むつみの日常
天を突きぬけるほどの甲高い声。それはやがて私の足元に堕ちる。
そして一人が私の後ろに素早く廻り込み、
私のスカートを派手に捲った。サラサラと風が通り抜け、
重たくるしいスカートが、その娘の手で大きく持ち上げられて、私の足を風が浚う。
一瞬の間、私のスカートで彼女達の顔が見えなくなり、
それはやがて何事もなかったかのような顔で、元の位置に戻る。
キャハハハ。また笑い声が空を突きぬける。
「もしかしてノーパン?」
「嫌だー。気持ち悪い」
口ぐちに数人の唇が動く。
そして数人は私の元から掛け足で離れ、笑いながら校舎の中に入っていった。
「ねぇ、ねぇ見た?」
「うん、見た。まじで気持ち悪い」
一人の女子が、私のスカートを捲った女子の腕を掴み、走りながら笑い転げていた。
校舎の中に入り長ったらしい廊下を進むと、向こうに何かが見える。
どんどん近づいていくと、どうやらそれは机と椅子。そしてそれは私のクラスの前にある。
それはまるで投げ捨てられてるかのような格好で、ざんばらにまさしく転がっていた。
それにゆっくり近づいていってそれらを見下げた。そんな私に気付いた金髪の女子が言う。
「ねぇ、ノーパン。それあんたのでしょ。ノーパンそこで授業受けなよ」
それを聞いたみんなが一斉に笑う。
私の机?
これが私の机?
誰が決めたの?
私が買ったわけじゃないのに。
物にまったく愛着などないのに。先生が勝手に決めたんじゃない。
それに私が従わなきゃいけない理由なんてない。
教室の向こうで嘲笑がひそひそ声と重なって聞こえる。
私の中の虫が騒ぐ。
もそもそと動き始める。私は転がっている机と椅子を無視して教室内に入った。
みんなが私を見る。
それと目が合う。
慌てて逸らすいくつもの目。目。目。歪んだ目。
でも私には関係ない。
別にあの場所が私の居場所ではない。
私は鞄を握りしめたまま教室の一番後ろの壁にもたれて立っていた。やがてチャイムが鳴って教室のドアが開く。
「誰なの?あんなところに机と椅子を置いたのは」
先生と私の目が合う。先生は急いで逸らす。
先生の目の玉が大きく一回りする。
そして大急ぎでまた私の目線に戻して今度は私をじっと見る。
「あなたなの?ちゃんと返しなさい。今すぐよ」
私は黙ったまま、数秒先生の目を見つめていた。
先生の目の玉がものすごい速さで左右に動く。
そしてまた焦点を合わせるかのようにじっと私を見つめる。
「早くしなさい」
先生が怒鳴る。
先生の後ろで結んでいたまっすぐで針金のような長い髪がゆらっと揺れる。
早く?
早くということは私が椅子と机を持ってくるのが前提で言ってるのか?この人は。
私はその怒鳴りに反応しないまま、先生の目をじっと見つめる。
「なら、そこに立ってなさい」
私はぼんやりとそこに突っ立った。先生はそれを無視して授業を始めます。と声高らかに言った。
先生の声が教室内に響き渡る。
その声を聞いているのは、一番前に座らされている何人かの生徒だけ。
他の生徒は思い思いにマンガを読んだり、おしゃべりしたり、携帯にヘッドホンを付けて、リズムに体を小刻みに動かしていたりする。
たぶん音楽を聴いているのだろう。
音楽の何が楽しいのだろう。
決まったフレーズの中に仕組まれる決まったリズム、どこかで聞いたことのあるようなメロディー。
そしてありふれた言葉たち。
窓の向こうで規則的な笛の音と共に歓声が聞こえる。
目をやると隣のクラスであろう生徒達がリレーをしていた。
あんな競争の何が楽しいのだろう。勝ったからってなんだったいうんだ。
負けたからってなんだっていうんだ。
足が速いのが何かの自慢になるのか、何かの役にたつのか。
あぁそうか殺人鬼に追われた時に、足の速い方が助かる確率が高いか。
例えば万引きをして逃げる時、例えば逃げ惑う殺したい奴を追いかける時、足の速いのは役に立つか。
