従軍記者の日記 143
「あの人は何をするつもりなんですかねえ」
別所はそう言うと伸びをした。シャムを見つけたハワードは今度は墓を眺めているシャムの姿を撮りはじめた。
「私は復讐だと思ってここに来ましたが、どうやらそうではないことだけはわかりましたね」
クリスはゆっくりと立ち上がった。別所はただ墓を見つめている。この場所に立った人は必ずこの墓の群れを見つめてしまうものだ。そう思いながらクリスは目の前の現役の胡州軍人の姿を見た。現在、胡州の情勢は不安定であることが知られていた。
民主化と国際協調路線を掲げて支持を広げる西園寺基義派とそれに抵抗する枢密院と陸軍の対立はいつ暴発してもおかしくない状況にあった。別所の上官で彼をこの地に差し向けた赤松忠満海軍大佐は西園寺家の大番頭と呼ばれる人物であり、海軍の中でも切れ者として知られる男だった。
「嵯峨さんは復讐なんて言うちんけな目的で危険に飛び込むほど酔狂な人じゃありませんよ」
別所はクリスにそう答えた。確かに今のクリスにもそう思えた。だが、その先が見えなかった。
「それじゃあ、私は帰りますね。まあ結局無駄足だったということですか」
そう言い残して別所は坂を下ろうとした。ふと腕時計を見たクリスの目の先に四時を指す針が見える。クリスはそのまま別所について坂を下りた。本部の前には一人、嵯峨がタバコを吸いながら突っ立っていた。
「おう、別所。帰るのか?」
嵯峨はそう言いながらタバコの灰を携帯灰皿に落とす。
「そうそう胡州を離れられる身分ではありませんから」
「皮肉のつもりかよ」
そう言うと嵯峨は不敵に笑った。彼の兄、西園寺基義が嵯峨の帰国を待っているのは間違いなかった。だが彼はこの地を離れないという確信がクリスにもあった。
「そうだ、嵯峨中佐。楓さんに何か伝えることとかありませんか?」
別所のその言葉に、嵯峨は思い切りむせた。
「……あれか?そうだな。迷惑はかけなければやりたいようにやれよって伝えてくれよ。こんな親父を持っちまった以上いろいろあるかも知れねえが、俺が出来ることは何も無いしな」
突然の娘への伝言に戸惑う嵯峨を見ながら別所は軽く敬礼した。
「別所さん。本当にコイツで良いんですか?」
そう言って伊藤が運んできたのはバイクだった。
「これから作戦が開始されるのに伊藤さんに手間を取らせるのもなんですから」
そう言うと別所は渡されたヘルメットを被ってエンジンをかける。
「すまねえな」
嵯峨はそう言うと吸いきったタバコを灰皿に押し込む。
「御武運を!」
そう言うと別所はそのまま坂道を登って姿を消した。