国王と愛の大団円(4)
フェルマータ王国の戴冠式は、国をあげての盛大な式典となった。
圧政から解放された人々の喜びが爆発したかのように、笑顔の花があたり一面に咲き乱れる。
スレイア姫が立ち上がることは、ヴェルテ国王を慕っていた民たちの悲願だった。
この瞬間のためにグランディオ皇国時代を耐え忍んでいたと言っても過言ではなく、新しい女王のパレードは沿道を大歓声で覆い尽くし、感極まって泣き出す者も少なくなかった。
意匠を凝らした彫刻の階段を、豪華できらびやかな衣装に身を包んだ新女王が一段一段上っていく。
霊峰フェルメトの麓を削って作られた、神の竜のレリーフ。
その御前に設えられた祭壇に待つ教皇の元へ、新女王はゆっくりと歩み寄り、長いドレスの裾を引いて跪いた。
鉱石産出国の誇りと威信をかけて新たに作られた王冠が、教皇の手で新女王の頭に載せられる。
新女王は立ち上がり、教皇が退いた祭壇へ歩みを進めて、胸の前で両手を組んだ。
「わたくしスレイア=トラウム=フェルマータは、血の盟約の証をもって神の竜の御子となり、この命を賭して、フェルマータ王国の繁栄をお祈りいたします」
凛とした誓言ののち、渡された短剣で、左手の甲に小さな傷をつける。
赤く染まった手を掲げるフェルマータ女王の呼びかけに応じ、二匹の飛竜が天空を優雅に飛翔する。
新女王の誕生を祝うかのように、遠雷のような咆哮が響き渡った。
ひときわ大きな歓声に包まれ、フェルマータ王国は今、再び歴史を刻み始めた。
振り返り、民衆に笑顔で手を振る女王。
一瞬だけ曇らせた表情と、目に浮かんだ涙に、気づく者はいなかった。
――ただ、一人を除いて。
* * *
「本日はお疲れ様でございました、陛下」
フラットの労いに、あぁ、と硬い一言だけが返る。
各国からの来賓に用意された部屋。フェルマータ王宮の離れの建物で、昼に行われた戴冠式の会場を一望できる。
兄王トーンは式典に参列した衣装もそのままに、夕陽に染まる景色をずっと眺めていた。
戴冠式の後に行うはずだった来賓による祝辞の場を、ムジーク王国はフラットの判断で丁重に辞退した。
それがいかに礼を失する事態であろうとも、トーンが今の精神状態で女王に言祝ぐことができるとは、とても思えなかったからだ。
祝福の気持ちがないわけではないのだと、関係諸国に事情を隠しながら説明して回るのは少し骨が折れた。
食事は満足に喉を通らず、まともな感情も出せなくなって、日増しにやつれていく兄を見るのは辛かった。
フラットがどんなに慰めても、元気づけようとも、返ってくるのは空虚な返事だけだ。
トーンは晩餐会に出席せず、部屋に運ばれた夕餉にも相変わらず手をつけていない。
可能ならずっと目の届くところに控えていたいが、フラット自身も単なる国王側近ではなく王弟という立場を持っており、ムジーク国王の名代として晩餐会に顔を出さねばならないのだ。
部屋が暖められているとはいえ、夕暮れ時の北国の寒さに眠そうなコウモリたちを叱咤して、兄の部屋にこっそりと放つ。
随伴の近衛騎士も扉の外で待機させているので、中で異変があればすぐ気づいてくれるだろう。
「私はそろそろ行かなくてはなりませんので、御前を失礼いたします。明日は帰途につきますから、早めにお休みになってくださいませ」
今度は返事すらもなく、フラットの言葉がまるで聞こえていないかのように外を見つめ続けるトーン。
小さく嘆息し、背中に一礼した時。
「……どうして」
かすかな声を耳が拾い、フラットは顔を上げる。
硝子越しに見える兄の顔は、今も尚ムジークを覆う雨雲に似て、重く、昏い影を落としていた。
「どうしてスラーは、泣きそうな顔をしていたのだろうか……」
え、とフラットは目を見張る。
