プレコとゴキブリタイプライターとサラリーマン
ピンポンと繰り返される音。改札口への案内と交互に流れる。駅のホームには私だけだ。時間が時間だから仕方がないだろう。真っ昼間に、こんな寂れた町の駅を誰が使うのだろうか。客がいないから、電車の本数も必然的に少なくなる。どこの世界でも当たり前のように切り捨てられる。私が電車を10分も待ちたくないと懇願したとしても、電車のダイヤが変わることはない。所詮は少数派に優しくない社会なのだから。だから、誰もが同じ髪型、同じ服装、同じ化粧、まるで軍隊のように町を闊歩する。どこの世界でもありふれたことだ。道から外れた人間は外道と呼ばれ、指差され、笑われる。笑われるのが嫌だから、個を殺す。個を殺すことは自分の存在を否定すること。自分で自分を否定し、それが正しいと信じこみ、安心を得る。本当に正しいことが何かをも知らないまま。ネットもそうだ。多数派に迎合する意見を匿名で流し、いいねの数が自分の評価。誰がつけたかも分からないいいねに喜び、ひけらかす。実在する友人の言葉より匿名のいいねを信じるなど馬鹿げていことだが、現実にそれがその人間の価値となるのだ。匿名の友人がいいねをつけなければ、ブロックすればいい。ワンクリックで視界から消え去る。自分にとって都合のいい人間だけ拾い上げ、都合の悪い人間は排除する。この国の政治も似たようなものだ。志した目標が同じでも、信念が違えば、道を違える。目標が同じであるなら、違う信念でもいいじゃないか。信念を戦わせて、より高みへと向かえばいいではないか。そうすることが国民に選ばれた政治家ではないのか。それがよりよい国造りへの1歩になると思えて仕方がない。片寄った考え方ではあるが、少数派の意見ではあるが、私は考える。ようやく駅のホームに電車がやってきた。四角い電車は牢獄のように思える。就職活動の学生だろうか。誰もが同じ格好で椅子に座り、スマホを凝視する。スマホの小さな液晶画面の中には宇宙的な規模のデータベースがあり、誰もがキーワードでほしい情報が取り出せる。国内だけでなく、海外の情報も許される限り得ることができる。そこで得た情報が全て真実ではない。だが、それを真実と信じこむ人間は大勢いるだろう。真実には理論的な裏付けが必要であり、それを信じるに値する裏付けの取れない真実であることを忘れてはいけない。
記憶に残る駅名が流れる。駅名は自分のいる場所を認識させてくれる。四角い牢獄の走る振動はリズミカルで心地がいい。同じ髪型、同じ服装、同じ化粧と、まるで軍隊のようだと視界に映る景色を下卑たが、私もコートとネクタイとビジネスバックを持ち、どこにでもいるサラリーマンにしか見えない。名刺だけが存在を認識する証明。○○株式会社事業部という肩書きがこの社会で存在を許される、唯一無二のものであり、以外に存在価値を見出だせない。仕事という基本的なルーティンワークが正しくて、そこでのみ呼吸ができる。水槽の中で生活するプレコと同じだ。プレコは水槽のガラス面の苔を食べる。その仕事をひたすら実行し、育つ。そして、水槽で飼えなくなる程大きくなれば、川に捨てられる。川では外来種という汚名をいただき、駆除されるべき対象として認識される。在来種を絶滅させてしまからだ。弱い在来種が悪いのか。強い外来種が悪いのか。育てきれなくて、捨てた人間が悪いのか。よくある理論だが、君は悪くないんだよと言いながら、人間は外来種を駆除する。水槽のガラス面の苔を食べていた頃、ガラス面に見える口許が愛くるしいと喜ばれ、飽きるまで見ていた。でも、水槽の中で大きく育ち、プレコは可愛い愛玩ペットではなく、醜悪な怪物に見えてくる。いつかガラス面を破壊し、水槽を飛び出してくるのではないか。人間は恐怖を優しさにすり替える。君は狭い水槽よりも大自然の川で生きた方が幸せなんだよ。プレコは何も分からないまま、深夜の散歩に連れていかれる。いつもと違う景色、街灯が道路沿いに平行に連なる。アスファルトで舗装された道路の先、川の匂いがする。ビニール袋の中で黒い瞳に街灯が眩しい。人間を見た。人間はプレコを見ない。水面が風に揺れる音。木々が囁くのは外来種であるプレコを警戒するせい。