むつみとジルの熱い夏
ただ毎日をダラダラと生きて人間の魂。それはどういう風に表現すればいいのだろう。
自分がダメ人間になっていく恐怖と闘う?
違う。頭の中に虫がいる? それは合ってる。
私の頭の中には虫がいる。何十匹、いや何百匹いるかもしれない。そしてそれは私をダメにしていく。毎日毎日虫が交尾し増えていく。虫が一匹増える度に、私は一
段階段を踏み外す。
堕ちて行く。堕ちて行く。堕落していく。
この世にまともな人間ってどれくらいいるんだろう。毎日、毎日、人が死に、そして生まれる。毎日どこかで、性交が繰り返され、そしてまたくだらない一人が増える。それをじっと見守り続けるこの地球。
あぁどうか、私を解放して欲しい。このくだらない規則と秩序とくそにまみれたこの支配から。
今日も階段の下で、肉の塊に覆われた巨漢が何かを叫ぶ。
「学校に行きなさい」
それはまるで呪文。それはまるで奇声。
それはまるで苛立ちを募らせたクラクション。
階段を一段づつ上ってくる足音が聞こえてくる。それはまるで地響き。暗闇から這いあがってくるゾンビ。形のない暴音の集落。
あぁまた虫が増えていく。頭の中で交尾が繰り返される。
無数の虫の中から出てくる無数の卵。今まさに卵が割れて、陰毛のような足がでてくる。羽はあるのだろうか?
その気色悪い足で頭の中をもそもそと這うのか。
這い続けるのか。どんな形をし、どんな色をしているのだろうか。
きっと見たこともないおぞましい容貌。色。この地球には存在してないような色であり、容貌。そのおぞましい感触に体がぶるっと震える。ドアの向こうで巨漢が叫ぶ。ドアをその金槌のような手で叩く。
虫が這う。無数の虫が這う。
やめてくれ。私は叫ぶ。でもそれは声にならない。まるで内臓を毛の細いブラシでなぞられているかのように、それは気持ち悪い。あの痒いところに手が届かない感覚。どこかが酷く痒くて気持ち悪いのに、どこに手を伸ばしても、そこに行きあたらない気持ち悪さといったらいいだろうか。
「このドアを開けないと承知しないよ」
だみ声がドアの向こうで交差する。ドアがものすごい勢いで揺れる。そのドアがこの壁から離れて、ドアじゃなくなった時点で、この愚かな家も崩壊するだろう。
しかし、ドアは意外に頑張ってくれている。巨漢がドアの向こうで直も怒鳴り続ける。
ドンドン、ドンドン。ドアを叩く。ドアノブをこれでもかと回しながら引っぱり続ける。
そこで、ドアノブにつけていた鍵がくたびれたようにへにゃりと曲がり、ドアが開いた。
巨漢が前につんのめるようにして、この部屋に傾れ込む。
あぁこの鍵もここまでか。まぁ先代よりかは頑張ってくれたほうだ、とくたびれた老人の腰のように曲がった部分を見やる。
巨漢が見つめる。
「早く学校に行きなさい」
口角が下がりに下がり、そして水分が無くなった荒れ地のようなカサカサの唇が動く。
早く? 早くとはどういう意味だ?
それじゃまるで行くのが前提みたいな言い方じゃないか。
私の中の虫がもぞもぞと這う。
ぼうっとしてる私の腕を引っぱり、私が着ているジャージを素早く脱がせ、こんなに汚くしてと。ぼそぼそと呟く。しかも臭いじゃない。
裸になった私の上に制服のスカートを頭から被せ
、そして腰のところで素早くファスナーを閉める。また頭から制服の上を被せ、そして胸元のボタンを留める。床に放り投げていた、それはまるで生理の血のようないでたちで落ちていた真っ赤なスカーフを巨漢が拾い上げ、そして首に廻し、胸元で結ぶ。巨漢の顔が近い。気持ち悪くて吐きそうになる。
脂汗でぶつぶつだらけのその大きな鼻、その垂れ下がった唇。
その白い粉が噴きに噴いたその肌、脂肪で覆われ過ぎて開いているのか開いてないのかさえも分からないほどのその目。まさしく像のようなそのにょき出た二本の足。口元から発せられるその口臭。昨日何を食べたんだと、思わず胸倉を掴みたくなるほどイラッとする。
あぁまた虫が卵から生まれた。陰毛のような足。その足で頭の中をもそもそと這う。
出てくる。出てくる。その無数の虫が、私の鼻の穴から、耳の穴から、目の穴から、毛穴から今にも出てくる。そしてそっと窺う。
この巨漢の顔を。そして慌てて引っ込み笑う。
気持ち悪いぜ、お前も見てみなよと。
巨漢が私の髪をそのグローブのような大きな掌で撫でつけ、そしてぶつぶつと呟く。
「まったくこの子は、まるで生きてる目をしてない」
そしてベッドの隅に頃がしていた鞄を拾い上げ、私に握らす。教科書は入ってるの?
