第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第六十五話
「さて、押されるのなら、少し退くか。全軍後退。なるべく潰走を装ってな」
最前線の戦況を確認したリピッシュは配下に後退を命じた。このとき、彼はあたかも自軍を負けて見えるように演じさせた。敵が攻めて来るのなら良し、あからさまな偽装後退を敵が看破し、追撃を諦めるならまたよし。リピッシュは敵に選択肢を与えたのである。
「敵が退却しています。軍師、さらに追撃しましょう」
アリーの隣にいた彼よりも少し若い参謀が声を上げた。もろすぎる。アリーは敵の後退が擬態であることを見抜いていた。このまま敵を追えば、自軍団だけ突出することになり、敵に側面攻撃と包囲の機会を与えることになる。しかし、流れに乗った軍団を止めることは兵達の士気を大きく削ぐことになりかねない。明敏な軍師は迷いを抱いていた。
「ここは、敵の数を減らすことが肝要だ。全軍、さらに前進……」
言いかけたそのとき、ディサリータがアリーの軍服の裾を引っ張った。かぶとを脱ぎ、額に汗を光らせた姫君は無言で首を振った。
「しかし、軍団長。今、敵を倒さねば、敵はすぐに新手をくりだしてきます。早く動かねばなりません」
若い参謀がアリーの気持ちを代弁した。彼の言うことは間違っていない。アリーは心中では彼の考えを支持していた。しかし、軍団長は頑なだった。
「……だめ」
泣き出しそうな顔を必死で押さえながら、ディサリータはアリーの裾を強く握った。アリーは主君のために身を屈めると、彼女に耳を近づけた。
「お嬢様。何か、お考えがあるのですね? どうか、このアリーにお教えください。わたしは何も怒りませぬ故」
ディサリータは顔を明るくさせると、アリーをはじめ、幕僚に作戦を説明した。アリー以外の人間にはほとんど口をきくことのないディサリータは、顔を赤らめながら精一杯話した。その声はとても小さく、聴き取るに難儀なものだったが、彼女の提示した作戦に司令部の幕僚達全てがうなった。
「わかりました。それでいきましょう」
アリーは頷くと、各部隊に対して迅速に指示を出していった。
「……む? 敵軍の隊列に変化があるな。全軍警戒を怠るな。何か仕掛けて来るかもしれん」
敵軍のわずかな乱れを見たリピッシュは敵の作戦を警戒したが、何を仕掛けてくるかまでは予想できなかった。彼は当初の戦術を優先させた。
「軍師、第一騎兵大隊、第一弓兵大隊、ともに準備完了です」
「巨兵大隊の準備はどうだ?」
「まだです!」
アリーは窓から身を乗り出し、司令部大隊前方に展開中の巨兵大隊を見た。まだ陣形が整っていない。この作戦はタイミングが勝負の鍵になる。第四軍団が突出しつつもすぐに退却できる絶妙な時期で攻撃をかけねばならない。鈍重な味方の動きに、いつもは冷静なアリーもいらだちはじめていた。