雪の雫を貴方にあげる
鬱展開が嫌いな人はお控え下さい。
あぁ、貴方は変わってしまった。
煌びやかに輝くシャンデリア。一流の職人たちの最高傑作だけを集めた絵画や調度品の数々。広い部屋には豪華絢爛な血のように赤い絨毯が敷いてあり、部屋の壁の両脇にはズラリとメイドたちが整列しています。部屋の中心には長い時を生きた霊木を贅沢に切り出して作った食卓が置いてあり、その上には肉、魚、野菜、果物。あらゆる種類、あらゆる文化から集められ、厳選され尽くされた料理が所狭しと並んでいます。
そしてその料理を食べているのは竜革張りのソファに座った細身の男。黒髪黒目の優しげな風貌でありながら、魔王を倒し、世界を救うために異世界から召喚された勇者様。私のご主人様です。彼は両脇に魔王討伐パーティの仲間だった美女を侍らせて、彼女たちに料理を口に食べさせてもらっています。
「勇者様。今日も素敵なお料理ですわね」
「うん。そうだね」
彼の右隣に座っているのはご主人様を召喚したこの国の王女。艶やかな金髪につり上がった黄金の瞳をもった彼女は、その髪と目の色に合わせるように全身に黄金でできた装飾品を身に纏っています。それでいて嫌味な感じにならないのは、彼女が絶世の美女だからでしょう。
ご主人様は王女の言葉に薄い笑みを浮かべて答えています。その一言だけで王女の顔が蕩けました。ご主人様はかつて剣を握っていたとは思えないほど、白くしなやかな指をした手で王女の頭を撫でると王女はうっとりとした表情でご主人様にもたれかかりました。その目に浮かぶのは狂的なまでの恋慕。
「見てください。この牛のステーキは私が作ったんですよ」
「そうなんだ。…うんよくできてる」
左隣に座り、そんな王女に負けじと語るのはこれまた美しい少女です。基本6属性全てを操る魔法の天才。肩にかかる程度の灰色の髪に意思の強さを見せる赤い瞳。魔眼の力を抑えるための眼鏡をかけた彼女もまた常人離れした可憐さを兼ね備えています。
料理が趣味だという魔法使いはご主人様の食卓にいつも自分の作った料理を一つ出していますが、その料理をご主人様に褒められることが何よりの喜びなのだそうです。
ご主人様に侍っているのは王女と魔法使いだけではありません。ご主人様の周りには他にも誇り高き女騎士、大神殿の巫女、百戦錬磨の女傭兵に奇跡を纏った村娘。皆それぞれ違った美しさを持っている、魔王討伐のパーティメンバーたちです。彼女たちは魔王が討伐されてもなお、ご主人様と共にいることを望みました。ご主人様は美しい女たちに囲まれて微笑みを浮かべています。
この世の春を集めたかのような光景です。極上の料理に最高の美酒。それを取り巻く美しい女たち。きっと男なら誰もが憧れる光景でしょう。
「デザートでございます」
私はそんなご主人様のために給仕を行います。女たちの気を損ねないよう、ご主人様が不快に感じぬよう、必死に練習して洗練されたように見える動きをします。
そうするのは私は体中に傷があるから。顔にも大きな傷が残っているからです。美しくもありません。侍る女たちと比べればどうあがいても見劣りしてしまいます。
「いつもありがとうメリィ」
「当然のことをしたまでのことです」
そんな私にご主人様は声をかけてくれます。そんなご主人様に私は深く頭を下げました。ご主人様は「ありがとう」と言いますがそれは当然のこと。何せ私はご主人様の奴隷なのだから。私もまた貴方を愛しているのだから。
ご主人様は美味しそうにデザートを食べています。幸せそうに。…けれどその幸せそうな顔もどこか薄っぺらなものに感じてしまいます。ずっとご主人様の隣にいた私には、ご主人様は自分が幸せだ、幸せだと思いこんでいるだけに見えてしまいます。ご主人様はそのことにすら気づいていないのでしょうけど。
だって昔のご主人様はあんな作り物みたいな笑い方をしなかった。女を隣においてくつろぐことなんてできなかった。ゆっくり食事をとる暇なんてなかった。
なぜならご主人様は召喚された4人の中で最も劣っていたから。気も弱く、非力で魔力も少ない。優れていたのは勇者に等しく与えられた魔法の属性の数と勇者の証である光属性だけ。
