国王と愛の大団円(3)
「……本当に、これでよろしいのですか」
雪の残る道で手綱を引き歩きながら、フラットが口惜しげに問うてくる。
あの発表の後、スラーに次々と傅き祝辞挨拶の口上を述べる臣下たちを横目に、こっそりと玉座の間を辞した。
これから戴冠式の準備に入るフェルマータ王国に、長居をしては却って邪魔になる。
そばに控えていたルグレに「帰国する」とスラーへの言付を頼み、シドと随伴騎士たちも呼び戻して、見送りもそこそこにムジークへ帰還しているところだ。
「俺も、あまり長く国を空けるわけにはいかんしな。大臣の説教がこれ以上長くなったら、足が石になってしまう」
「そういうことではありません」
俺の冗談に被せてきた言葉は、少なからず苛立たしさを含んでいた。
フラットの言いたいことは予想がつく。
その怒りに対して納得させる返事を俺ができないことも、十二分に分かっている。
「俺はこれでも喜んでいるんだぞ、フラット」
「喜ぶ?」
怪訝そうに、フラット。
「スラーがフェルマータ女王となってくれるなら、身分は等しい。俺と対等に話せる相手など、お前たちきょうだい以外にいないからな。俺の方が偉いのだからと遠慮されることもなくなる」
「本当に、そのことが嬉しいとお思いなのですか? これまで以上に高い障壁が現れたようなものなのに」
障壁、か。俺は嘆息する。
彼女が女王になるということは、今までのように気軽には会えなくなるということだ。
それどころか、一目会いたい、一言会話したいと思っただけでも多くの人々を動かさなければならない。
親書のやりとりで約束を取り付け、日程を調整し、双方が厳重な警護と共に移動して、やっと。そこに自由はあり得ない。
俺が何のために、危険を承知でグランディオまで乗り込んでスラーを救出したのか、大元の理由を考えればフラットの憤りは当然と言えた。
だが、この結果に至らない選択肢など、俺にあったのだろうか。
「スラーは今や、フェルマータの民の希望だ。彼らから王を取り上げるわけにはいかない」
「それは……そうかもしれませんけど、でも」
「巻き込んでしまったお前たちには、申し訳ないと思っている」
「私たちのことはいいんです。陛下の本当のお気持ちは」
「……言わせないでくれよ」
我知らず、声が震えた。
奥歯を噛み締めて、溢れそうな感情を心の奥底に押し戻す。
フラットはそれを察してか、口を噤んでそれ以上は追及してこなかった。
しばらくののち、一言だけ、悲しそうに呟く。
「あのような別れ方、あまりにも、寂しすぎます……」
俺より先にフラットが泣き出しそうで、慌てて取り繕った。
「個人的な別れなら、昨夜済ませた。二度と会えなくなるわけでもあるまい」
いくら明るく言っても、沈鬱な雰囲気を取り去ることはできそうになかった。
一行は、リタルダンドに続く吊橋へと差し掛かる。
ぐらぐらと揺れる木の橋は、急峻な谷を眼下に広げ、寒々しい風が通り抜ける。
底に横たわる川は流れも速く、芯から凍える冷たさを湛えているだろう。精霊となった父と母も、恐らくあの川のどこかに眠っている。
そうだ。
二年前も俺は、こんな喪失感を抱いて、ムジークへの帰途についたのだ。
ここから身を投げれば、あの急流は全てのしがらみを、感情を、綺麗に押し流してくれるだろうか。
痛いほど揺れ動く心を、凍りつかせてくれるだろうか。
「……トーン兄貴?」
後ろから声をかけられて、はっと我に返った。
シドが、急に立ち止まった俺に驚いてこちらを見ている。
「すまん、何でもない」
再び歩き出したものの、足が震えているのを自覚した。
――今、俺は、死のうとしていなかったか。
自然とそんなことを考えてしまった自分が恐ろしくなって、足早に橋を渡りきった。
こんなに寒いのに、汗が噴き出て背筋を伝う。
その後は、余計な想像をせぬよう意識しすぎていたせいか、どうやって王宮まで帰ったのか覚えていない。
