第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第百三八話
「!」
「おぉぉらぁぁっ!」
大男はヘンデルの頭をつかみ、床に叩き付けた。回避することも受け身を取ることもできなかった暗殺者は泡を吹き、無様に床に沈んだ。小さくうめき声を上げたヘンデルをボウガンで武装した兵士が取り囲む。
「手かせと足かせをかけておけ。逃げられないようにな」
ヘンデルを倒した大男が部下に指示を飛ばした。左元帥書記室長クリストフ・フォン・シラーである。内務大臣を暗殺し、内務大臣私邸を襲撃した暗殺者が内務大臣夫人マリア・フォン・クライネヴァルトを再び襲うのは容易に予想できた。クリストフはフィッシャー邸を餌に暗殺者をおびき寄せたのである。
「年の割に無茶をするものだな。治療するこっちの身にもなって欲しいものだ」
ボウガンを構える兵士をかき分け、ハルトムートがヘンデルのもとにしゃがみこんだ。
「まだまだ若い奴らには負けん。それに、殺しちゃおらん。手加減したからな」
「ふん。わたしの屋敷に大穴を開けて……。あとで修理代を請求させてもらう」
「おぅ。名前は左元帥にしてくれよ。俺は、あいつの命令を聞いただけだからな」
からからと笑うクリストフは、すぐに表情を改めた。倒したはずのヘンデルが自由を奪われたにもかかわらず、ゆらりと立ち上がったからである。
「まだ動けるのか……」
警戒していた兵士達がボウガンを構え直した。放射線を描くように矢の先はヘンデルに集中している。フードをおろした美麗な暗殺者の口からは一筋の血が流れ、うつろな眼差しで自分を殺そうとする人の群れを見回していた。
「観念しろ。もう逃げられんぞ」
クリストフの声を聞いた暗殺者は目の輝きを取り戻すと、殺気のこもった眼差しを周囲に叩き付けた。
「フリードリヒ・フォン・ヘンデルだな。内務大臣殺害容疑で我々と共に木てもらおう。ワイバニア刑法第六五条により貴様を拘束する」
ワイバニア刑法第六五条、それは陰謀による大臣間の争いとそれによる国政の停滞を防ぐために設けられたものだった。皇帝すら特赦を与えることのできぬこの法は、クリストフにとって最大の切り札だった。暗殺者には絶体絶命の危機。しかし、ヘンデルは動じることなく、冷笑を浮かべている。クリストフを含め、彼の周囲にいたものは一生忘れることが出来ないであろう。見る者を戦慄させるには十分に恐ろしく、狂気をはらんだ笑みだった。
「大人しく、わたしが来るとお思いか?」
「お前にはいろいろ聞かせてもらう」
「断る。わたしは陛下の影、影は闇に生き……」
「奴を止めろ! 死ぬ気だ」
「闇に死す……」
最後の笑みを浮かべたヘンデルはそれだけ言うと、白目をむき、床に崩れ落ちた。
ハルトムートはヘンデルのもとにかけよったが、すぐに首を横に振った。
「死んだのか……」
「あぁ……」
クリストフの問いに、ハルトムートは短く答えた。ヘンデルの死によって、マリアの危機は去った。だが、戦地から遠く離れた帝都では、未だ帝国内部をめぐる目に見えぬ争いが続いていた。