第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第百四二話
最も至近でスプリッツァーの命令を受けたのは、ヒーリー率いるフォレスタル第五軍団だった。ハイネ・フォン・クライネヴァルト率いるワイバニア最強の第一軍団と対峙する彼には、あまりにも無茶な命令だった。
「総司令部も時期と相手を考えてほしいよ。まったく」
ヒーリーは命令に悪態をつき、翡翠色の紙をくしゃくしゃにかきまわしたが、これは彼の八つ当たりにすぎなかった。彼もスプリッツァーと同じ立場におかれていたら、全く同じ命令を同じ時期に出していたことは間違いない。それはヒーリー自身よく理解していた。
しかし、理性的な判断と現状が、必ずしも一致する訳ではない。今回のことは、まさにそれであった。
現在、連合軍は絶体絶命の危機に陥っているが、ワイバニアのほぼ全軍がミュセドーラス平野に集結しており、連合軍が斜面への後退に成功してしまえば、この戦いは勝ちなのである。加えて、日も高く、夜も近い。今、作戦を発動しなければ、連合軍は勝機を自らの手から永久に逃してしまうのである。
「軍団長。後退しなければ、我々も危険です。ご決断を」
参謀長のメアリが一歩前に出て、ヒーリーに言った。
「わかっているよ。全軍、斜面まで後退だ」
ヒーリーの命令一下、フォレスタル第五軍団はこの日最後になるであろう、大移動を開始した。
命令を受け取ったのは、ヒーリーだけではない。フォレスタル軍が後退するのと時を同じくして、ワイバニアの包囲にあえぐメルキド軍三軍団長にも、後退命令が届けられた。
もし、千里を見通す能力を持つ者がいたとしたら、このときの三軍団長の表情をみるべきであっただろう。メルキド軍が誇る戦巧者たちは、一様に口を真一文字に結び、重苦しい顔を浮かべていた。一同の中で最年少のディサリータですら、同じ顔をしていた。三人の軍団長と一人の軍師は、その命令を実行することの困難さを誰よりも理解していた。
彼らと対するのは、ワイバニア軍の中でも熟達した用兵の腕を持つ軍団長であり、今もその手腕によって身動きが取れないでいる。ひとたび後ろを見せれば、メルキド軍は総崩れになってしまう。しかし、後退する時期は今しかなかったのである。
旗色に戸惑いの色が見せ始めた頃、フランシス・ピットらフォレスタル第一軍団はミュセドーラス平野北側斜面に身を潜めていた。四十年もの永きの間、生ける伝説の名をほしいままにしてきた老境の武人は、傍らの相棒に尋ねた。
「そろそろかの?」
相棒は無言でうなづいたが、その目には確かな意志の光が宿っている。フランシスは指揮杖を手に持つと、前に振り上げた。
「お前たちの命、わしが貰い受けた! フォレスタル第一軍団、全軍突撃せよ!」




