第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第六十三話
「軍団長、敵左翼に動きが見られます」
副官のエアハルトがマレーネに言った。
「予想通りね。敵の動きに呼応して騎兵大隊に敵左翼と中央部の要に攻撃を加えさせなさい。早く、全力でね。一回突撃したら、全速後退。本隊も同時に退くわよ」
「退却するのですか?」
「そう、悔しいけど、敵も大したものだわ。兵力が少ないわたし達では不利よ」
「ですが、僕は……。第二軍団が負けるのは……」
納得いかない副官の前髪をマレーネはそっと触れた。
「勝とうと思えば勝てるけど、犠牲はきっと大きくなるわ。わたしにはそれが許せないの」
マレーネのもとに伝令兵がやって来る。伝令はラシアン率いるメルキド第六軍団左翼と側面を守る重装歩兵大隊が接敵したことを伝えた。
「あと、少しね……」
ほんのわずかな隙をマレーネは待っていた。左翼の歩兵と中央部の重装歩兵の間に、わずかな陣形の崩れが見えた。
「今よ! 騎兵大隊突撃!」
「な!」
騎兵大隊突撃の瞬間をラシアンは見た。まさに電光石火。陣形の一角が瞬く間に崩れていく。
「戦線を立て直せ! 早く……」
ラシアンは戦線の建て直しを命じたが、それよりも速く騎兵とワイバニア第二軍団本隊が高速で後退していく。その退却戦の手際はラシアンを嘆息させた。
「やられた……。まさに当代の名将だ。マレーネ・フォン・アウブスブルグ……」
「軍団長、追撃戦はしないのですか? 我々は今、敵第二軍団に勝利しつつありますのに……」
ラシアンの背後に控える若者がラシアンに尋ねた。副官のザザである。ザザは若い士官に多々見られるように血気にはやる部分もあったが、ラシアンの薫陶を受けていることもあり、二十代前半の士官の中では冷静な戦術眼を有している人間だった。
「アルバーティン」
ラシアンはザザの隣に立つ参謀長の名を呼んだ。”ラシアン・フェイルードの分身”とあだ名される参謀長はラシアンに一礼すると若き副官に言った。
「たしかに局地戦において、我々は勝利したとも言えるが、戦局全体では話は別だ。我々が追撃をかけると、我々だけが突出することになり、逆に敵軍団が我々を包囲する好機を与えてしまう」
ザザは参謀長の言葉に頷いた。
長身痩躯に小麦色の肌、艶ややかな黒の長髪を持つ美男子。アルバーティンの容貌の記述である。戦場でも式典でも、その美丈夫ぶりは映えたことだろう。
ラシアンもまた、アルバーティンに負けず劣らずの美青年であり、二人が並んだ姿を見た女性兵士達は、その光景にため息をもらすほどであったという。
反面、二人はそのような視線をむしろ嫌悪感を持って見ていた。
「戦いに格好をつけるのは必要だが、それだけでは勝てはしない。軍務に精励しろ」
二人はそのような視線を向けられる度に兵士に苦言を呈した。
ザザもまた、女性兵士の例に漏れず、二人の容姿に言葉を失っていた。
「何だ? 貴官もまた、女達と同じくちか? おれは女に好かれるのは構わんが、男に好かれるのはごめんこうむるぞ」
アルバーティンはザザに言うと、声高く笑った。戦場で笑うのは不謹慎極まる。ラシアンが参謀長を目線一つで制すると、小さく言った。
「この戦いを勝ちとするならば、たしかに勝ちだろう。ともかく負けはしなかったのだからな。つかの間の喜びにひたっても罰はあたらないだろう」
ラシアンの前にはワイバニア第二軍団が見える。寡黙な軍団長はワイバニアの強者を撃退できた喜びをかみしめていた。