しばらくそんなことを考えていると、授業の終わりのチャイムが鳴った。
先生が開いていた教科書を閉じ、そしてふいに私を見つめる。
「机と椅子、戻しておきなさい」
私はそれに答えない。
「聞いてるの?あなたの机と椅子でしょう?戻しておきなさい」
私は答えない。
先生が持っていた教科書を机の上に乱暴に置いた。
ぼこんと音がした。私は怒っているのだという意思表示だろう。
先生がこちらにやってくる。
ものすごい勢いでやってくる。
私はそれをじっと受け止める。
「先生の言うことを馬鹿にしてるの?」
興奮しているのだろう。
いつもよりもっと高らかな声が天井を突き抜ける。
それはまるでヒステリー。
自己防衛。
くだらないプライドの欠片。
私の頭の中の虫がごにょりと動いた。
そして這う。
もそりもそりとごにょりごにょりと。
せっかく虫もおとなしくしていたのに起きてしまったじゃないか。
あんまりにも大きな声で叫ぶから。
先生が私のすぐ目の前にやってきた。
「戻しておきなさい」
先生が廊下に転がっている廊下と机を指す。
怒鳴る。
何をそんなにむきになっているんだろう?
私は虫と共に、そんな感覚を覚える。
先生の後ろで何人かの笑い声が聞こえる。
無数の視線が私と先生の背中に注がれる。
先生はしばらく私を睨みつけ、そしてワナワナと震えた唇をきゅっと噛みしめ、分かったわね。
と、それはそれは低い声で言った。
まるで念を押すかのようだ。その押しつけ。
うざい。先生の目が真っ赤に充血していた。
そして先生は私の答えも聞かず足を動かし、後ろのドアから
教室を出て行った。
教室内から笑い声が溢れる。
窓の向こうでおびただしいほどの陽射しが照りつける。
私はそこでぼうっと突っ立ったまま過ごした。
チャイムが鳴り、今度は男の先生が入ってきた。ドアを開けたと同時に唇が動く。
なんだ、あそこにある机と椅子は。言ったと同時に私の視線とぶつかり、あぁとため息を吐く
。目玉が慌てて私から逸らす。
それから先生は自分が発した言葉なんて、どこにもなかったような顔をして授業を始めますと言い、
自分の教科書を開いた。
「お前達、昨日の宿題やってきたか?」
生徒が答える。
「えー。そんなのあった?」
「なにぃー。やってない? 今からプリントをくばるぞ。昨日の宿題をまじめにやってたら出来る問題ばかりだ」
「えー」
先生は非難の声を無視して、プリントを列の一番前の人に配りだす。
渡された生徒が自分の一枚を取って、後ろに渡す。私にはそのプリントもまわってこなかった。
みんなが急に静かになり、シャーペンの芯を押しだすコツコツとした音や、何かを書いているコンコンとした音だけが教室内に響く。
窓の向こうで笛の音が遠く近く響いて聞こえる。
私はぼんやりとみんなの背中を見つめる。
先生は席に座ったまま顔をあげない。
何かを書いているのかと手元を見るとボールペンを握った手はまったく動いていなかった。
先生がふいに顔を上げた。先生の視線と私の視線がぶつかる。
先生の目がきょろきょろと一瞬動く。
そしてなんにもない宙を見、やがてまた机の上に視線を落とした。
お昼の時間も、私はぼんやりとそこに突っ立ったまま宙を見つめ、みんなのむせかえるほどのおかずの匂い、たとえばからあげの匂い、
たとえばウインナーの匂い、例えば酢豚の匂い、
たとえば卵焼きの匂い、そんなものがくったくったに混ぜ合わさって、まるで誰かが便器に吐いた汚物かのように、それは強烈に匂いを放つ。
そんな匂いに吐き気を覚えながら私は時折、誰かの口元を見つめた。
何かを一心不乱にしゃべりながら、なおかつ口の中に食べ物を放り込む。
放り込みながら大きな口で笑うから、口の中の食べ物が丸見え。