王族皆から見放され、見捨てられたご主人様は強さを求めました。見放し、見下した者たちを見返そうとひたむきに努力していました。笑うこともなく、休むこともなく、今みたいに煌びやかな光の下ではなく、闇の中で光を探して努力をしていたご主人様は醜くも美しかった。そんな貴方に私は心惹かれたんです。
でも今の貴方は違う。あぁ、貴方は変わってしまった。
私がご主人様に出会ったのは10年前。ご主人様がこの世界に召喚されてすぐのことです。出会った場所は王都の奴隷売り場。
「おら!さっさと歩け!」
バチンと鞭を打たれる。私は魔王軍の侵攻によって滅ぼされた町の唯一の生き残りでした。両親によって私は一人逃がされましたが、幼い私が町を離れて生きていけるわけがありません。ほどなく奴隷売りに捕まって、私は売られることになりました。
ですが文字が読めるわけでもなく、見た目が特別いい訳でもなく、それどころか逃げる最中に体中に傷を負い、顔にも大きな傷のある私を買ってくれる人なんてそうそういませんでした。見た目のいい女の子が優先して売られていき、一年経っても当然のように私は売れ残りました。
ボロボロの服に家畜のエサがよっぽどましというような食事を与えられ、ドブ水を見つめたような目をして私は淀んだ心のまま死ぬ時を待っていました。このオークションで買われなかったら私は口減らしで殺すと言われましたが、それでいい。両親には悪いが無様な生を生きるくらいなら死んだ方がいい。
そう、思っていました。
「次は安売りの使い捨て奴隷だぁ!」
そんな司会の言葉と共に私は他数人の奴隷と共に舞台の上に立たされました。他の人間も手足が欠けていたり、私のように傷物だったりして売れ残った者たちばかりです。それだけに安い。新品のナイフ一本程度の値段から売りに出されます。
そんな奴隷たちばかりですから、当然客の反応もよくない。ポツリ、ポツリと手が上がり、安値で売られていく中で私を買おうとする人は誰もいませんでした。
「他にいないか!ならこれで…」
(これでようやく死ねる)
汚れた顔に笑みを浮かべる。生きていることが辛かった。それが終わる。安らぎが心に満ちて、でもその時でした。
「買うよ。その奴隷」
奴隷商人がオークションを終わらせようとした時、ご主人様が手を上げたのでした。
「どうして」
「何?」
「どうして、私を買ったの?」
私を買った当時のご主人様は私に負けず劣らず淀んだ目をしていました。古ぼけた革の胸当てに粗末な鉄の剣。いくら安いとはいえ奴隷を買う余裕があるようには思えません。奴隷そのものは安くとも、奴隷を扱うときは反抗できないように契約魔法が結ばれます。実際彼は私を買うために有り金全てを使ってしまっていました。
私の質問にご主人様は困ったように目を泳がせ、頭を掻きました。それからため息を一つついてこう言ったのです。
「君が僕と同じ目をしていたから」
それは同情や共感とも言うべきものだったのでしょうか。荒んだ目をした勇者と澱んだ目をした奴隷。私たちはそこから始まりました。
ご主人様が異世界から召喚された勇者であり、そして誰よりも非才であるがゆえに城を追い出されたことはその日の夜に知りました。
「ひどい、話ですね。強引に呼び出しておいて、無能だと思ったら放り捨てるなんて」
「うん。だけどそれはもういいんだ。僕はあいつらを見返したい。けど僕は弱い。協力してくれる人を探しているんだ」
荒んだ中にもご主人様の目には強い光があって、力がありました。それは私にとって強い希望でした。だから私はご主人様の手助けをしたいと思ったのです。何としてでも彼の力になりたい。彼のためになりたいと。
それから私達の場末の冒険者として魔王軍の手先である魔物たちを倒し始める日々が始まりました。装備はオンボロ、技術もない。華やかな英雄譚なんてものはなく、地味で泥臭い騒乱の日々。しかし堅実にできるところから少しずつ。その努力が実を結び、私たちは徐々に力をつけていきました。
