第一章 オセロー平原の戦い 第二十七話
一瞬、ヒーリー軍からの矢の攻撃が止んだ。おそらく、ほんの5秒ほどに過ぎないであろうが、このとき、対峙した両軍の時は止まった。
「全軍、かかれ!」
永遠にも似た刹那の静寂を破ったのはジークムントの号令だった。ジークムントの本営から宝珠を持った翼竜が描かれたワイバニア帝国の紋章旗がひるがえった。全軍総攻撃の合図である。
オセロー平原にずんと大きな音が一つ響き渡った。さながら巨人の足音に似たワイバニア軍七〇〇〇名の足音は初めはゆっくり、しかし、歩が進むに連れて早くなっていった。ワイバニア軍七〇〇〇名がヒーリー軍二〇〇〇名に突進攻撃を開始した。
「全軍後退! 急げ! 退くんだ!」
怒りに満ちたワイバニア軍の突撃を見たヒーリーはすぐに全軍後退を命じた。重装歩兵や歩兵に弓兵が近接戦闘でかなう道理がない。ヒーリーの判断は正しかった。
「ははは! フォレスタル兵どもめ。我々に恐れをなしたか。だが、もう遅い! 全軍奴らを全滅せよ」
力の奔流。ヒーリーは自分たちを猛然と追ってくるワイバニア軍を見てそう思った。ヒーリーは全速力で逃げるように配下の弓兵大隊に指示を出した。その隊列は列の形をなさず、まるで、猛獣に追い立てられるかのようなていたらくであった。
「ははは。なんだ。あの無様な逃げ方は。我々と正面切って戦えんとは」
ジークムントはフォレスタル軍の逃げ様に笑い、部下をけしかけた。ワイバニア軍の追撃速度はさらに増したが、隊列が乱れ始め、さらに陣形自体も長く伸び始めていた。
ヒーリーはワイバニア軍の陣形の乱れを見て、にやりと笑った。実はこれこそがヒーリーの狙いであった。隊列が整えられたまま攻め込まれたのでは、数と武装に劣るヒーリー軍に不利は免れない。数の劣勢を局地的にでも覆すためには、敵兵達を怒らせ突撃隊形を乱す必要があった。騎兵隊と龍騎兵隊を壊滅させたのも、実はヒーリーの布石の一つに過ぎなかった。
だが、ただ怒らせたのでは決定打にたりず、司令官も馬鹿ではないため、いずれ気づくことは明白だった。そのため、ヒーリーはさらに持ち前の悪知恵を働かせた。それが、隊列を無視しての全速力の逃走だった。ヒーリー率いる部隊を弱兵に見せることで、ジークムントに自分たちが勝っているという認識を植え付けることに成功させたのである。
こうして、ヒーリーの罠にはまったワイバニア軍主力は、次第にその隊列を乱し、陣形が前後に伸び、ほころびを少しずつだが確実に生じさせていた。
「もう一息だ。皆。頑張れ」
背後にワイバニア軍の大軍が徐々に迫るなか、ヒーリーは部下達を励ました。前方に味方の軍勢を見たとき、ヒーリーも、疲れが見え始めた兵士達も瞳に輝きを取り戻した。
補給と休息を整えた一個弓兵大隊がヒーリー達の眼前に現れたのである。