それはノーブラ、ノーパンよりも私には恥ずかしく思えるが、しかし、向こうにはそうは思えないらしく、食べ物をくちゃくちゃ咀嚼しながらも、
直もおしゃべりは続く。合間にジュースのパックを掴み、ストローに吸いつく。
飲み物と一緒に食べ物と言葉をごくりと呑み込み、
いや、あの口から毀れてくるものは、決して言葉ではない。言葉に似たピーチク、パーチク。
まるで雛鳥。親鳥がもってくるものを必死な形相でばかみたいに口を開け続けながら待ち続けるそのもの。
暴欲の塊。
まるでみっともない下品そのもの。
やがてお昼休みも終わり、また退屈な授業が始まる。
能面のような顔の先生が教室を開ける。
生徒たちが先生の顔を一応確認する。
一瞬沈黙が教室内を彷徨う。素早くまたおしゃべりが始まる。それはまるで終わらない儀式。何かを唱え続ける団体。洗脳。
それからも私はぼんやりと何を見るわけでもなく、
空を見上げ、そして時々先生と目が合い、それでも向こうが何か言ってくるわけでもないまま、一日は終わった。
終業のチャイムが鳴ると共に、みんなが弾かれたように立ちあがり、
今日はどこに行く?と口ぐちに言う。
「じゃ、今日はマックでお茶して、それからカラオケ行く?」
「うん、行く行く。明日休みだから今日はオールで」
頭の上にカラフルな大きめのリボンを付けた茶色い髪の、いやどちらかといえば赤毛に近い女の子が、まだぼんやり突っ立ってる私にようやく気付いたような顔をして、私の元にやってくる。
そして私の前にふわりと立ち、
「ねえ、ねえ、なんかここだけ陰気くさくない? なんか幽霊でもいるんじゃない?なんか朝からここだけ空気が違うのよね」
それを聞いた女子二人がやけに嬉しそうな顔をして、私の元に近づいてくる。
まるで取り上げられたおもちゃを返してもらったかのような子供のような笑顔で。
「やだー。ほんと。なんか陰気くさい」
金髪の髪の毛にブルーの花を飾った女の子が、その大きな鼻の穴をもっと大きく膨らませてひくひくさせる。
「てか、ここ実際臭いし」
マスカラとアイライナーを塗りたくった真黒な目が私を見る。あまりにも真黒で瞳の奥が見えない。
「なんかブタクサい。やだー」
それを聞いてまた似たような格好をした女子が笑う。
「キャハ。豚?その幽霊豚でも飼ってんの?それとも豚のおばけ?やだ、やだ」
「あー、ヤダ陰気臭い。やだ、やだ。早く帰ろうぜ」
赤毛に近い女子が、わざと持っていた鞄を大きく振り上げる。
私の頭にぶち当たる。ごつんと音がした。
「やだ、なんか音しなかった?」
金髪の女子が言った。
「嘘?なんかしたっっけ」
赤毛の女子がまた、鞄を大きく振り上げる。
今度は私の顔にぶち当たった。命中した私の鼻が強烈な痛みを感じて、何かを頭が突きぬけた。私の虫が慌てたようにざわざわと動き始める。
鼻の奥がなにやら熱く感じて、気がつくと私の鼻から何かがつーっと毀れた。
あぁとうとう虫が這い出てきた。それは口の中に入る。なにやら鉄くさい。なんかねっとりと私の舌に絡みつく。
あれ?虫って液体なの? それとも空気に触れてしまってなめくじのように溶けちゃった?
私の鼻血に気づいた金髪にブルーの花の女子がにたにたと笑う。
そして私の足に自分の足を引っ掛けて大きく足を振った。私の足が掬われ、私は勢いよく床に倒れる。
「なんか、また音しなかった?さっきより大きな音」
「えー。したっけ?わかんなーい」
赤毛の女子が倒れたままの私の体の上に乗ってがしがしと私を踏みつける。
それに倣って金髪の女子と、同じような格好の女子が私の上に乗り、がしがしと私を踏みつける。
数分が経って、その遊びに飽きたような顔をして、金髪女子が私の上から降りた。
「マック行こう。腹減ったって」
「うん、行こう」
二人も私から降りて、そして三人は教室をズカズカと大きな靴音を立てながら出て行った。