でもそれはあくまで一般的な冒険者としての話。全属性に適性があるだけで強い魔法なんて使えないご主人様と、魔法適正すらなく、体格にも恵まれない奴隷の女。成長には限界がありました。私はご主人様に命を救ってもらった。希望の光をもらった。なのに私はご主人様に何もお返しできませんでした。だから。
…ご主人様は繊細な人です。男の人でありながら、闘技場の戦いや武骨な剣の輝きよりも花や景色のような綺麗で美しいものを好みました。
「ねぇ知ってる?メリィ」
休憩の合間にそう言って始まるご主人様の話を聞くのが私は好きでした。
「なんですか?」
「僕の世界ではさ、花に意味のある言葉をつけるんだよ。花言葉って言うんだけど…」
この世界とご主人様の世界の花は違うものです。けれど似た形の花は多いのだとご主人様は言います。
「これはユキヤナギに似ているね。花言葉は『愛らしさ』。これは雛菊かな。花言葉は『美人』に『無邪気』」
「その…花言葉は一つだけではないのですか?」
「そう。色んな意味があるんだ。そうだね。例えば彼岸花って花があるけれど、これは『死人花』や『地獄花』みたいに怖い別名があって、花言葉も『悲しい思い出』や『諦め』っていうものなんだ。だけどね。それ以外にも『深い思いやりの心』や『思うは貴方一人』なんてものもあって、結構面白い」
そう言ってご主人様は笑います。日に焼けて泥にまみれたその笑顔は、底辺の暗闇の中にあって何よりも綺麗でした。だから。
「そうだ。この花なんだけど、これはスノードロップって言って」
ご主人様は一つの花を指さします。白い、3枚の花弁で作られた小さな花。吊るされたランタンみたいな様子が可愛らしい花です。
「この花言葉は『希望』や『慰め』。でもね…」
「…そうなんですか。それは…怖いですね」
「うん。だから人に送る時は注意しないと駄目だよ」
「花を贈る人なんていませんよ」
ご主人様の世界では違うようだけど、花を贈るということはその相手と対等でありたいということを表す行為です。奴隷とご主人様ではそれは成り立ちません。誤魔化すように笑い合いました。
ご主人様からそんな話を聞く。この些細な時間が大好きでした。だから。
それは私がご主人様に買われて一年が経った頃。城から華々しく勇者が飛び出して、各地で魔王軍と戦い始めました。ご主人様はとても苛立っていました。王族が紹介した勇者の数は3人。その中にご主人様はいないし、その存在を匂わせることもありません。
そして勇者たちの戦果は毎日のように耳に入ってきました。やれ奪われた町を解放しただの、やれ魔王軍の幹部を打ち取っただの。ご主人様が得られなかった力を使って輝かしい光の下に立つ勇者たちのことを聞いて、ご主人様は冷静ではいられませんでした。
「ご主人様。眉間にしわが」
「うるさい」
「駄目です。その依頼は私達にはまだ…」
「命令だ。黙ってろ」
「うっ…はい」
奴隷である私はご主人様に服従の魔法を刻まれています。刻んだのは奴隷商人ですが、そのせいで私は命令されれば逆らうことができません。使われたのは初めてで、それだけに繊細なご主人様の傷つきようが分かりました。そうでなくとも私がご主人様を害することはありませんが。
首が絞まるような感覚がして、私は膝から崩れ落ちました。ご主人様はそれに構うことなく、私たちでは困難に見える依頼を受けてしまったのです。
私たちは今までどうにかやってこられたのは無茶をせず、できることをやっていたからです。けれどご主人様は自分と同じ境遇のはずの勇者たちと自分と比べて劣っていると思ってしまいました。それに負けじと思ってしまいました。ご主人様は繊細だったから、自分たちの努力が侮辱されたような気になったのでしょう。
無茶をした対価は当然のように支払われました。
「あ…ぐ」
「ご主人様!」
魔族がいると噂される古代遺跡。そこで私たちは魔王軍の幹部に出会いました。