プレコの黒い瞳には希望があるわけではない。絶望があるわけではない。あるのは酸素が少なくて息苦しいという生きるための感覚だけ。ビニール袋の酸素も残り少なくなった。そろそろ酸素が全身に行き渡らなくなり、動けなくなる。その時だった。ビニール袋がはぜて、プレコは川の中に落ちていく。夜の静けさにz水がはぜる音がひ響く。人間は懐中電灯で川を照らす。水槽と違う景色の中、プレコは泳いでいく。見慣れない世界に戸惑うことはなかった。雄大な身体をうねらせ、居心地がいい場所を捜す。酸素が補給されて、身体に行き渡る。ここはどこなのか。そんな感情もなく、生きるため、食べ物を探す。川底にはたくさんの苔があった。食欲を満たすため、たくさんたくさん苔を食べた。見たことのない小魚がいたが、見たことのないプレコの存在に気付いて逃げていく。君が悪いんじゃないよ。人間は言う。君は大自然の川の方が幸せなんだよ。人間は言う。確かに息苦しい水槽よりも心地がいい。そして、プレコは川の主となった。私も一緒だ。プレコのようにいつか捨てられる。仕事ができなくなったら、仕事を失ったら、存在価値がなくなり、捨てられる。それまで生きる。それだけなのだ。だが、プレコのように川の主にはなれないだろう。
希望もいらない。絶望もいらない。ただ生きるだけ。生きるということは呼吸をし、栄養を補給し、排泄を繰り返すということだ。そして、食物連鎖の中で存在価値を見出だし、いつか誰かに食べられる。人間であれば、人間を食べる天敵はいない。死した後、土の中で微生物がその残りカスを分解し、他の生物の肥やしとなる。人間はそれを認めない。家族を持つこと。有意義な人生を送ること。世界に名前を残すこと。生きているだけじゃ駄目だ。もっと人間として向上しなくてはならない。無能ではいけない。優秀でなくてはいけない。仕事でもそうだ。成果が仕事の基準で、成果が上げられない人間は淘汰される。ある種、食物連鎖だ。食べられないが、食べる物を与えられず、餓死するだけ。仕事をしなくては。仕事をしなくては。成果を上げなくては。ようやくであるが、四角い牢獄は脚を止める。リズミカルな振動が一瞬にして消滅し、ドアが開く。空気が外に抜け、誰もが立ち上がり、吐き出されるように足を進める。その先にはプレコの暮らしていた水槽があるだけなのに。
革靴はサラリーマンの証明と水虫の巣窟。磨り減った踵が頑張りの証明ではない。目に見える成果が頑張りの証明。縁の下の力持ちは影の中で評価などされはしない。じゃあ、どうすればいい。水虫の巣窟の革靴を脱いでも変わらない。ネクタイを外してもクールビズ。駅の出口へと階段とエスカレーターを併用し、向かう。地下の薄暗い明かりが少しずつ離れていく。革靴の足音、レールから伝わる振動、イヤホンから漏れる雑音しか耳に入らない。みんな口を接着剤で留められたように言葉を吐かない。言葉を吐かなければ、忘れてしまう。忘れてしまえば、意思の疎通ができない猿のようだ。だが、私達人類は言葉を吐かなくても、意思の疎通ができる。インターネットだ。言葉をデジタルに変換するだけで、感情は伝わる。伝わった言葉は記憶よりも記録に残り、責任が生ずる。あの時ああ言いましたよね。こう言いましたよね。あなた同意していますよね。この世界に生きていく以上、責任が重くのしかかる。商品を買えば、説明責任が生まれ、同意責任が生まれる。理解できなくても同意をしなければ前へ進めない。インターネットは便利だ。調べれば、何でも答えてくれる。言葉も、映像も。行きたい旅先の映像を見れば、行った気持ちになり、勘違いさせられる。だが、そこにも同意が必要で、同意をすることでようやく前に進める。あの長たらしい同意書の文面は説明責任のため。売る側の鎧みたいなものだ。鎧は屈強で、兵士ではない一般人には歯が立たない。泣き寝入りするしかないのだ。この駅のエスカレーターだって様々な注意書があり、注意しましたので、後は自己責任ですと言っている。戦争もなく、平和であるが、デジタルな地雷はどこにでもあるのだ。エスカレーターは静かに動く。人の動きに反応し、動いて、止まる。その繰り返しの毎日だ。左側が上り、右側が下り、この地域の常識の通り、黙って列が作られる。薄暗い明かりが霞ませる日差しが入ってくる。3月だというのに、もう桜が満開で、ピンクの花びらが風に舞う。 風に乗って、桜の匂いが私を包む。太陽はビルの合間に浮かび、紫外線という光線をだし続けている。駅を降りて徒歩5分。私の目の前には勤務する会社が桜色の街に誇らしげに建っていた。
