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「ねえ、ランマ!」
奏を送り届けてからしばらく。蘭丸の家に到着するなり、コートを脱ぐ蘭丸に向かってフェイが呼びかけた。
フリフリと尻尾を揺らしているのは可愛い。可愛いが、その前に物申さん。
「俺の名前は蘭丸!間違えるなよ」
「ルがあるかどうかだけじゃん。気にしない気にしない!」
「おい!」
人の名前をなんだと思っているのか、と突っ込みたいが、フェイの愛くるしい瞳に見つめられると黙るしか無くなる。
「それでさ、ランマとカナデは恋人同士なの?」
「……は?」
突飛な質問に首をかしげると、フェイはぷぷっとからかうように笑った。
「カナデ、帰り道ずっとランマのこと見てたよ。ねえねえ、ランマはカナデのこと好きなの?」
「なっ、そんな訳ねえだろ。あいつはただの幼馴染だ」
「でもでも、カナデはランマのこと、好きだと思うなあ」
「……そうか?」
そうなると、なぜか少し嬉しい。いつもしかめっ面をされるからだろうか。
口元を緩ませ、洗面所に向かう。そして手を洗い、うがいを始めた時だった。
「思えばケイタは可哀想だったなあ」
「んぐっ」
唐突な英雄の登場に、蘭丸は口の中の水を丸呑みしてしまった。細菌もろともお腹の……というのは後にして。
「な、なんで久寺さん⁉︎」
「えっ、だってケイタはいっつもスズリのそばにいたよ?」
「いやまあ、そうだけど!そうだよな、うん!」
しかし、可哀想とはどういうことか。
それを問いかける前に、フェイは自分から言葉を続けた。
「ケイタはね、絶対スズリのことが好きだと思うんだ。でもさ、スズリは全く知らんぷりで、ケイタの気持ちに気がついてないんだよ。ヒドイと思わない?」
スズリは案外鈍感だよねー、と頬を膨らませてケイタに同情するフェイは……とにかく可愛かった。
「可愛いなあ、お前ー!」
「うわっ、手ビショビショじゃん!やめて、濡れる!」
フェイを抱いて頬ずりをする蘭丸に、フェイの必死の抵抗が返される。そんなくだらぬ攻防は、洗面所でしばらくの間続いた。
*****
翌日、フェイの寝床についての攻防のせいで寝不足になった両者は、寝ぼけ眼のまま外出していた。フェイが突然蘭丸を連れ出したのだ。
「フェイー、俺寝不足なんだけど」
「ランマが僕を布団に引きずり込もうとするからでしょ。ジゴウジトク!」
「自業自得って……。というか、今どこに向かっているんだ?」
蘭丸は既に、フェイに目的の駅を教えられ、ガラ空きの電車に乗っていた。人が他にいない車両だが、フェイは蘭丸の隣で念のため姿を消している。便利な能力があるものだ。
フェイはどこか意味深に笑い、ただ一言だけ、「あ、カナデも呼んで」と言った。訳もわからず奏に連絡し、端末越しに「訳わからない」と切れられながらなんとか招集をかけた。
「ちゃんと、奏の毒舌攻撃を受ける価値のある目的だろうな……」
「多分ねー。僕はただ行きたいだけで、人数多い方があっちをびっくりさせられるかなって思っただけだから」
「はあ?」
これで、万が一しょうもない目的であれば、フェイには一日中撫で回すことを許してもらおう。
はあ、とため息をつき、窓の外を眺める。見る限り、この辺りは住宅街だ。誰かに会うのかもしれない。そう思い至ったとき、蘭丸の胸は微かな期待で躍った。
*****
閑静な住宅街の中にある、小さな駅で電車を降りた蘭丸は、その場で奏を待ち、しばらくの後に仏頂面の彼女を迎えた。
「せっかくの休日に、こんなところに呼び出して、一体何のつもり?」
「フェイが呼べって言うから呼んだだけだよ。俺だって訳わからないんだ」
「フェイ、どういうことか説明して」
「説明するより行った方が早いよ。ささ、早く行こっ」
