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靄がかかって思い出せない記憶…。
忘れてはいけないはずなのに、忘れてしまった大切な記憶…私はずっとそんな記憶に囚われたままである。
「おはようございますお父様、お母様」
私の一日は両親に挨拶する事から始まる。
私の名前は宝生伊織。国内でも、それなりに有名な『宝生グループ』の一人娘で、今日から私立『宝生学院』に通う事になる。
自分の親が理事をしている学校に通う事に少し抵抗はあるものの、親に逆らう事の出来ない私に選択の余地はなかった。
「伊織か…。早く席に着きなさい」
「おはよう…今日もいつも通りの時間ね」
私の挨拶に両親がそれぞれの対応をする。
お父様は基本的に愛想がない。お母様に対してもいつもそんな感じなので、おそらくそういったものを持ち合わせてないのだろう。
反対に、お母様はいつも笑顔を絶やさない。
私から見てもとても素敵な女性だ。
身内贔屓なんかではなく、心からそう思う。
席に座り、用意されていた朝食をいただく事にする。
「いただきます」
急いで食べて支度をしないと…。
本日から通う宝生学院は、昨年までは女子校だったけど、今年から共学として再スタートする。
「新入生代表の挨拶をする男の子、入試で唯一満点を取った人よ。伊織も惜しかったけど、今後のテストで頑張って切磋琢磨出来るといいわね」
そう…私はトップの成績での合格を逃してしまった。
よって、新入生代表の挨拶を…その誰かさんに奪われてしまったのだ。
「ほう…満点での合格とは凄いな。百合、その男はどこの家の者だ?」
食事中は寡黙なお父様が口を開くのは珍しい。
「ご両親共に公務員で学校の先生をしているとの事よ」
「そうか…。どこかの企業の遠縁の者とかでもないのか?」
「そういった情報もなかったわ」
「名前は?」
「『竹村 優哉』君よ」
「確かに聞いた事のない名前だな」
『竹村 優哉…』
私も聞いた事がない名前だ。
これから先も関わる事もないだろうから、すぐに頭の中から追いやった。
別に負けた事が悔しいとか思った訳ではない…はずだと思う。
「話した感じだと、好青年だったわよ。頭が良い事を鼻にかけてる感じもなかったわ」
「お前が褒めるのも珍しいな。今日の入学式を見に行く楽しみが出来たな」
お父様が意地の悪そうな笑いを浮かべてる。
変な事にならなければ良いのだけど…。
「伊織?そろそろ出かけないと間に合わなくなるわよ」
お母様の言葉を受け時間を確認する。
本当だ…急いで支度しないと。
「ごちそうさまでした。急いで支度して出かけます。それでは、また後ほど…」
自分の部屋に荷物を取りに戻る。
車を待たせているから急がないと。
大げさだから嫌なのだけど、中学同様に車通学をしなくてはいけないらしい。
「お待たせして申し訳ございません。今日からまた宜しくお願いします」
運転手をしてくれるのは、我が家に長く仕えてくださっている山野さん。
「いえいえお嬢様。私などにそのようなお言葉をかけていただき、恐縮です。お時間がありませんので、安全に急ぎますね」
「ふふふ…。山野さん、安全に急ぐって矛盾してますよ」
「確かにそうですね。失礼いたしました」
「面白かったって…だけですので、謝らないで下さいな」
山野さんとの付き合いも長いので、送迎中の車内は和やかな雰囲気だ。
山野さんは気を使ってくださってるので疲れているかもしれませんけど…。
学校に到着すると、まずは広場の掲示板に貼り出されたクラス分けの紙を見に行く。
1年A組…今日から私が勉強するクラスだ。
知り合いもほとんど居ないので、自分のクラスの確認が取れたので早速教室に向かう。
黒板に座席表が貼り出されている。それを確認して自分の席に座り、ほどなくして前から声がかかる。
「初めまして。檜山美優です」
前に座っていた女の子が後ろを振り返り挨拶してきた。
「こちらこそ初めまして。宝生伊織です」
「宝生さん、知ってる?このクラスの人が新入生代表の挨拶をするらしいの」
今朝お父様とお母様が話していた人の事ね。
名前は…もう忘れてしまったけど。
「そうなんですか…。それは凄いですね」
全く興味がないと言えば嘘になるが私には関係のない話だ。
無難な返事をしてとりあえずやり過ごそうとしたのだけど、檜山さんは解放してくれない。
「それでね?あの人らしいのよ…」
彼女の視線先を見ると1人の男子生徒が机に向かっていた。
「こんな時まで本を読んでいるって、少し変わってるよね」
確かにこんな時まで本を読むというのも…とは思う。
さして興味もないので、私はこの話を終わらせる為に結びの言葉を投げかける。
「そうかもしれませんね。それはさておき、これから宜しくお願いします…檜山さん」
「はい、こちらこそよろしくね…宝生さん!!」
挨拶を終えた頃、教室のドアが開き女性が入ってきた。
「このクラスの担当をさせていただく柊美朱です。1年間宜しくお願いします」
彼女が私達の担任らしい。20代後半ぐらいだろうか?