だらんと開いた鞄の口からはみ出ているそれは、決して教科書という代物ではない。色とりどりに彩られた、紙の束に書いてある蛍光灯の文字。死ね、臭い、消えろ。バラバラに切り刻まれたその紙の束が、まるでタコの足の如く、そこから顔を覗かしている。
巨漢はそれに気付いてるくせに気付かない振りをして、私の背中を押す。
「はい、いってらっしゃい」
あまりにも勢いよく押された背中が、部屋のバリケードからはみ出た。素足がバリケードのちょうど上に乗っている。素足の親指の爪が反り繰り返ったままで、私を見つめる。
その場に止まったままの私の背中を後ろからやってきた巨漢が、また押す。
「あなたね、強くなんなきゃいけないの。強くね」
強い? 強いとはどういう意味だ?
強いの反対は弱い。弱いの反対は強い。ただの反対語じゃないか。強いの「強」という漢字には虫が出てくるな。じゃ虫がいるのか。
じゃ私は強い。なんていったって、頭の中で虫を飼ってるのだから。
巨漢が私の背中を押し続ける。その度に私の体が動く。階段のところに来て、私の足が止まる。巨漢が私の背中を押す。私はそこから転げ落ちた。気が着くと目の前に見覚えのある木の板が転がっていて、そのすぐ木の板の上に私の顔があった。堕ちたんだっけ。私の思考が目覚める。巨漢の顔がすぐに私の目の前にやってきて、
もうっぼうっとしてるからよ。
どうしてこうもあなたはぼうっとしてるのかしらね。
と巨漢が私の腕を引っ張る。あちこちが痛い。私の中の虫がこの堕ちた衝撃でどこかに飛んでしまったのではないかときょろきょろしてみる。どこにもいない。
なにやってんの?早く起き上りなさい。
またも巨漢が私の腕を引っ張る。
頭の中を虫が這う。もそりもそりと。
あぁまだいたか。
私は巨漢の腕に引っぱられ、気がつくと起き上って直も立ちあがっていた。
この腕力。
私が巨漢の腕を見つめる。まるで太い棒の如く、それは黄ばんだ半そでTシャツから顔をのぞかしている。
「はい、いってらっしゃい」
巨漢がまたもや私の背中を押す。押された背中は玄関の段差を降りて、巨漢が用意していたスニーカーの上に、これまた都合よく乗っかる。
私はそのスニーカーを履いた。
「帰りは三時ごろかしらね。それまで私出掛けてるから、ここ開かないわよ」
私はそれを背中で受け止めて、ポーチを出て三段の階段を下りた。
ねちっこいほどの熱視線が私を刺す。からすがうるさく泣き喚く。毛穴から汗が噴き出る。
私の足は機械の如く、右を前に出して左を前に出してを繰り返す。どんどん視界は変わっていく
。景色が動く。頭が揺れる。どうやら虫もおとなしくしているようだ。
見慣れた建物が私の視界を捉える。さっきまで寝ていた私の心臓がほんの僅かだが動いた。
私の頭の中の虫が騒ぎだす。どうやらまた交尾を繰り返しているようだ。またメスのお腹から無数の卵が湧きはじめる。私は頭を大きく一回振った。無数の虫も揺れた。
私の後ろで何人かの笑い声が聞こえてきて、それは速足で通り過ぎたと思ったら、急に私の前で立ち止まり、振り返る。その数人の顔が夏の風のように暑苦しい。
そして数人が顔を見合わせて甲高く笑い、一人が私にぐんと近づいてきて、ほくそ笑む。
「ねえ、今日もノーブラ?」
キャハハハ。