トーンの心に、何かが届いたというのか。
窓に触れる手が、ぎゅっと握りしめられた。
「俺は、本来の居場所で輝く彼女の笑顔を見に来たはずだったのに。どうしてあんなに、辛そうな――」
「それはね、兄さん」
フラットは優しく、諭すように口を開く。
「貴方が、幸せそうに見えないからだと思いますよ」
「……俺が?」
トーンが僅かに振り向いた。
えぇ、と頷いて、フラットは苦笑する。
「スラーも、兄さんの笑顔が見たいんです。兄さんがそう願うのと同じようにね」
「……そう、か……俺は、そんなに」
呆然と口元を押さえるトーン。
幸せそうに見えるよう振る舞うだけでは、意味がない。
トーンが心から幸せだと感じなければ、スラーの望む笑顔にはならないだろう。
時間が兄の心を癒すのが先か、天災によってムジーク王国が滅びるのが先か。どのみちこの先には苦難しかない。
きっとこの状況を打開できるのは、彼女をおいて他にない。
フラットは、恭しく礼をした。
「国王陛下にひとつ、ご助言申し上げます。ムジーク王国では、陛下の婚姻に際しまして、お相手の年齢も、人数も――身分だって、制限はないのですよ」
「……!」
目を見開くトーンに、にっこりと微笑んでみせる。
「どうか、兄さんがしたいようになさってください。本当の幸せとは、他者から与えられるものではありません。ご自分の幸せは、ご自身の手でしか掴めないのですから」
本当の幸せ、と呟いた声を耳に残し、フラットは部屋を出た。
フラットにできることは、たった一つだけ。
軽く身支度を整えると、急いで晩餐会の会場へと足を向けた。
* * *
晩餐会は、王宮内の大広間で執り行われた。
招待客たちは皆、机いっぱいに広げられた料理と酒に舌鼓を打ち、国の垣根を越えて和やかに談笑している。
主催者として、他国からの賓客に非礼のないよう頑張っていたスレイアだったが、慣れないドレスや靴による身体の疲労と、大人の会話についていけない精神の疲労で、一旦奥へと下がることになった。
「ごめんなさい。もう少し頑張れればよかったんですけど、足が限界で」
「謝罪なさる必要はございませぬよ、陛下」
ルグレはにこりと微笑み、椅子に座るスレイアの足を温かいタオルで包み込んでくれた。
足先からじんわりと熱が広がって、ホッと一息つく。
会場にいる間、たくさんの人たちの中から、確かにフェルマータを訪れているはずの彼の姿を探したが、とうとう見つけることはできなかった。
お世話係のフィーネが会場の隅で、彼の弟と何やら話し込んでいるのをちらりと見ただけだ。
ムジーク王国のことは、囚われの姫と虐げられていた民を助けてくれた救世主として、人々の口の端に上っていた。
その国王が祝辞の場どころか晩餐会にも顔を出さないことについて、様々な憶測が飛び交っている。
曰く、グランディオを滅ぼした後の国を手に入れるつもりだったのに失敗したから不貞腐れているのだ、とか、長い間面倒を見てやった恩を忘れた女王に愛想を尽かしたのだ、とか。
どれもこれもが失礼な妄想ばかりで、スレイアには腹立たしい。
ただ、それらを完全に否定しきれるほどの自信があるわけでもなかった。
戴冠式で見た光景を思い出す。
不安だらけの未来を乗り越える勇気が欲しくて、元気をくれるあの優しい笑顔が見たくて、必死で探した末に見つけた彼には、スレイアが求める笑顔はなかった。
それどころか、何の感情も読み取れず、まるで精巧に作られた蝋人形みたいに見えてしまい、スレイアの不安は逆に増大したのだ。
噂がもしも本当なら、それがあの無表情の理由になってしまうのも分かる気がした。
勝手に浮かぶ悪い想像に気落ちして俯いていると、フィーネがトレイを持って控え室へと入ってきた。
「スレイア様、お飲み物をお持ちしましたよ」
