第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第五十話
大きな声でまくしたてる若者の声を黙って聞いていたスタンリーは額の汗を拭っていたハンカチを落とした。チェスターは見た。伝説が未だ生きていると言うことを。一瞬でチェスターの視界から消えたスタンリーはハンカチが地面につく頃には、副官の喉元に短剣を突きつけていたのである。副官の首から一筋だけ血が流れる。
「なかなか優秀な部下をお持ちだ。エイプルトン隊長。微動だに出来るとは、相当の訓練を積んできたのでしょう。さて、ジャクソン君、これでわたしの実力はおわかりですか?」
スタンリーはチェスターを見て微笑むと、副官の顔を見上げた。副官は声を出すことはおろか息すら出来なかった。これが参謀の動きか。これがあの腰の低い小男の目か。大隊長など比較にならない底知れぬ戦士の目。気を失いたい。この恐怖から逃れたい。だが、スタンリーはそれすら許してくれそうもない。わずか数秒、いや、一瞬にも満たぬ時間だっただろう。副官は一生分の恐怖を味わった。
「……失礼、大人げないことをしました」
短剣を引き、ハンカチを拾い上げたスタンリーは深々とチェスターに頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、部下の非礼をお詫びします。直ちに準備にかかりますので、少しばかりお待ちください」
チェスターはスタンリーに一礼すると、部下にエスコートさせた。「少しばかり」この言葉はいささか茶を濁らせる言葉でもある。「少しばかり」と言えば往々にしてかなりの時間がかかるものである。しかし、チェスターは極めて短時間で戦闘準備を整えてのけた。これはもともと、陣地に到着してなお、臨戦態勢を解くことを許さなかったチェスターの判断によることが大きかったが、彼の能力と彼を中心とする騎兵大隊の結束の強さがものを言った。チェスターの部下達は彼の信頼に応えたのである。
その展開の速さはフォレスタル最速の第四軍団をまとめていたスタンリーをも驚かせた。
「素晴らしい。我が第四軍団にも優る手際、感服しました」
「いえ、まだ未熟者故、課題も多くあります。ところで、我々はいかが動きましょう?」
スタンリーはチェスターに大隊の主立った指揮官を集めさせると作戦を説明した。現在、ワイバニア第十二軍団はフォレスタル第四軍団の前後を分断しようと第四軍団右翼方向から二個大隊を投入させている。このまま、第四軍団が分断されると、それぞれ戦力を半減させられた上に各個撃破されてしまう。しかし、今このときにこそ、勝機がある。幸運なことに後続のワイバニア第三軍団は進撃速度を鈍らせており、合流に時間がかかる。加えて、第十二軍団は左翼の兵力を投入したため、その陣形は大きく乱れている。よって、フォレスタル第五軍団第一騎兵大隊は、第四軍団を分断する敵軍の背後を急襲し、敵が動揺したところをついて、さらにその前衛を切り崩し、第四軍団後退の時間を稼ぐと言うのが作戦内容だった。
騎兵大隊の指揮官達は腕を組んだ。綱渡りのような作戦だった。現在の戦況であるから可能な作戦であり、第三軍団が進撃速度を速めても、第十二軍団が陣形の隙を直してしまえば、この作戦の優位性は極端に低下する。一秒でも悩んでいる暇はなかった。
「作戦に賛成の者は挙手してくれ」
チェスターは各指揮官に挙手を求めた。反対する者は誰もいなかった。その代案を提示する暇も、代案もなかったためである。チェスターは各隊の指揮官をくるりと見回すと、直立の姿勢を取った。
「第一騎兵大隊、出撃!」
指揮官らは敬礼をもって応えると、すぐに自分の束ねる部隊へと戻っていった。戦いの第二幕が上がっていく。