第六章 ミュセドーラス平野大決戦! 第二十四話
小さな渓谷では、時折強い風が吹く。平野の外で吹く弱い風が狭い谷間によって増幅されるのだ。音を立てて風が煙幕を吹き飛ばした。
「……風が、煙を……」
ギーゼラは空を見上げた。白い煙が晴れ、青く澄んだ空が見える。戦いの無いときもあるときも、ギーゼラは空を見るのが好きだった。どうしようもない殺人者でも、空は優しく包み込んでくれる。このときもギーゼラは空に救いを求めた。しかし、空はときに無慈悲な姿を見せることもある。
谷の上に千を超える兵士が長弓を構え、眼下の第十一軍団に狙いを定めていた。前方にも完全武装の歩兵が弓を構えて威嚇している。第十一軍団は包囲のただ中に置かれたのである。
「ザビーネ……」
何も言えず、立ち尽くす軍団長の肩をギーゼラは叩いた。この戦いはもう負けだ。ザビーネの命も自分の命も既にアンジェラの手の中だ。ザビーネ自身もよくわかっているはずだった。
「龍将三十六陣、臥龍……。見よう見まねですが、こんなもんでしたかね?」
谷の上でレイは隣のアンジェラにウィンクした。轟音閃光弾が炸裂する直前、アンジェラは渓谷の上に戻っていた。彼女は副官を驚きと賞賛の入り交じった表情で見つめた。臥龍は上と左右、前から立体的に敵軍を完全包囲する戦術である。地の利を使ったとはいえ、タイミング、その極意をレイは完全に理解し、それを再現して見せた。士官学校時代はヒーリーをも凌ぐと言われた若き戦術家は、その才能を余すこと無く発揮したのだった。
「……今日ほどお前を見直したことはないぞ、レイ」
「大したことありません。きっと、ワイバニア第一軍団なら、もっと上手にやれたことでしょう」
「見たこともないのに、よくできたものだ。第一軍団は、三十年来、一度もベリリヒンゲンから出たことがなかったというのに……」
「文献ですよ。士官学校に残されていた史料から見ました。これを抜け出せた軍団はありませんでした。……ただ一つをのぞいて」
「フォレスタル第一軍団……」
副官はだまってうなづいた。
「当時、第三軍団長だったペンドルトン卿がいなければ、第一軍団も全滅していたでしょう。恐ろしい戦術です。……連隊長、あとは翼を閉じるだけです」
「あぁ、だが、待ってくれ」
「連隊長!」
レイにはアンジェラのすることが予想出来た。あまりにも危険だ。前を歩くアンジェラをレイは追った。アンジェラは兵をかきわけると、ザビーネの前に出た。恐らく最後になるであろう、二人の会話の始まりだった。