若い先生で見た目も悪くないので、男子生徒が騒いでいる。
これだから男子は…。同年代でも男子の方が精神年齢が低いというのは聞いた事があったけど、きっとそうなんだろう…。
この状況を見ればそう思えて仕方ない。
ふと…視線が何の気なしに彼に向いた。
この状況でも、彼は先程と同様に本を読んでいる。
肝が据わっている大物なのか…?それともただの変わり者なのか…?
どちらであれ私には関係ない話だ…。急いで思考を元に戻す。
先生から簡単に本日の予定が説明され、体育館に移動し、入学式が始まる。
学院長の挨拶…在校生代表の挨拶…と続く。
こういう形式ばった行事はどうしても慣れない。
眠気に負けまいと頑張っているのはここだけの話だ。
式も順調に進み、そろそろ新入生代表の挨拶の番になる。
例の彼の方を見ると、先程まで本の虫だったのが嘘みたいにソワソワしている。
もしかして…緊張を紛らわす為に本を読んでいたの?
見ていて危なっかしいその様子はどこか見覚えがある気がした。
「新入生代表の挨拶。新入生代表、竹村優哉」
「は、はいっ!!」
ソワソワしていたぐらいなのだから呼ばれるの分かっていただろうに…。
彼が動きだすと、会場が笑いに包まれる。
なぜなら…手と足が一緒に出ているのだから。
ウケを狙っているわけではなく大真面目なんだろう。
動きと表情がアンバランスなのがその証拠だ。
自分が笑われているわけではないけど、こういう悪意ある笑いの溢れる雰囲気がとても不愉快だ。
普段の私ならそれでも見て見ぬフリをしていただろう。
だけど今の私は、彼が笑われてるのを見ていて胸がとてもモヤモヤしている。
こんな気持ちになるのは何故なのかしら?
昔にも同じ様な事があった気がするけど、私は彼を見るのは初めてだ。
名前を聞いても記憶になかったぐらいだからそこは間違いないと思う。
でも、私が助けてあげないといけない気がしたんだ…。
「新入生代表なんだから、しっかりしないよ」
私が突然彼を注意した事により、会場から笑いが消える。
彼が申し訳なさそうに私に会釈する。
その時の少し困った様に…はにかんだ彼の表情に、なぜだかとても懐かしさを感じた。
〜〜〜〜〜〜〜
僕は今日の失態を思い返して、一人反省会をしていた。
いや、妹の前だから…一人というのは語弊がある……のだろうか?
「新入生代表の挨拶とか…緊張しても仕方ないよな…」
誰が返してくれるわけでもないけど、つい独り言が漏れてしまう。
「流石に手と足が一緒に出るとは自分でも思わなかったけど…。はぁ…」
僕が落ち込んでいるのに、目の前で笑っている妹につい文句を言いたくなる。
「お前の大好きだった…『いっちゃん』にフォローされたよ。僕の事なんて知らないだろうけど、なぜか助けてくれたよ。お前の言う通りかっこいい人だった。あの感じならお前が心配してた事にならないと思うけど…」
そう言った僕の心臓が、一瞬強く脈を打つ。
「分かった分かった。約束は守るって。その為に僕はこれまで頑張ってきたんだからさ。でも…まずは『いっちゃん』と交流を深めないといけないよな。気に入ってもらわないと約束を守るどころの話じゃないしな…」
時間が深夜2時を過ぎたので、そう言って僕はベッドに入る。
僕が弱気な発言をしたのが気に入らなかったのだろう。
うるさく鳴り響く心臓の音を無視して僕は重くなってきた瞼を閉じた。