ご主人様は弾き飛ばしたのは賢者のような姿をした老人。しかしその肌は紫色で、額に三つ目の目があります。その姿はまさしく魔王軍のナンバー2『強欲』でした。そんな相手に勝ち目なんてありません。ご主人様は勇者である証の光属性の力を使うこともできず、羽虫でも払うかのように倒されました。私も同じように指先一つで倒されてしまいました。
朦朧とする意識の中、私はご主人様に向かって手を伸ばしました。しかしその手は『強欲』に踏み潰されました。
「あぁぁ!」
私の口から悲痛な叫びがもれました。でも私はご主人様に向かって手を伸ばしました。助からないのなら、死んでしまうならせめてご主人様の隣で。砕けた手を気にすることなく私はご主人様の所へ這い寄ろうとしました。
「む?」
その時です。『強欲』が声を上げました。そして私の髪を掴んで乱暴に顔を上げさせ、私の顔をまじまじと眺めました。
「面白い。まさか人の身で闇属性の適性を持つ者がいたとは」
それから『強欲』は一方的に語りました。魔王軍の幹部はそれぞれ大罪の名を冠している。だが魔族の誰もが大罪を受け入れることができるわけではない。魔王と同じ闇属性を持っている必要があるのだと。本来高位の魔族のそのまた一部しか闇属性は発現しないが、人であるはずの私にはなぜか闇属性の適性があるらしいと。
「これもまた何かの巡り合わせだろう。お前に二つの選択肢をくれてやる」
『強欲』は指を二本立てました。
「一つ目は今ここで無様に死ぬ選択。その場合お前の望み通り、あの男の隣で殺してやろう」
指を一本折る。そして『強欲』は醜く顔をゆがめました。
「二つ目。お前、『嫉妬』の座を受け取るつもりはないか?」
素晴らしい力が手に入るぞ?その言葉を聞いて私は…。
「ご主人様!ご主人様!」
「う…メリィ?」
「良かった。無事で…」
「僕は一体」
ご主人様が目を開ける。そして虚ろな目で辺りを見渡しました。
「…忘れてしまったんですか?古代遺跡に入ってタチの悪い罠にかかってしまったんですよ。それでご主人様は気を失ってしまって」
「そうだったんだ。…そうだっけ?」
「はい。そうなんです」
私はご主人様にそれが真実だと告げます。ここでは罠にかかっただけで何もなかった。魔族なんていなかったし、『強欲』とも遭遇していない。油断して気絶しただけ。それだけだと、ご主人様に言い聞かせます。
ご主人様は頭を押さえながら私に怪訝な顔を向けたけれど、私の言葉を信じることにしたようでした。コクリと頷きます。そのことに罪悪感を覚えましたが、この隠し事を知られるわけにはいきません。
「さてどうする?」
「わかり、ました。私を『嫉妬』の座に」
その答えを聞いて『強欲』はまたニタリと嗤いました。そして私の胸に腕を突き立てました。だまされたのかと思いました。けれど違いました。
「あぁ!」
「こらえよ。痛みはすぐ引く」
黒く蠢く何かが私の中を蹂躙して、侵していく。『強欲』の言う通り、痛みはすぐに引いていきました。人間性の喪失を引き換えに私の中に私でない何かが根付いていく。それは背徳的な快楽と共に私に馴染んでいきました。
「ほほぅ。素晴らしい適合率だ。お前の『闇』は『嫉妬』の力と深く結びついた」
『強欲』は嬉しそうに、楽しそうにケタケタと嗤います。私自身、『強欲』の言ったことを深く自覚していました
「もっとも悪辣にして、凶悪にして、矮小で醜悪な『嫉妬』の力。上手く使いこなせるといいな」
そう言って『強欲』は去っていった。そして去り際に背を向けたまま「大罪を背負うことの意味をよく知るといい」と言い残しました。後に残されたのは魔王軍幹部『嫉妬』にされた私と倒れ伏したまま動かないご主人様だけ。
私は自分の手を眺めます。ズルリと黒い闇が手の平から這い出てきました。『嫉妬』の力を証明する私の「闇」。黒より黒いその闇を見ていると深い安堵感と共に吸いこまれてしまいそうになります。その安堵感を頭を振って払いました。
おぞましい闇の力。ですがこの力は有用です。私は本能に近いところでこの力の使い方を理解していました。気づけば体の怪我は治っていました。私は倒れたまま動かないご主人様の元へ歩み寄り、その頭に闇を纏った手を乗せたのです。
