎた爪や甘ったる香水、媚びた声。
時折甘えたくなっても、それは恋ではなかった。
中学のマネージャーが初恋だった。
首から下げたタオルで汗を拭いながら、ボールの泥を落として磨いている姿が今でも思い出される。
想うだけの初恋は誰にも気づかれずに終わった。
彼女が当時の野球部の先輩と結婚したと聞いたのは、
卒業してから数年後のことだ。
もしかすると、そよにあの頃のノスタルジーを重ねているのかもしれない。
そんなことを思いながら、光田は麦茶を飲んだ。