柔らかく湯気の立つ紅茶が側机に置かれる。
ほのかに懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
「ありがとうございます」
砂糖を多めに入れてもらい、緊張して冷えた指先を温めながら一口含む。
「あっ、これって」
スレイアが気づいて顔を上げると、フィーネは肯定するように頷いた。
「ムジーク王国名産、クロス・コスモスのフレーバーティーでございます。フラット殿下が先程お持ちくださったのですよ」
「フラット兄さまが?」
改めてカップの中の液体を見つめる。
この紅茶は、ムジーク王国で食事を共にした際に、あの人が好んで飲んでいたものだ。
いい香りだ、と言って微笑む表情を、今も鮮明に思い出せる。
だから尚のこと、表情をなくしてしまった今の彼と印象がまったく重ならない。心配だけが募る。
「トーン兄さま、一体どうしちゃったのかな……フィーネさん、フラット兄さまから何か聞いていませんか?」
スレイアの問いかけに、フィーネは困った様子で視線を彷徨わせた。
何か聞いたのだ、と直感が告げる。
「教えてください、どんな悪いことでも構いませんから」
「そうですね……」
フィーネは少し考え込んだのち、真剣な表情で口を開く。
「良いことか悪いことか、というお話以前に、本当に世間話程度しか伺っていないのです。フラット殿下にもお立場がございますゆえ、普通の会話でさえ周囲の方々に配慮なさって、お言葉選びには本当に苦心しておられるご様子でした」
「そう、でしたか……すみません、早とちりして」
しゅんとしたスレイアに向かって、フィーネは唇の前に人差し指を立てた。
「ですので、ここから先にお伝えすることは、ムジーク王国の方々のご意思とは無関係の、単なるわたくしの戯言として、お耳をお貸しくださいませね」
フィーネはスレイアの横に膝を付き、声をひそめる。
「ムジーク王国では現在、降り止まぬ雨によって各地に被害が出ているそうでございます」
「えっ!?」
スレイアは心底驚いた。
自然災害に見舞われるムジーク王国など、スラーとして育った約八年の間でもほとんど記憶になかったからだ。
ムジーク王国には、万物に宿る精霊の加護があるはず。
何らかの理由で、バランスが崩れたとでもいうのだろうか。
「もしかして……」
かつてレミーから習った、ムジーク王国と精霊の関係。
双方を繋ぐ象徴である『精霊の樹』が健やかに育つのは、国王の王気を糧にしているからだという。
精霊の力を制御できなくなった王気が、何を意味するのか。
スレイアは想像して血の気が引いた。
狼狽えるスレイアの手を、フィーネが優しく包み込む。
「長い間わたくしどものご面倒を見てくださっただけでなく、フェルマータ王国の復古にまでご尽力いただいたムジーク王国とトーン国王陛下に、今こそご恩返しをする時ではないでしょうか」
スレイアは頷いた。
返したい恩は数えきれないほどたくさんある。
だが、何をしたら恩返しになるのかが思いつかない。
「フィーネさん……わたし、どうしたら」
「スラー様が、どうなさりたいかだと思います」
かつての名で呼ばれ、どきりとする。
「トーン国王陛下は、明日にはムジークに帰られるご予定とのこと。今宵が直接お話できる最後の機会かもしれませんよ」
最後。
その言葉が、単なる脅しには聞こえなかった。
このままムジーク王国が倒れれば、話どころか、会うことすら二度とできなくなるかもしれない。
スレイアは勢いよく立ち上がり、扉へ向かって走り出す。
「ちょっと行ってきます。後のこと、よろしくお願いします!」
お任せください、とルグレ。お気をつけて、とフィーネ。
気心の知れた従者たちにこの場を任せ、スレイアは控え室を飛び出した。