遅出である私に遅出の優越感はない。むしろ遅出の罪悪感の方が強い。誰もが朝から仕事をしている。私はスタートすらまともにきれないランナーで、役立たずにしか思えない。ローテーションだから。シフトだから。そんな言い訳も残念ながら私を楽にしてくれない。オフィスにはスーツという戦闘服を身に纏った兵士が6人いた。ある兵士は電話を取り、ある兵士はパソコンを睨み付ける。どこのオフィスにでもある風景で、ありふれたものだ。テレビドラマみたいに嬉々とした空気も、殺伐とした空気もない。私は机に鞄を置いた。電話と一体化した兵士とパソコンと一体化した兵士の邪魔をしないようにお疲れ様ですと小さく言う。電話の兵士は視線で答えて、パソコンの兵士は会釈で答える。他の者も小さく頷いた。それぞれがそれぞれの仕事に従事し、この会社は回っている。人体の不思議的に考えれば、社長が頭で部長が心臓、課長が肺で、係長が肝臓か。このオフィスの兵士達は重要な臓器ではなく、再生可能な皮膚というところか。私も含めて、傷を負っても、へっちゃらな人体の一部分にしか過ぎない。かといって、肝臓係長がいなくなっても、新しい肝臓係長がやってくるから、根本的には私達と何も変わらないだろう。会社だけではない。この国だって、世界だって同じなのだ。それぞれがそれぞれの仕事を、役割を持つ。運命論者ではないが、それぞれが大小ないしの、善悪の意味のない使命を授かって生まれて生きている。政治家は政治家として生まれ育ち、揚げ物屋は揚げ物屋として生まれ育つ。顔や腕などのパーツの違いなどたいした意味はない。悪徳であろうが、清廉潔癖であろうが、政治家だ。揚げ上手も、揚げ下手も揚げ物屋だ。そして、私はサラリーマンという使命を得て、皮膚で一般社員に過ぎず、切り捨てるも自由という虚弱な存在なのだ。
時計の針の遅さは感覚を狂わせる。今日の仕事を黙々とこなし、1日が終わるのを待つ。非生産的な日常の中、心は削られていく。プレコのように大自然で自由になりたい。そう思っては窓の外を見る。窓の外にはアスファルトの道路が格子状に広がり、それ沿って、ビルが立ち並んでいた。ビルは大小あり、派手なビルも地味なビルも競いあっている。地味なビルから出てくるのは地味なサラリーマンと相場は決まっている。昭和と平成の違いか。バブルとゆとりの違いか。抱えているものは誰にでもあるのに。私は何のために働くのだろう。仕事は生きるための手段と割り切っているはずなのに、虚しさが心に溢れてくる。虚しさを力任せに押さえつけて、虚しさを広い心で受け入れて、鬱になるよりは、スルーパスした方が鬱にならない。諦める。こういうもんだよと言い聞かせ。そうしてバランスを取っている私にはきっと絶望はないが、希望もないだろう。あるのは変えられない現実と変わらない未来。虚しさがずっとずっと影のように付きまとい、私から離れない。それも諦めよう。世界を変える力を持った勇者ではないのだから。
夕刻は桜色の世界に訪れた。花見気分的で浮かれる街並み、私の黒い瞳には眩しすぎる。タイムカードが打刻する音が会社内に響く。遅出の私を置いて兵士達は家路に急ぐ。電話と一体化していた兵士は呪いの解けたお姫様のように颯爽とスーツを羽織る。スプリングコートを翼のように広げ去っていく。その姿に羨ましさと妬ましさを覚えた。遅出で出勤したことを棚上げにした感情に苦笑しながら、業務をひたすらにこなす。書類に書かれた文字を追い、一字一句間違いなく理解しようと試みるが、心が受け付けない。受け付けない理由は何だろうか。理不尽な勤務ではない。ごく当たり前に給料を貰うための業務だ。許容範囲以上の仕事でもない。良心を削る仕事でもない。なぜだ。自問自答が目の前のパソコンのモニターに連動する。キーボードを触ってもいないのに、モニターにテキストファイルが浮かび、文字が流れていく。