第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第百二話
相次ぐワイバニア軍敗走に、ワイバニア軍右元帥シモーヌ・ド・ビフレストはいらだちを隠せずにいた。彼女の戦略が揺らぎつつある。各個撃破を行なえる戦力は残っている。しかし、連合軍全軍を押さえ込める兵力までは、最早残っていなかった。
ミュセドーラス平野を臨む丘に彼女は一人立っていた。彼女の正面の平野には八個軍団分の翼竜、約八千が横たわっている。フランシスが打ち上げた閃光轟音弾の影響である。あるものは口から泡を吹き、あるものは爆音の後遺症にのたうち回っている。
”翼竜の国”を意味するワイバニア。その代名詞と言える龍騎兵の現在の姿がある。彼らは懸命に愛騎の治療に専念し、回復に努めていた。しかし、威風堂々とした彼らも、今はあはれという印象である。「空に生き、空に散る」ワイバニア龍騎兵の誇りが文字通り地に堕ちてしまったのだから。
さらに後方には赤い十字が描かれた大きなテントが幾棟も見える。野戦病院である。現在は第十一、十二、二、六、八軍団の負傷兵が数多く入院しているが、その数はさらに増えるだろう。さらに新しい棟の設営が始まっている。
シモーヌは左元帥のハンス・フォン・クライネヴァルトにも劣らぬ軍官僚でもあることを証明してみせた。野戦病院の設置、負傷兵の後送路の確保、補給体制の確立など、後方支援業務を彼女は陣頭に立って指揮した。彼女の他に指揮しうる人材がいなかったと言えばそれまでであるが、戦功や前線の戦闘に一喜一憂していたワイバニア皇帝ジギスムントと比べて、彼女は後方の兵站がいかに大事かということをよく理解していた。
そこには皇帝の情婦としての権謀術数に長けた毒婦としての姿はなく、娼婦の衣をまとった女神の姿があった。野戦病院の傷病兵達の中には、時間を割いては彼らを見舞いにやってくる彼女を好意的に見るものも多かった。
「影よ」
ミュセドーラス平野を吹きすさぶ風を感じたシモーヌは配下を呼んだ。
「これに……」
シモーヌの後ろに伸びる影が盛り上がる。漆黒のかたまりは人の形をなすと、主に恭しく跪いた。
「メルキド軍第二軍団の様子はどう?」
「まだ、動く気配を見せておりませぬ。どうやら、正面の第一軍団の動きを警戒しているように思われます」
主従の間に沈黙が訪れる。風が吹いた。そこに血の匂いを感じ取ったのは、シモーヌの血を好む気性故か、それとも……。風になびくマントを握りしめた女元帥は部下に振り返った。
「時がきたわ。ヴィア・ヴェネトの首を取りなさい。将崩しの発動をウーヴェに伝えるのよ」
「承知」
影は短く言うと、シモーヌの影に取り込まれるように消えた。
妖艶な女将は、唇を舌でなぞった。まるで、獲物を味わうかのように。彼女にとってラグ以外の人間は彼女に供される餌に過ぎないのかもしれない。
ミュセドーラス平野大決戦はさらに混迷を深めていく……。