従軍記者の日記 35
「はいはい!お湯が沸きましたよー。カップを出してくださいな」
歌うようにそう言うと嵯峨は慣れた手つきでバーナーの上の鍋を持ち上げた。小型のコンロを扱うのに慣れているその手つきにエリートとして育ってきたはずの嵯峨の器用なところにクリスは関心させられていた。
「ずいぶん慣れた手つきですね」
クリスはレーションの袋に入っていた折り畳みのコップを差し出す。中にはインスタントコーヒーが入っており、お湯が注がれるにつれてコーヒーの香りが辺りをただよう。
「まあ、やもめ暮らしも今年で7年目になりますからね。ホプキンスさんは名門の出でしょ?誰かいい人いませんかね」
そう言うと嵯峨はアルミ製のマイカップに味噌汁の素を入れた。
「そんなこと必要ないんじゃないですか?嵯峨公爵家の奥方となればそれこそ……」
「王侯貴族なんかに生まれるもんじゃないですよ。ただ面倒なだけですわ。それに家柄で見られるってのはどうにも性に合わなくてね」
嵯峨は十分に湯を注いだカップを箸でかき混ぜ、弁当として持ってきた握り飯四つとタクワンを食べ始めた。
「しかし、ここは安全なんですか?」
クリスは辺りを見回した。針葉樹の深い森の中。四式は森に潜んでいる形だが、下草のほとんど無い森の下は百メートル以上は視界が利く。もしここに歩兵部隊などが投入されれば勝負にはならないだろう。
「心配なのはわかりますがね。混乱している共和軍に、それほど気の効く前線指揮官がいるとは思えないですがねえ」
そう言うと嵯峨は握り飯にかぶりついた。
「さっきから不思議に思っていたんですよ。あなたのその余裕のある態度はどこから来るものなのですか?最初の一撃。あれだっていくら共和軍の指揮官が無能でも、もう少しましな対応の仕方があったのにまるで混乱しているかのような泡を食っての反撃じゃないですか。さっきだって……」
「混乱しているかのように?違いますね。混乱させているんですよ」
そう言うと嵯峨は不敵な笑みを浮かべたあと、カップから味噌汁を飲んだ。
「俺の下河内連隊時代からの部下で大須賀と言う技官がいましてね。現在は成田と言う名前の胡州浪人と言うことで共和軍の通信将校を務めているわけですが、まあそこまで言えばわかるでしょ?」
嵯峨は二つ目の握り飯を手に取る。
「通信妨害?」
「そんな甘い人間に見えますかねえ俺が。通信器機にウィルスを仕込んだ上で、さらに作戦部にシンパを作って上層部の指揮命令系統をかく乱。そして、前線部隊の補給物資の要求リストを改ざんして拳銃の弾の口径さえまちまちで使い物にならない、今の共和軍の最前線はそんなありさまにしておいたんですよ。戦争と言うものは始める前にはそれなりの準備をしておくものですよ」
得意げに話し続ける嵯峨。クリスはレーションのピーナツバターをクラッカーに塗りながら聞きつづける。
「最初から勝つ戦いをしていたわけですか」
「あのねえ、戦争ってのは勝てるからやるんですよ。まあ、俺も人のことは言えませんが」
そう言うと嵯峨はタクワンをぼりぼりと齧りだした。