一体なぜ『強欲』は私に『嫉妬』の力を与えたのでしょう。「巡り合わせ」だと『強欲』は言っていました。ですがそれだけの理由で魔王軍の敵である人間の私に力を与えるとは思えません。分かっていることはあれ以降『強欲』と会うことはなかったということ。そしてほどなくして勇者3人の共同作戦によって『強欲』が討伐されたということです。『強欲』は死の間際に「『嫉妬』の大罪が揃ってさえいれば」と言ったそうです。
『強欲』は私という存在を隠したのです。
「ねぇご主人様」
「何?」
古代遺跡から帰って来て傷の治療のため休んでいる時、私はご主人様に一つの質問をしました。
「ご主人様の願いは何ですか?」
「僕の願い?」
ご主人様の黒い瞳が私を射貫き、私の質問の意図を読み取ろうとします。でも私はそれを読み取らせません。本音を内に秘めて問いかけます。ご主人様は口を開きました。
「僕の願いは変わっていない。勇者たちを見返したい。それだけだ」
「…そうですか。かしこまりました」
それを聞いた私は笑って返事をし、頭を下げた。
「ならば私は貴方様のために、全霊を賭して尽くしましょう」
「え?…あぁうん」
ご主人様はあいまいに答えました。その答えは私とご主人様が出会った頃と何一つ変わっていません。ならば、私は奴隷としてご主人様の願いを叶えることにしましょう。…私の想いを押し隠してでも。
それからまたしばらくして、大規模な戦争に参加した折、勇者の一人と会う機会がありました。ご主人様と同じ黒髪黒目の男。でも同じなのはそこだけで、ご主人様とは似ても似つかない立派な鎧と聖剣を持った傲慢そうな男でした。
彼は私が奴隷というだけで見下し、嘲笑いました。取り巻きたちもそれに従います。そしてご主人様のことを微塵にも覚えていませんでした。
嘲笑いたいのは私の方。好都合でした。こいつにしよう。私は大事な話があると言って勇者を人の目のないところに呼び出しました。
「何だよ奴隷」
勇者は苛立ちを隠しません。勇者である自分が奴隷に呼び出されたことに腹を立てているらしいです。
馬鹿な男。プライドばかり高いこの男は自分がなぜ奴隷の呼びかけに応じた不自然に気づいていません。
初めて使った『嫉妬』の力。しかもその相手は闇を払う光の魔法が使える勇者です。失敗するかもしれないと思っていましたが、上手く行ったようです。男が油断していたのか、それとも私のこの力がとても強いものなのか。
「はい。貴方に贈り物があるのです。…×××様」
「はっ?」
私は舞うように勇者に歩み寄り、耳元に彼の真名を呟きます。お前の名前は握ったぞと愚かな勇者に「呪い」をかけるのです。
魔法において、名前は非常に重要な意味を持っています。だからこの世界の誰しもがは真名ではなく、仮名や呼び名を使う。勇者もそのことを召喚初期の方に聞いているはずですから、彼の真名を知っているのはそれこそ勇者召喚の儀に参加した者だけです。
ご主人様がこの男の真名を知っていることは何の不思議もありません。ご主人様を通じて私はこの男の真名を知ることができました。
愕然とする勇者にクスリと笑いかけました。彼も真名を握られることの危険性は重々承知しているはず。勇者は私を殺そうと剣を振り上げました。
「本当に、愚か」
貴方がそうすることに私が予想しないはずがないだろうに。勇者は真名を握られる前に私を殺しておくべきでした。全てはもう手遅れです。そもそも名前を握られた相手に下手に攻撃すること自体が愚の骨頂です。それは底辺を這いずる私でも知っていること。
勇者の剣が私を切り裂く。けれど私は傷つかない。剣は私の体を素通りするだけです。その事実に勇者は恐怖をにじませて何度も何度も剣を振りました。
「なんでっ!お前は一体何なんだ!」
「私はただの奴隷でございますよ。勇者様?」
そして私は人差し指を勇者の額に触れさせます。冷や汗で濡れた気持ち悪い肌ですが、我慢しましょう。私の指先から闇があふれて勇者の頭を飲みこみました。
「『忘れろ』。そして因果応報を知るといい」
勇者は気を失いました。
