国王と愛の大団円(5)
霊峰フェルメトの青白い岩肌を、夕陽が照らす。
「本当の、幸せ……」
俺は一人残された部屋で、フラットの言葉を反芻していた。
戴冠式での、スラーの泣きそうな顔が頭から離れない。
俺があまりに不幸せそうな顔をしていたから、彼女にあんな表情をさせてしまったのだとフラットは言う。
俺自身はそんなつもりがなかっただけに、寝耳に水だった。
スラーが女王として立つことに対し、自分の中では納得して、スラーの背中を押したつもりだった。
が、自覚のないまま心は全力で拒否していたらしい。
俺の精神が不安定になったせいでムジークは雨まで降り出してしまって、このままではいけないと理解しているのに、いつも通りに調子を戻す方法が思いつかない。
考えようとしても頭に霧がかかったように不明瞭で、焦れば焦るほど追い詰められていく気がする。
もう、どうしたらいいのかも分からなかった。
大きな窓を開けて、バルコニーへと出た。
物音を聞きつけた近衛騎士が扉を開けて様子を窺ってきたが、外の空気を吸いたいだけだ、と声をかけて下がらせる。
バルコニーの柵に手をつき、眼下に広がる雄大な景色を眺めた。
急峻な岩山の麓に領土を構えるフェルマータ王国。
飛竜の雄叫びが山々を伝播して耳に届く。
下から吹き上げてくる冷たい風は、まだほど遠い春を感じさせた。
フェルマータは一年の半分以上が雪に閉ざされていると聞く。雪国の暮らしに順応できていない身には辛い。
まるで氷漬けにされたように、身体だけでなく、心まで冷え切っていく。
ふと、影が視界の端を横切った。
遠雷の如き咆哮は、エコーでなく直接耳を貫く。
徐々に近づいている。その音の中に、心臓を揺さぶる声が混じる。
「っ……――!?」
突如吹き荒れた暴風に思わず瞼を閉じ、後退りする。
次に目を開けた瞬間、俺は信じられないものを目にした。
飛竜の背から、今まさにこちらへ向かって飛び降りようとするスラーの姿を。
「トーン兄さま!」
「なっ、……危ない!!」
優雅に靡くドレスが、太陽の光を受けて煌めくさまは、空から舞い降りる天使の羽衣に見えた。
ただ、その天使は翼を持っていなかった。
俺に向かって両手を広げ、ただ落ちてくるだけ。
反射的に身体が動く。
「うわっ」
「きゃあ!」
伸ばした腕の中に、軽い身体を受け止めた。
勢いのままに尻もちをつき、抱いたまま転がって最低限の受け身を取った。腰が痛いが大したことはなさそうだ。
すぐに上体を起こして彼女を横に座らせ、全身を検める。
「大丈夫か、どこにも怪我はないか?」
「は、はい、ありがとうございます。トーン兄さまこそ大丈夫でしたか?」
「あぁ、とりあえずはな」
転がった際にぶつけたらしい頭をさすりながら、スラーははにかんだ。
「お会いしたかったです、トーン兄さま」
頬を上気させて微笑む彼女の無事を確認できたと同時に、長い溜め息が出た。
驚きと、安堵と、呆れとが複雑に入り混じる。
「スラー……いや、スレイア女王陛下、なんという危険なことを。御身に何かあっては民が悲しむ」
俺の言葉に、一瞬だけ強張った顔をしたスラーは、しゅんと俯いた。
「……そうですよね、ごめんなさい」
俺の心臓が強く脈打つ。
まただ。
また俺のせいで、スラーから笑顔を奪ってしまったのか。
「久し振りにお会いできると思ったのに、晩餐会にもお見えにならなくて。抜け出してきちゃいました」
「あぁ……すまない」
スラーが、俺の顔をじっと見る。やがて、
「やっぱり、あの噂は完全に間違いってわけじゃなかった……」
ドレスをぎゅっと握りしめ、悲しげに呟いた。
何のことだか見当もつかず、言葉を発せられないでいるうちに、スラーは少し、俺から距離を置いた。
「フェルマータの領土狙いだったとか、恩を仇で返すわたしに愛想を尽かしたとか、そういう何も知らない人が流す噂は信じてません。でも」
栗色の瞳が、切なく揺れて俺を見る。
「トーン兄さまは、本当はわたしが女王になることを望んでいなかったんですね」
「!」
そんなことはない、と否定しようとしたが、できなかった。
彼女に嘘は通用しないのだ。
考えた末に、言葉を捻り出す。
「女王として即位すること、それが君の選択なら……それで君が幸せになれるというなら、俺は受け入れようと――」
「やめてください!」
スラーが、語気を強める。
「トーン兄さまが幸せじゃないのに、わたしが幸せになんて、なれるはずない!」
悲痛な思いを込めて、声を振り絞る。
「トーン兄さまにそんな悲しい顔をさせてしまうんだったら……わたし、女王になんてならなければよかった……!」
その言葉は鈍器となり、頭を激しく殴られた気がした。
――俺は、一体何をやっているんだ。
こんなに強く、自分に対する怒りが湧いたのは初めてだった。
何故、抗わない?
