第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第百三九話
ワイバニア帝国帝都ベリリヒンゲン。その中心にある軍司令部ではワイバニア軍左元帥ハンス・フォン・クライネヴァルトが軍務に追われていた。クリストフより、マリアの無事と暗殺者の死が伝えられたのは、その最中だった。親友からの密書を受け取ったハンスは静かに目を閉じると、何も言わず密書を焼き捨てた。
「南方軍の展開は進んでいるか」
ハンスは左元帥補佐官アントン・メーリングに尋ねた。
「はい。しかし、勅令無しに南方軍全軍を動かしてよろしいのでしょうか?」
「かまわぬ。地方軍は左元帥直轄軍だ。それに、今からでは間に合わぬかもしれん」
ハンスはジギスムントに無断で南方軍一個軍団をメルキド公国に派遣していた。もともと地方軍は地方貴族の反乱鎮圧と災害救助のために編成された左元帥直轄の部隊である。出撃に関して皇帝の勅許を得る必要はなかった。
前線からの情報では戦いはワイバニア軍優位に展開しているが、戦力は拮抗しており、地の利のある連合軍の方が長期戦となれば有利であった。後方から戦局を冷静に分析できる彼にはいい状況とは思えなかった。
「我が軍は勝っております。……閣下は、我が軍が負けるとお考えなのですか?」
「軍人たる者、負ける場合のことも考えねばならん。連合軍は総力を結集している。兵法にも『互いの兵力が同数なら逃げよ』とある。絶対的な数的優位があればこそ、古来よりワイバニア軍は上将であり続けることが出来たのだ」
立ち上がったハンスは窓の外に広がる庭園と青空に目を向けた。
事態はハンスの予想の最悪をいっている。その一つがフォレスタル王国全軍による参戦である。フォレスタル王国はその国力から、出せる軍団は地理的に近い第四軍団のみと考えられていた。しかし、フォレスタル王国は現状保有するほぼ全ての戦力でワイバニア軍との戦闘に突入したのである。
戦争は数と国力がものをいう。先代皇帝アレクサンデルの傍らで政軍両面を補佐して来た忠実な元帥は、そのことを誰よりも理解していた。
「万が一我が軍が敗北した場合、敵は追撃戦を挑んでくるだろう。皇帝陛下をお救いするために、少しでも兵力は必要なのだ」
言葉を紡ぎながらも、ハンスの心中は複雑だった。皇帝ジギスムントのために彼は愛息マクシミリアンを失っている。明敏で、理想に燃え、誰よりも平和と国を愛した息子。皇帝はそのマクシミリアンを殺した。ハンスは息子の仇を守るために兵を出しているのだ。
臣下としての忠誠心と父性愛の間で、ハンスは言い表せられない何かを感じていた。
「閣下?」
「何でもない。決済の書類が山積みだな。くだらぬ無駄話は終わりにして、職務に取りかからねばな」
ハンスはメーリングにそう言うと、作業を再開した。
(わたしも、愚かなものだな……)
実直な左元帥は心の中で自嘲した。