私が得た『嫉妬』の力。それは『忘却』と『呪い』です。これらの力は別々のものではなく、深く結びついています。
『忘却』の力があれば、気を失う前の数時間の記憶を消すことができるし、消す記憶を巧妙に操って約束だけを残すことだってできます。一方的に約束をして、誰からの約束だったかを忘れさせるなんてわけないことです。そのことに違和感を覚えることも『忘却』させられる。
そして私は勇者の真名を握ることで勇者に『呪い』をかけました。因果応報の呪い。私に危害を加えた相手に対して、与えた危害分の不幸が舞い降りる呪いです。そしてその不幸で死んだ者の力を奪い取ります。それに私は死んだ者の力は私ではなく、私のご主人様へ行くようにアレンジを加えました。
翌日、勇者は戦場で不幸が重なって死にました。私が何度も死ぬような危害を与えたのですからね。私よりもはるかに強い勇者でも死ぬような不幸が舞い降りたのでしょう。そして勇者の持っていた力やカリスマ性、女たちの関心がご主人様に移りました。そのことに誰も疑問を抱きません。取り巻く疑問は全て私が『忘却』させました。
そうしてようやくご主人様は勇者として光に向かって一歩を踏み出し、私は『嫉妬」として闇の中へ沈んでいったのでした。
それからも私はご主人様が光の下で華々しく活躍する裏で、闇の中で暗躍を続けました。ご主人様に害をなそうとする敵に呪いをかけて殺し、あるいは弱体化させ、勇者やこの世界の英雄たちから呪いで力を奪う。『呪い』の力は誰かを呪えば呪うほどに強くなっていきました。
『嫉妬』の力は絶対的でした。『嫉妬』の『呪い』と『忘却』の前には誰も敵いません。ご主人様の願いは叶う。気づけば勇者はご主人様一人のことを指し、ご主人様の周りには煌びやかで魔王を倒すに足る女たちが集まっていました。
ご主人様を見下す者はもうおらず、誰もがご主人様の前にして首を垂れる。ご主人様は見事に自分を見放した者全てを見返すことができたのです。
…自分の過ちに気づいたのは暗躍を初めてずっと後のこと。ご主人様の周りに今の女たちが皆揃ってからのことでした。
ご主人様は笑ってくれている。まぶしいほどの光の中で。だけどその笑いはもう私だけのものではなくなりました。ご主人様は前と変わらず私を近くに置いてくれています。でも私はご主人様の唯一ではありません。「メリィ」という存在がご主人様の中でとても軽い存在になっていることに気づいてしまったのです。
これが呪いをかける私にかかった『呪い』。『忘却』の呪いでした。「メリィ」という奴隷の存在をそのままに、人格を持った「私」という存在が忘れられていく。ご主人様の中で「私」はどこまでも虚ろな存在になっていきました。
もうご主人様は私だけに笑いかけてくれることはない。もうご主人様は私に花言葉を教えてくれることはない。もうご主人様が私に背中を預けてくれることはない。ご主人様は、ご主人様はご主人様は…。
ご主人様の光に照らされた旅は続く。私の闇の中の戦いは続く。不在とされている『嫉妬』を除く全ての幹部を倒し、ついに私たちは魔王城にたどりつきました。
明日は魔王城に挑む大切な日。敵にばれないよう、ひっそりとしかしにぎやかに宴会を開きました。王女が、魔法使いが、女騎士が、女傭兵が、巫女が、村娘が一様に満面の笑みを浮かべ、ご主人様は微笑みを浮かべます。笑っていないのは私だけ。ですがその事実に誰も気づきません。いつものように彼らの世話をしながら息を殺す。
ご主人様たちが寝静まってから、私は一人行動を始めました。
いつもと同じです。ご主人様に敵対する者に呪いをかける。魔王は強い。きっと強い。ご主人様でも負けてしまうかもしれない。だから魔王にも呪いをかける。弱体化する呪いでもいいし、不幸を呼ぶ呪いでもいい。私は一人魔王城に潜入しました
「お前が『嫉妬』か?」
謁見の間で私は一人魔王と対峙しました。魔王は「人」でした。遙昔にご主人様と同じように勇者として召喚され、長い時を生きて魔王となった「人」でした。
魔王は穏やかなまでの目で私を見つめます。そしてフッと笑みをこぼしました。