みっともなくすがりつこうとしない?
全てを諦めて、これでいいのだと自分に言い聞かせて、悲しみの運命に浸るだけが、俺の覚悟だったのか?
「わたしのこと、諦めないんじゃなかったんですか!?」
涙混じりの叫びが、俺の胸を穿つ。
「わたしだって、トーン兄さまと同じ時を生きたいんです!!」
その瞬間だった。
急速に、世界が色づいて見えた。
夕焼け空は、群青色への鮮やかなグラデーションを描いている。
白い雪に閉ざされているとばかり思っていた大地には、春の訪れを主張する蕾がそこかしこに花開いていた。
霊峰フェルメトも、鉱石が光を複雑に反射して神秘的な模様を生み出している。
世界がこんなにも美しかったことを、忘れていたなんて。
そして、俺の目の前で宝石のような涙を溜めるスラーが、その中でも群を抜いて美しい。
――心が、今再び動き出す。
俺は近寄って彼女の瞳を覗き込み、微笑んでみせた。
「ありがとう、スラー。……おかげで、目が覚めたよ」
「……トーンにいさま……?」
「君の言葉が、思い出させてくれた」
グランディオで、飛竜と対峙した時に抱いた、強い思い。
過去もしがらみも一切無視して、己の信じる未来のために全力で立ち向かった。
あれこそが、嘘偽りない俺自身の本音なのだ。
あの危機を共に乗り越えてきたのなら、他に怖いものなどありはしない。
「スラー」
二人、座り込んだまま向かい合い、スラーの手を取る。
まっすぐに見つめて、告げた。
「俺と、結婚してくれないか」
スラーは大きく目を見開いた。
「……えっ、で、でも」
動揺しているのか、手が小さく震え始める。
「わ、わたしはフェルマータの女王になってしまったから、ムジークのお嫁さんにはなれないんじゃ――」
「大丈夫だ」
両手を重ね、安心させるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君がムジーク国王の妃になると同時に、俺もフェルマータ女王の婿になる。二人で一緒に、二つの国を治めていこう」
「……うそ……」
信じられない、とスラーの顔一面に書いてある。
潤んだ大きな瞳の中に、俺が映る。一世一代の告白に緊張しているものの、しばらく鏡でも見かけなかった笑顔が、ちゃんとできていた。
「スラーがそばにいない世界など、俺には考えられなかった。そんな大切なことに、離れ離れになってから気づくなんて……我ながら何と愚かなことだと自分を呪うよ」
苦笑する。この結論に至るまで、どれだけ遠回りをしてきたのだろう。
俺は、スラーの手を握る力を強めた。
深く呼吸しても、高鳴る胸は収まらない。
意を決して、口を開いた。
「どうか、これからもずっと、俺の隣で笑っていてほしい」
みるみるうちに、スラーの瞳から水が溢れてくる。
「……はい……! う、うっ……うえぇぇん」
承諾の返事の直後、堰が切れたように泣き出した。
俺は、そんなスラーを抱きしめる。
サラサラな髪を指の間に流して頭を撫で、慈しむ。
心の底からの安堵と、想いが成就した喜びと、彼女に対する愛おしさが、俺の中から次々と湧き出てくる。
「俺の気持ちを受け止めてくれてありがとう、スラー」
「こっ、こんな、夢みたいなこと、ほんとうに?」
「もちろん、夢なんかじゃないさ」
「……今まで、『ここにいてもいいよ』って許可は、もらえてたけど……『ここにいてほしい』って、言ってもらえたのは、はじめてで」
吐き出される感情に、胸が小さく痛む。
「う、嬉しくて、笑いたいのに……っ、涙が、止まらな……!」
あぁ、参った。
可愛い。可愛くて仕方がない。
夢なんかじゃないと言った俺自身が、まだ信じられない。
本当にスラーがこれから先、ずっと俺と一緒にいてくれるというのか。
自分の心ともちゃんと向き合えないような、こんな情けない俺と。
証が欲しい。
俺たちの間に生まれた絆の、確固たる証が。
スラーの身体を離し、瞳を覗き込む。そして、
「その……キスを、してもいいだろうか」
躊躇いながら、伝えた。
顔が熱を持つのが分かる。
心臓が早鐘を打つ。
パシオネの眠りから目覚めさせた時とは、緊張の度合いがまるで違う。
スラーは涙を拭って幸せそうに微笑み、そっと目を閉じた。
「……愛している」
「わたしもです……トーン兄さま」
吐息が交わり、唇を重ねる。
柔らかな感触が、俺の身も心も溶かしていく。
苦いだけだった初めてのキスとは違い、二度目のキスは、花の蜜のように甘くとろけて――ほんのりしょっぱい、愛おしい味がした。




