第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第百四四話
「全軍、速やかに後退せよ」
よく響く声で言い放ったのは、メルキド軍第五軍団軍師アリー・ゼファーだった。彼らはワイバニア軍と戦いながらも、味方の退却準備を行い、フランシスの攻撃に呼応して一気に行動を起こした。巨兵大隊を先頭に、歩兵、弓兵が続いている。一糸乱れぬ整然とした退却。またたく間にメルキド軍第四軍団はリピッシュ率いるワイバニア第六軍団の攻撃範囲から離れていった。
「さぁ、次の獲物にかかろうぞ」
フランシスは部下に命じようとしたとき、わずかに笑みがこぼれた。ウェルズリーは相棒の表情に首を傾げたが、フランシスの目線の先にあるものを見たとき、彼の笑いの意図を了解した。
「なるほど。これは早くどかねばなりませんな」
ウェルズリーの言葉に、フランシスは小さくうなづいた。全軍移動の命令を出したのは、この直後である。ワイバニア第六軍団の側面を攻撃したフォレスタル第一軍団は次の目標であるワイバニア第八軍団に向けて移動を開始した。
手痛い損害を受け、陣形の再編にとりかかろうとした矢先、ワイバニア第六軍団に不幸が訪れた。メルキド騎兵一個大隊が大きく陣形を乱した最前列のワイバニア歩兵大隊に襲いかかったのである。
メルキド騎兵の蹄がワイバニア兵の甲ごと頭蓋を踏みつぶす。ワイバニア歩兵も、槍を剣に持ち替え反撃する。剣戟の音が前線各所で鳴り響いたが、すぐに止み、メルキド騎兵もまた本隊を追って疾風のように走り去ってしまった。
「やられっぱなしというのも、いささか面白うございません。お嬢さま」
メルキド騎兵の活躍を戦象の窓から眺めていたアリーは彼の袖をつかむ主人に言った。
アルマダで最も若い軍団長は、口をぎゅっと真一文字に結び、アリーを見上げている。アリーの戦術をほめている訳ではない。彼の判断を了承したディサリータだったが、このときの彼女の意識は、忠実な軍師にも、退却する味方にも向けられていなかった。
幼少時代より、彼女の傅役として共に時間を過ごしてきたアリーはディサリータの心情を十二分に読み取っていた。
「ピット卿のことですね」
ディサリータはだまってうなづいた。アリーは主君に目線を合わせるように膝をついた。
「ピット卿はすでに覚悟しておいでです。我々にできるのはいち早く斜面に避難し、ピット卿に感謝することです」
軍師の優しい声に、ディサリータは再びうなづいた。この戦いより前に、フランシスとディサリータに面識はない。しかし、この数ヶ月間に幾たびもの別れを経験した少女は、隣国の老将を惜しんだ。
この後、ディサリータはさらにつらい別れを経験することになるだろう。成人せぬ彼女には酷すぎるかもしれない。戦いに身を置くことのなんと無慈悲なことか。メルキドの若き軍師は否応なく戦場に立たされた少女の運命を悲しまずにはいられなかった。




