第三章 メルキド侵攻 第二十六話
「……ロークラインを放棄する」
メルキド総帥スプリッツァーが静かに口を開いた。その一言はスプリッツァー以外の八人を驚愕させるに十分な内容だった。
「公都を放棄すると言うのですか?」
第四軍団軍師のアリー・ゼファーが椅子から立ち上がった。立ち上がったアリーの軍服の裾を少女の手がつかんだ。今年十五歳になる第四軍団長のディサリータだった。ディサリータはアリーを見上げると、不安げな顔でふるふると首を横に振った。
「お嬢様……」
アリーはディサリータの言わんことを理解すると静かに席についた。
「軍師が驚くのも無理はない。北方にはアーデン要塞があるとはいえ、アドニス要塞群を落とし、領内に侵攻した敵の進撃速度を考えると、ひと月でロークラインの包囲を完了するだろう。そのときにフォレスタルからの援軍が到着したとしても、勝ち目は薄い。ならば、我々はさらに奥地まで軍を退き、フォレスタルの援軍と合流した後の決戦に賭けるべきだ」
メルキドの若き総帥は円卓を囲む軍幹部達に自らの考えを述べた。
「総帥のお考えは理解出来ました。しかし、問題点がふたつあります」
第六軍団長のラシアン・フェイルードが重く閉ざしていた口を開いた。
「ひとつは決戦場をどこに指定するか。そして、もう一つがアーデン要塞に誰を派遣するかということです」
ラシアンの言葉に彼以外の軍団長は動揺を禁じ得なかったが、ラシアンは構わずに話を続けた。
「決戦場を後方に定めるとして、やはり少なくとももうひと月は時間が欲しい。そのためには、我ら六人のいずれかをアーデン要塞に派遣し、守備兵と合わせて、ワイバニア軍を足止めしなければなりますまい」
スプリッツァーは目を閉じてラシアンの話を聞いていた。スプリッツァー自身、この言葉を口にするのを何よりもためらっていた。この局面での軍団長のアーデン要塞への派遣は軍団長の一人に「死ね」と言うに等しいことだった。