第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第百一話
「いえ、大丈夫よ、アルトゥル。心配しないで」
「しかし、その様子では、軍団の指揮は……」
「大丈夫……」
アルトゥルはベティーナが自分に言い聞かせているように思えた。何かにおびえているようにも見えた。それは、かわいがっていた後輩の死か。アルトゥルはそれ以上考えるのをやめた。他人の領域を侵してはならない。数十年の軍隊生活で彼はそれを学んでいた。
他人の心の領域を侵すほど、過剰に接してしまえば、それを失ったときの悲しさやさみしさは計り知れない。常に最前線で戦友や敵と命をやりとりをしてきたアルトゥルは幾度も別れを経験してきた。
「わかりました。差し出がましい真似をして、申し訳ありませんでした」
初老の執事を思わせる副軍団長は一礼すると、幕僚の列に戻っていった。シラーの安否確認をした騎兵が、第七軍団本陣である専用馬車に入ってきたのはその時である。
「第三軍団長マンフレート・フリッツ・フォン・シラー閣下、ご無事でございます!」
「本当なの? それは」
「はい、わたしがシラー閣下と直接お会いし、書状を託されました」
騎兵は懐から小さな封筒を取り出した。ろうで簡単な封をしてあったが、その印はまぎれもなく第三軍団のものだった。ベティーナはナイフで封を開け、シラーからの書状を確認した。
「確かに、筆致は第三軍団長のものだわ。第七軍団は後退。敵の追撃が予想されるわ。全軍警戒を忘れないで」
シラーの無事が分かった以上、戦力の合流を急がねばならない。ベティーナは全軍後退を命令した。しかし、斜面の敵が自軍を圧しているため、撤退は困難なものになるだろう。ベティーナは先陣の背後に控えていた第二陣を再編させた。
「敵さん、どうやら退くようだな」
ワイバニア第七軍団の動きを確認したウィリアムは傍らのエミリアに双眼鏡を手渡した。
「そうみたいですね。こちらの出方を警戒して疑似突撃に出るようです」
「何故、わかる?」
「敵第二陣が魚鱗の陣形を形成しました。それも一つではなく三つも。斜面の上に我々がいることが敵は分かっていますから、示威行動と見るべきです。それに対して、わたし達は敵の動きに合わせて後退すれば、損害なく戦いを終えることができます」
「なるほどな……」
ウィリアムは頷いた。ワイバニア第七軍団が全面的な攻勢にうって出たのは、それから十数分後のことだった。双方の指揮のもと、ワイバニア軍とフォレスタル軍は大きな損害も出さぬまま、戦場からの撤退に成功した。