気づいたら、いつもの日常が戻ってきていた。
* * *
「今日も雨かぁ」
「うん……土が流れちゃうな」
自室のベッド上で憂鬱そうに呟いたソファラに、同意のぼやきを返したシドは、一緒に窓の外を眺めた。
硝子の外側を、透明な雫が止まることなく次々と伝い落ちる。
帰国してから一週間と少し、春にしては長い雨が、ずっと降り続いていた。
「あっちも雨かなぁ」
「さぁ、どうだろう」
シドは観葉植物の葉を整えながら、曖昧な返事をする。
ソファラの言う『あっち』とは、フェルマータ王国のことだろう。
飛竜はスラーにしか操れないからグランディオに帰しに行くだけで、終わったらまたムジークへ戻ってくるとばかり思っていた妹は、スラーと満足な挨拶もできずに別れてしまった。それを未だに悔やんでいるのだ。
「トーンにぃを責めるのは違うって思ったから、何も言えなかったけどさ……やっぱり寂しいな」
頭の後ろで手を組み、ソファラは溜め息をつく。
「そうだね。きっとトーン兄貴も、言いたくても言えなかったんじゃないかな」
スラーとの別れを認めることに、そしてその瞬間を迎えることに、最後まで抗っていたのはトーンなのではないかと、シドは思う。
口数少なに、フェルマータから帰還した兄王。
あれからいつも通りの執務をこなしているが、あの朗らかな笑顔をとんと見なくなってしまった。
シドが選りすぐりの綺麗な花を部屋に持っていっても、美しいと言葉では褒めてくれるものの、何の慰めにもならないようだった。
兄の笑顔がないだけで、こんなにも沈んだ気分になるのかと、シドは初めて気がついた。
裏を返せば、それだけ兄は、いつも皆のために笑っていたのだと思い知る。
――二年前の、父と母が亡くなったあの時ですら。
シドも、かつて王位継承権を持っていたから学んでいる。
国王の持つ王気が、国中の精霊のありように影響するのだと。
王気の翳りは天災に繋がり、その兆候はまず天候に現れるのだということを。
「この雨は、トーン兄貴の心の涙なんだよ」
「そっかぁ……トーンにぃ、泣いてるのか」
ソファラは窓の外の雨粒を見つめ、眉尻を下げた。
「早く、元気になってほしいな……」
祈るような呟きに頷いて、シドも空を見上げた。
重く厚い雨雲が、一面を覆い尽くしている。
植物だけでなく、この地に生きる命のほとんどは、温かい光を欲する。
兄の笑顔は、皆の太陽なのだ。
* * *
ヘオンは部屋の中心を陣取る図形を睨み、頭をがしがしと掻いた。
「あぁもう、何だよこれ。こんなの初めてだ」
王立魔法研究所にある、王宮を包む魔法障壁の遠隔管理用魔法陣。
精霊の力で魔力的な干渉を退けるための防壁が、ヘオンの予期せぬ形でうまく動作しなくなってしまったのだ。
ああでもない、こうでもない、と一人で右往左往し、早一時間。
「動力室の魔法陣とはちゃんとリンクしてる。記述の間違いも見つからない。ってことは、指揮命令系統の問題じゃないのか……?」
念のため、王宮の一番高い尖塔にある動力室も確認しておこうと、ヘオンは建物を出る。
「うわっ、と」
雨に濡れた吹きさらしの渡り廊下で、強風にあおられて危うく転倒しそうになった。
体勢と、ずれた眼鏡を直しながら、ヘオンは空を見上げる。
止まない雨と、荒れ狂う風、そして雷。
春の嵐と呼ぶには激しい天候に、精霊の加護が弱まっているのを感じる。
付近に存在する精霊にも不自然さがあることが分かる。
本来いるべきでない精霊がいたり、いてほしい精霊がいなかったりという偏りが。
魔法障壁は、時以外の精霊の力を均等に借りて編み上げる魔法膜だ。
消えてしまったことに、この精霊偏在現象が無関係だとは思えない。
「こんなのまで想定しとけって? ……無茶振りも大概にしてよね、長兄」
憤りや苛立たしさというよりは、どこか心配する声音で独り言を呟いて、ヘオンは早足で尖塔へと向かった。