人間達からの冷めた視線をまるで気に留めず、フェイが軽い足取りで歩き出す。その歩みは思いの外速く、二人は小走りに追いかける羽目になった。余程楽しみなのか、歩きだしてからのフェイは少しも蘭丸達に目を向けず、まったく歩調を合わせようとしない。
「フェイ! もう少しゆっくり歩けよな」
「むーりー。ゆっくり歩いたら道忘れそうだもの」
そんなことをのたまうフェイは、耳をピンと立て、真剣そのものの顔で周囲に気を配っている。言っていることに、嘘はないらしい。
「ここを……や、あっちかな? あれ? こっち?」
快調に歩みを進めていたように思われたフェイだったが、とある分岐点に到達した途端、ぴたりと足を止めた。
「……フェイ~、これだけ歩かせといて迷ったとか、冗談じゃないぞお前」
「迷ってないー!ちょっと休憩してるだけ!」
いや、迷っている。絶対迷っている。その証拠に見事な潤目だ。
「こっちのはずなのにい……」
耳と尻尾をだらんと垂らし、見るも哀れに項垂れる。
と、その時だった。
「……フェイ?」
フェイの鼻が向いていた方角から、低い男声が飛んできた。
一同素早く目を向け、その声の主を認めた瞬間、フェイが駆け出した。
「ケイター!」
「うおっ、やっぱりフェイか。久しぶりだな」
「ひさしぶりー! ケイタ、変わらないねえ!」
「お前の方が変わってねえよ」
胸元に飛び込み、猛烈な勢いで尻尾を振るフェイを抱きとめ、穏やかに微笑む青年。その顔をまじまじと見つめていた蘭丸達は、徐々に目を見開いた。
「嘘だろ……く、久寺、経太さん?」
「なんで、こんなところに……」
フェイの様子から、目的地に彼がいることは薄々勘付いてはいた。しかし、実際に目にしてみると、やはり夢かと思ってしまう。
え、本物?と二人で囁き合っていると、青年の目が二人に向き、声がかかった。
「二人がフェイを連れてきてくれたのか?」
「へっ⁉︎ あ、はいっ!」
顔良し声良し威厳ありの青年に突然話しかけられ、二人の背筋がピンと伸びる。
青年は二人の頷きに目を細め、優しい目で笑った。
「そうか、わざわざ悪かったな。任務でもないのに」
「に、任務?」
どういうことかと二人で首を傾げれば、青年は笑みを悪戯っぽいものに変えた。
「二人とも、WMUのメンバーだろう?」
「なっなぜそれを!」
二人は制服姿でもなければ、WMUでの顔見知りでもないはずだ。青年が二人の身分を知るすべは……
「簡単なことだよ。フェイが地球に来るとしたら、こいつのことだから真っ先にWMUの本部に顔を出す。そこに涼有がいるって思うだろうからな。フェイと知り合うなら、その時しかない」
「外で知り合った、という可能性もあるのでは……」
「フェイは基本、外で一人歩きする時は姿を消すからな。WMUの施設の外で知り合うことは、まずないだろう。あと、俺達は初対面ではないだろう、伊賀崎蘭丸?」
「ひぇっ⁉︎」
青年の、さも当然というような口ぶりで放たれた台詞に、蘭丸の心臓はコンマ数秒止まった。
今、彼はなんと仰ったか。伊賀崎、蘭丸?つまり名前。自分の名前だ。名前を英雄が口にしてくれた。たった一度の会話を、しっかり覚えていてくれたのだ。
「は、はいっ、伊賀崎蘭丸です! お会いするのは二度目です! 光栄です!」
「はは、そんな硬くなるなって。……で、一緒にいるお嬢さんは?」
「あっ、三垣奏と申します。よろしくお願いいたします」
「三垣奏さん、ね。久寺経太です、よろしく」
知ってます! と蘭丸、奏二人揃って胸の内で叫んだ。改めて名乗られてはあまりに恐れ多い。
「せっかく来てくれたんだ、大したものは出せないが、お茶くらい飲んで行ってくれ」
経太は二人の反応を待たず、胸元のフェイと話しながら踵を返した。
これは、行くしかない。
蘭丸と奏は顔を見合わせ、頷きあってから経太の後についていったのだった。