なぜだと。病気は自分では分からない。もしくは自衛本能から気付かないふりをする。私はモニターに浮かぶ文字をデリートし、テキストを消す。いつものウインドウズの画面に戻るが、再びテキストが現れる。昔昔の映画、裸のランチのゴキブリタイプライターが思い出された。きっとキーボードを叩くと目の前のパソコンはゴキブリパソコンに変わって、この私と会話を始めるだろう。その会話は不毛なものに違いない。何の生産性もない会話だ。あの映画のゴキブリタイプライターは最後、潰されたんだっけ。僅かな記憶の糸を紡ぎ手繰り寄せる。だが、答えはなかった。だから、スマホで検索した。ゴキブリタイプライターは肛門から喋り、やはり靴で潰された最後だった。今度、もう一度、裸のランチを見よう。病的な映画であり、内容を理解できる自信はないのだが。
時間が刻々と過ぎていく。他の兵士達は眠り、たった一人で見張りをしている気分だ。敵兵がどこからか狙っている。心に溢れて生まれるのは孤独感だ。一人ぼっちの寂しさではない。プレコは感じることはないだろう。ゴキブリタイプライターも感じることはないだろう。それは彼等が自分というものを確立しているからだ。プレコは川の主となった。ゴキブリタイプライターは潰されるまで、ゴキブリタイプライターとしての存在意義を信じた。私は見張り兵として自信がないのだ。自分で判断をする強さがなく、自分の弱さを受け入れることができない。プライドが邪魔をして、何も持たない自分を認めたくない。自分の存在を裏付けするものがないのだ。いいねを待つネットの匿名の住民と変わらない。誰かに自分は悪くないと言ってもらいたい。自分は正しいと認めてほしい。絶望も、希望も感じないふりをしているだけ。絶望も、希望も欲しがっている。それを他人のせいに還元することもできず、心を削り続ける。格好悪くてしょうがない人間。人間の器も浅く、小さい人間。自分の器にはアメンボすら棲むことはできないくらい小さい。どうしたらいい。答えなどない。心根から自分を傷付けても、他人を傷付けても背負わなければならない業なのだ。それが生きることで、それが死ぬこと。それを負えないのであれば、そこにいてはいけない。でも、生きなければならない。いっそ誰かが殺してくれれば楽になれるのに。思ってはいけない言葉が心にあった。誰かに殺されたい。でも、誰も殺してくれない。一人で死ぬ勇気もない。だから、無差別殺人を起こす。負の連載によって生まれるのは絶望よりもたちが悪い。この世界に溢れる凶悪事件だ。自分の絶望を自己処理できず他人を巻き込む。ワイドショーが心の闇にクローズアップするが、真実は見えない。どうしてという疑問に多分という答えしかない。私はどうすればいい。私はどうすればいい。
きっと答えなどありはしない。結婚し子供ができた。家族ができた。生き甲斐ができた。至って普通の生き方だ。至って普通だと理解できる。私は子供のために全てを捨てることができなかったのか。全てを捨てて、今ある自分を受け入れれば楽だったかもしれない。もう一度翼を得ようなどと考えなければよかったのだ。人生に諦めて、家族のために生きる。それができない。なぜだ。自分の絶望も、希望も捨てられないからだ。もう遅い。今さら何ができる。もう駄目だ。今から何を始める。何に喜びを感じればいい。子供の成長を考えればいいはずなのに。妻と子供の幸せを考えればいいはずなのに。私は自分の絶望と希望ばかりを求めていた。私のことなどどうでもいいのだ。もう未来はそう広がらないのだから。私はプレコになりたい。私はゴキブリタイプライターになりたい。自分の存在に絶望することも、希望を抱くこともなく生きたい。
遅出の勤務の終業時間が近づきつつある。私はオフィスの戸締まり、パソコンのシャットダウン、エアコンを確認する。日常業務をこなし、非日常的な感情から脱却する。当たり前のことができて当たり前の時代に当たり前のことをすることに自信がない。なぜだ。怖いのだ。失敗するのが。なぜだ。失敗すると自分が無能だと自覚させられるから。なぜだ。自分に自信がないから。分かっているよ。ゴキブリタイプライターなら肛門のような口で優しく喋るだろう。そして、私は革靴で彼を叩き潰すだろう。裸のランチのように。