* * *
「はぁ……まったく、どこまで弟馬鹿なのよ」
親馬鹿の仲間にそんな言葉があるのかどうかも不明だが、とにかくレミーは額を押さえて呻いた。
目の前のベッドで眠りこける――レミーが睡眠導入用の魔道具で強引に寝かしつけた――シャープに改めて布団をかけてやる。
兄王トーンは、今朝フラットを連れて、再びフェルマータへと旅立った。
スラーの戴冠式に出席するためだ。
シャープは眠っていたので事後報告になった形だが、それを伝えた途端「オレも行く」と言い出して起き上がろうとした。
まだまだ安静にしていなければならないのに、痛み止めがなければ碌に身動きも取れないはずなのに。
自分の状態も忘れて暴れるシャープを止めきれず、レミーは強硬手段を取らざるを得なかったのだ。
「……まぁ、気持ちは分からないでもないんだけどさ」
吐息と共にぼやく。
今のトーンは、危うい。
本人は普通を装っているつもりのようだが、表情は精彩を欠き、誰かがそばについていないと消えてなくなってしまいそうな儚さがある。
こんなに弱った兄の姿を見るのは、兄弟の誰もが生まれて初めてのことだった。
グランディオが倒れたため前ほどの危険はないとはいえ、そんな状態のトーンを今護らないでどうする、と叫ぶシャープの思いは騎士でなくとも理解できる。
「いっそスラーのこと、攫ってきちゃえばいいのにね」
女王攫いなど実現できるほど破天荒な男ならば、そもそもここまで気落ちする事態にはならないだろう。
良くも悪くも、トーンは優しすぎるのだ。
レミーは窓際に立ち、外を見る。
普段なら霊峰フェルメトは国境の山向こうに頂を覗かせるが、今は手前の厚い雲によって視界を阻まれていた。
この雨は、いつ止むのだろう。
もしこのままずっと降り続けたら――
「……いやだな、変な想像しちゃった」
頭を振って、脳に浮かんだ不吉な映像を打ち消す。
精霊の加護を失った国王がどうなるか、レミーは文献でしか知らない。
王気が濁るほどの事態は、王の心身に並ならぬ異変が起きたということだ。
王位を退くだけに留まらず、人としての末路も悲惨なものが多かったと聞く。
もしその例をなぞるならば、兄は。
「しっかりしてよ、お兄ちゃん」
焦燥にも似た祈りが、雨音で支配された部屋に響いた。
* * *
外で遊ぶ子供たちの声を聞かなくなって、幾日が経っただろう。
水嵩を増した川は氾濫の兆しを見せる。
力のある者は皆、住居の建築スケジュールを無視して、災害対応の土木作業に駆り出されていた。
川近くにあるスラムには、現在も多くの人々が住む。
居住区移転計画は動き出したばかりで、スラムの民に対する差別こそなくなったものの、未だに不便な生活を強いられている。
そこに流れ込んだ大量の水は、彼らのささやかな生活をいとも簡単に押し流した。
「おい、こっちだ! 誰か手伝ってくれ!」
白い髪と褐色の肌に雨を滴らせて、アクートは叫んだ。
数人の男が集まり、瓦礫に埋もれた老人を救出にかかる。
命からがら抜け出せた老人はアクートたちに礼を言うと、背負われて避難所へと移動していった。
「アクート、少し休んだ方がいいんじゃねぇか。ずっと働きっぱなしだろ」
自警団の仲間が、心配そうに声をかける。
アクートは肩に掛けたタオル――水を吸いきってしまって用を成さない――で顔の汚れを拭いつつ、首を横に振った。
「ここで休んで被害が拡大してしまったら、後悔してもしきれないだろう」
「でもよ」
「愚かな私を赦してくださった陛下のためにも……私はここで諦めるわけにはいかない。陛下が愛するムジークの民を、一人でも多く助けるんだ」
疲れ切っているであろうにも関わらず、精悍な瞳に決意を宿し、アクートは再び瓦礫の中をかき分けていく。声を枯らして、生存者を呼ぶ。
その後ろ姿を見つめ、男は呟いた。
「人ってのは、変わるモンだねぇ……アンタが変えたんだぜ、王様」