「『嫉妬』の呪いを私にかけるか?」
「なぜ…」
相対しているだけで魔王の強さは理解できました。直接的な破壊ができない『嫉妬』の力しかない矮小な私なんて息をするより簡単に殺せるはず。ご主人様たちもそれこそ手を振るだけでも殺せてしまうでしょう。なのに魔王は私に敵意すら向けません。
「知っているか『嫉妬』よ。光と闇は相反するもの。光を滅ぼせるのは闇だけで、闇を滅ぼせるのも光だけだ」
「何を」
「そして光と闇は互いに滅ぼしあう。ならば闇がなくなり、唯一残ってしまった光はどうなるのだろうな」
私は…魔王に醜い姿に見える呪いと、死の運命に導かれる呪いをかけました。魔王はその呪いを抵抗することなく受け入れました。そして翌日ご主人様たちは死闘の末、魔王を殺すことができました。
魔王を倒したご主人様には王都に立派な離宮が与えられ、そこで平和に暮らし始めたのです。
あぁ、貴方は変わってしまった。いえ違います。全ては私の罪であり、私の大罪です。私の『呪い』の力で強くなったご主人様もまた私と同じように『呪い』にかかったのです。力に努力に才能にカリスマに。色んなものが詰め込まれすぎて、ご主人様はご主人様でなくなってしまった。そして私は私の望みを軽視していました。私は、私の望みにも目を向けるべきでした。
もうご主人様は「私」のことを忘れてしまったのでしょう。『呪い』にまみれて闇に消えてしまったから。たった二人で旅をした冒険者のご主人様とその奴隷の私という存在は、もうない。あるのはただ魔王を倒した勇者とその奴隷「メリィ」だけ。
最近になってようやく分かりました。こうなることを『強欲』は知っていたのでしょう。大罪を背負うことの意味。『嫉妬』という大罪を背負った私は本当に欲しいものを手に入れることができなくなった。私はただご主人様と二人で旅をしていたかっただけ。繊細で、心優しくてひたむきなあの人の隣にずっといたかっただけ。その願いに気づいた時にはもう全てが遅かった。
あぁ、貴方は変わってしまった。私が変えてしまった。けれどもう時は巻き戻らないし、「私」はもうどこにもいない。けれど、もしかしたら。今のご主人様の中にまだ私の知るご主人様が残っているのかもしれない。「誰か」の才能にまみれて変わってしまったご主人様の中にもまだ、魔王を倒した英雄ではなく、花言葉を愛したご主人様がまだ。
だからご主人様。試させてくださいな。
「ご主人様」
「何?メリィ」
食事を終えて両脇に王女と魔法使いを侍らせたご主人様に私は花束を手渡す。赤、黄、紫、緑、そして白。色とりどりの花で作られた花束だ。それを見たご主人様の取り巻きたちは小さく息を飲む。
「これは?」
差し出された花束を前に、ご主人様は首を傾げる。…あぁ、やっぱり覚えていないのか。落胆を隠して言葉を重ねました。
「今日はご主人様が私を買ってくださった10年目の記念の日なんです。ご主人様の世界では記念の日には花を贈るのでしたよね?ですから、これはそのお礼」
対等でありたいわけではないと、そんな「嘘」をつく。
「そ…っか。ありがとう。大切にするよ」
花束を受け取りご主人様は微笑する。そしてそのまま私の前を通りすぎていきました。
「気づいていますか?ご主人様」
花束の真ん中にある一輪の花。ランタンのように釣り下がった小さな白い花。スノードロップ。私はご主人様から教えてもらったことは何一つ忘れていません。ご主人様はまだ覚えているかしら。
誰もいなくなった部屋。私の言葉は空しく響く。
「スノードロップの花言葉は『希望』と『慰め』。ですがこの花は決して、人に贈ってはいけません」
私が花束に込めた呪い。希望の裏に隠されたもう一つの言葉。彼岸花に正反対の花言葉があるように、スノードロップにも別の意味がある。
「ご主人様。貴方が教えてくれたことですよ。スノードロップを誰かに贈ること。これの意味は」
貴方の死を望みます。