夜は闇に包まれる。
闇に孤独は生まれる。
孤独が心を飲み込んでいく。
駅のホームは私しかいない。私は黄色い線の内側に立つ。昔、子供によく注意をした。危ないからここに立ってろと。動物園へ行くから嬉しくてはしゃぎ動き回る。危なっかしくて目が離せない。過保護と言われようが、どうでもよかった。必死だった。子供を守るため。全ての価値基準が子供だった。子供が喜べばそれでいい。プレコのことも、ゴキブリタイプライターのことも考えることはなかった。家族のことしか興味ない。昔、誰かに言われたことだ。その言葉が誇らしく、とても心地良かった。今はどうだ。私は黄色い線の手前で迷っている。誰かに背中を押されたい。このまま線路に落とされて、四角い牢獄に入るどころか、ミンチになることを想像している。背中に汗が走る。悪魔の爪で引っかかれるように冷たい。押せ。押せ。押せ。そう聞こえた。誰かの声だ。四角い牢獄が近づいてくる振動と空気が圧縮されて身体が吸い込まれる。深い闇が渇いていて、身体の水分が奪われる。血液が奪われる。細胞が急速に乾き、死んでいく。砂漠で朽ちていく亡骸のように。結合力を失った細胞が1つ1つ剥がれ落ちて、砂漠の砂に埋もれていく。熱砂という圧倒的な破壊力が私という存在を奪っていくようだ。まだ声は止まない。数ミリごとに前進する私、近づいてくる牢獄の振動、押せ押せ押せと鳴り止まない幻聴、私は死ぬのか。私は自殺するのか。死という現象はとてもありふれたことだ。残酷であるが、誰もが死ぬ。この世界は食物連鎖という法則に基づき存在する。人間が特別なわけではない。人もプレコも同じでいつか死ぬ。それが数秒先か、10年先か、ただそれだけだ。今か、明日か、私は死ぬ。家族はどうなるだろう。私が死んだ後、もし仮にこの四角い牢獄に轢かれてミンチになった後、莫大な賠償金を負わされるだろう。駄目だ。押してはいけない。押してはいけないのだ。
もし仮に目の前にスイッチがあって、但し書きでこのスイッチ押すべからずなどと但し書きがあったとしよう。それが核弾頭ミサイルのスイッチかもしれない。ただのいたずらかもしれない。それでも、人は押すだろうか。もしかするとそのスイッチは幸福のスイッチかもしれないのに。スイッチを押すことで始まる現象に脅え始めたらキリがない。でも、押せと耳元で言われたら、押してしまうかもしれない。スイッチの繋がった先に誰かの死があっても、大勢の死があっても知らなかったと言うだろう。悪いのはスイッチを用意した誰かであって、押せと言った誰かであって、自分ではないと。戦争で人を殺して、なぜと聞かれて、命令されたからと答える兵士に似ている。私も誰も何も負いたくはないのだ。私がこのままミンチになったら、誰かが私の責務を負う。望むものか。そんなこと。私は生きねばならない。生きていかねば。
押せ。押せ。押せ。声がまだ聞こえる。私は渇いて、朽ちつつある身体を無理矢理動かし、声の方を向いた。そこには誰もいないはずだ。たかが、幻聴のはずだ。たとえ誰かがいたとしても、目に見えぬ悪魔がいるくらいだ。だが、そこには誰もいなわけじゃなく、悪魔がいたわけでもなかった。そこにいたのは屈強な肉体の鎧をまとった外国人のグループがいた。彼等は言う。押せ。押せ。押せ。彼等は言う。ホセ。ホセ。ホセ。心が緩む。下らない。本当に下らない。ピンと張った弓の弦が一気に力を失い、はぜる。ああとため息と笑いがでる。押せとホセ。馬鹿げた聞き間違いに腰が砕け、後ろによろける。黄色い線の内側で親に叱られて、電車を待つ子供のように。ちょうどその時、四角い牢獄が目の前で止まった。
明日も同じだ。
明後日も同じだ。
きっと何も変わらない。
私はプレコになれない。
私はゴキブリタイプライターになれない。
孤独に打ち負けそうになる。
絶望すらも感じなくなる。
希望すらも忘れてしまった。
だが、生きている。
だが、生きていく。
馬鹿げたことに心が緩むことを知っている。
それでいいと思う。
私は明日も仕事に行こう。
そして、今日も家に帰ろう。
家族が待つ家に。