第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第三十二話
「そこにいたのか」
馬車の陰でひとりうなだれていたアルバートに、ローレンツが声をかけた。
「こんな風に声をかけたのはイングリッドが死んだとき以来だったな。お前はあのときも、涙を流さなかった。ただ、一人になってただけだったな」
ローレンツは参謀の仮面を外し、一人の男として、士官学校の同期、ローレンツ・フルトヴェングラーとしてアルバートに語りかけた。
士官学校を卒業をすぐ、アルバートはイングリッドと言う名の上官と恋に落ちた。それは甘く、悲しい恋だった。他国との戦争の中、いつ死ぬかわからぬ二人は逢瀬を重ねる度に愛を育んでいった。彼女と結婚が決まりかけた矢先、彼らに出撃の命令が下った。
メルキド公国軍一個軍団の激闘。彼らは果敢に戦った。しかし、愛し合う二人に戦場は容赦してくれなかった。小隊長だった彼女に幾本の矢が襲いかかった。彼女はその多くを盾で防ぎ、さらに剣でたたき落とした。しかし、残る一本がイングリッドの胸を貫いた。
アルバートは彼女に駆け寄って、抱き上げた。イングリッドを射抜いた矢は的確に彼女の急所を貫いていた。助からぬ命と悟った彼女は恋人の頬に手を当てると、そのまま力尽きた。
アルバートは彼女の死にわずか数秒だけ、戦いを忘れた。澄み渡る青空の下、彼は獅子にも似た咆哮を放った。
戦争はワイバニア軍の敗北に終わった。敵方の巨兵大隊の投入が、あまりにも決定的だった。巨象の群れと、統率された石兵集団が、ワイバニア軍の戦線を、文字通り踏みつぶしたのである。
敗北感にうちひしがれ、ベリリヒンゲンへと帰還する途上の野営地で、ローレンツはアルバートを見舞った。野営地の一隅、誰も寄り付かない陰の中、アルバートはいた。半身に近い恋人の死に涙すら流さず、肩を震わせ、深い悲しみと怒りを心の中に閉じ込めているようだった。
今のアルバートも同じ姿をしていた。大切な人を失った悲しみと怒りを、心の奥底に封じ込めて、じっと耐えていた。
「泣かないのか?」
「あぁ、泣かないんだ」
ローレンツの問いに、アルバートは返した。
「泣いてしまったら、涙と共に、思い出も、悲しみも怒りも、全て流れ出てしまう。そんな気がするのだ」
「アルバート……。お前は、ヴァントを。ギーゼラ・ヴァントを愛していたのか?」
「おれには分からなかった。彼女の思いには気づいていたが、どう応えたらいいかわからなかったのだ。だが、彼女の最後の言葉を聞いたとき、おれは気づいたのだ。おれは、おれは……」
ローレンツはそれ以上、なにも訊かなかった。泣かないと心に誓っていた戦友の肩が、わずかに震え出した。小さな嗚咽が聞こえてくる。ローレンツはアルバートの肩に手を置いた。
「悲しいのなら、思い切り泣いてやれ。アルバート。それが唯一、彼女の想いに応えてやれることだ」
「お、おぉぉぉ……」
アルバートは泣き崩れた。愛する者を失った心の隙間を埋めるように。アルバートの涙が、ミュセドーラス平野の大地を濡らしていた。