『裏表の願掛け』。これが私からご主人様に贈る呪い。闇は光によってのみ払われる。呪いに溺れて闇そのものになった私は光に触れれば消えてしまう。この闇の中からの呪いにご主人様が気づいてくれれば、贈られたスノードロップの意味に気づいてくれれば、花を愛したご主人様がまだ残っているのなら、きっと私は死ぬでしょう。
この世界で花を贈ることはあくまで対等であることを意味します。賭けるものは同じ命。呪いが発動するのは明日の朝。朝日が昇ると同時に私かご主人様の命は失われる。
あぁ私は今泣き笑いの表情をしている。お願いです。どうか気づいてください。そして…
翌朝、私はご主人様の部屋に伺いました。朝日はもう昇っています。昇って、しまいました。
ノックをせずに扉を開けます。天蓋つきのベッドの中でご主人様は眠っていました。眠るように、死んでいました。
部屋の机の上には私が渡した花束が横にして置いてありました。眠る前に眺めるでもなく、花瓶に飾るつもりもなかったことが分かりました。
「ふ、ふふ」
部屋の中から笑い声が聞こえてきました。他でもない私の笑い声。始めは小さく。それからどんどんと笑い声は大きくなっていきました。
「あ、あぁ。あは、あはは。あははははははははははは!」
嗤いは止まりませんでした。私は嗤います。醜い顔をゆがめて嗤います。私の中の何かが壊れて、私のわずかに残った温もりが消えて、私の全てが冷え切っていきます。
契約魔法で結ばれた主人が死ねば、奴隷もまた死にます。しかし私は死にませんでした。当然でしょうね。闇を払えるのは光だけですから。私を殺せるのはご主人様だけでしたから。
「何事!」
私の笑い声を聞きつけて、女たちが部屋の中に入ってきます。そして嗤う私と命を失ったご主人様を見て愕然としました。
「嘘…」
王女の口からそんな呟きがこぼれ、敵意を私に向けました。それと同時に私は力を失ったように嗤うのを止めました。
「あんたが…やったの?」
女の問いに頷きます。怒りにかられた魔法使いが私に火の玉を放ちました。ですが効きません。魔法の炎は私を傷つけるに至らない。世界から光が消え、唯一の闇になった私を傷つけられるものなど、この世にはもう存在しないのですから。
女たちはめげずに私に魔法を放ち、剣を振るい、奇跡を願います。けれど無駄。どんな魔法も、どんな剣技も、神の罰すらも私には届かない。
そもそも彼女たちが魔王を倒せたのはご主人様がいたからで、私が呪いをかけていたからで、魔王に殺意がなかったからです。何か一つでも欠けていたら彼女たちはここにはいません。
「ご主人様のいない世界なんて何の価値があるというのでしょう。ねぇご主人様?」
女たちの猛攻をその身で受けながら私は呟きます。
「貴方は私の『希望』で『慰め』で、誰よりも貴方のことを愛していました。だから」
私を置いて行った貴方に嫉妬しました。死を願う程に貴方のことが妬ましかった。光の下に生きる貴方が憎くて仕方がなかった。
「貴方のいない世界に興味なんてない。『希望』も『慰め』もないこの世界なんて…」
あぁ、ご主人様から「私」の存在が消えていったように、私の中も「私」が消えていく。ご主人様を愛した「私」が消えて、『嫉妬』だけが残る。
「私は…」
世界に対して「私」は告げる。
「魔王軍幹部『嫉妬』にして、この世界を滅ぼす新たな魔王」
そして私の瞳から涙がこぼれました。冷え切った私から流れた最後の涙は雪のようで、それは雫のように落ちていったのでした。
雪の雫を貴方にあげる 終わり
スノードロップの花言葉は「希望」と「慰め」。ですがこの花を贈ることは相手に死を「希望」することになるそうです。スノードロップはとても可憐な花ですが、ご注意ください。
可憐で美しい花にも時には恐ろしい意味が含まれることもある。…花言葉って素敵ですよね。
このお話を気に入ってくださった方がいらっしゃったら、ポイント評価や感想を下さるととても嬉しいです。
評価を下さった皆様、ありがとうございます!
主人公のメリィの後日談(主人公ではありません)『小さな刃物と罪の魔王に捧げる金色』を投稿しました。よろしければそちらも是非。(https://ncode.syosetu.com/n5305er/)