国王と愛の大団円(1)
心身の疲労が極限に達していたのだろう。二日間、スラーは眠り続けた。
さすがに俺も休まないわけにはいかなかったので、帰国の翌朝からはスラーを彼女の私室に移し、ルグレとフィーネに付いてもらっている。
目を覚まして以降、食事も摂れて、順調に回復してきているという。
あれから俺も国王としての責務に忙殺されているため、まだ顔を見に行けていない。
――いや、それを言い訳に、スラーとの対話を避けていた節があることは否定できない。
結局、大臣の説教は四時間に渡った。
嘘をついて他国に乗り込み、リタルダンド国王を巻き込んで、危険すぎる上に実際騎士団長に大怪我を負わせ、挙句に身内を置いて帰ってくる、という勝手極まりない国王の行動で説教ネタには尽きなかったからで、終わった後は足腰が立たず生まれたての子鹿のようになってしまった。
危うく外出禁止を言い渡されるところだったが、フラットたちを迎えに行かなければならないので、そこは勘弁してもらった。
リタルダンド国王には親書のやりとりで改めて謝罪したが、それはもう盛大に呆れられ、窘められ、ついでによくやったと褒められた。
さすがオクターヴ前国王の息子だな、と筆跡からも遠い目をしているのが手に取るように分かったので苦笑してしまった。
シャープは治療の甲斐あって、一命を取り留めた。
何でも肋骨が複数本折れて肺に突き刺さっていたのだとか。
迅速な搬送、的確な応急処置、本人の生きる意志、そして運――どれか一つ欠けても命はなかったらしい。
まだ完全に安心はできないが、レミーが付きっきりで看病してくれていて、ひとまず快方に向かっているという。
二匹の飛竜については、クロス・コスモスの香りで薬物による洗脳は完全に解けたものの、元々寒冷地の生き物なためムジークの気候に慣れず、あまり元気がないらしい。
ヴェルテ王子の留学時代はどう世話をしていたか、何しろ二十五年前のことなので明確に覚えている者がおらず、慌てて当時の資料をひっくり返しているところだ。
かつての留学は前から決まっていたことなので、飛竜の側にも何か慣れさせるような処置を施していたのかもしれない。
シドから依頼された香水と香油をグランディオへと送ると同時に、復興支援のため人員を充てる手筈も整えた。
これにはリタルダンドも賛同してくれて、なくなって不便だった橋を再び掛け直す計画が持ち上がっている。
さすがに俺は父のように地魔法を操れないので、今回こそ普通に人海戦術で、地道に造っていくことになるだろうが。
あまりに忙しく毎日が過ぎていって、後ろ向きなことを考えている余裕がなかったのは幸いだった。
だから、飛竜たちを祖国へ帰す日――奇しくもスラーの誕生日だった――が決まった時も、あまり動揺せずにいられたのだ。
前日の夜。
さすがにいつまでも逃げているわけにはいかないと腹を括った。
何せ、スラーにとってもムジーク王国で過ごす最後の夜になるはずなのだから。
扉の前に立ち、数回ノックする。
緊張しながら名乗ると、「どうぞお入りください」と声が聞こえた。
扉を開けてからも、中に入るのは少し躊躇する。
部屋の主は幼い少女ではなく、妙齢の女性なのだ。
だが、ベッドの上に腰掛けるスラーと目が合った瞬間、俺は吸い込まれるように足を踏み込んでいた。
――月明かりに照らされる姿が、あまりにも美しかったから。
栗色の艶やかな長い髪が、天の星屑を閉じ込めたかの如く輝いて、背中からシーツの上へと流れる。
同じ色の瞳は俺の姿を映し出している。
僅かに染まった頬は触れたくなるほど柔らかそうで、俺の視線を釘付けにした。
「トーン兄さま」
落ち着いた女性の声が、耳朶を震わせる。
愛しい人が、俺の名を呼ぶ。
しばし余韻に浸っていたが、はっと我に返った俺は、しどろもどろに言葉を捻り出した。
「夜に女性の部屋を訪うなど……その、失礼かとは思ったのだが」
「いいえ。こちらこそベッドから降りられなくてすみません、まだ身体に慣れていないせいか、すぐ疲れてしまって。来てくださって嬉しいです」
「そ、そうか。無理はしなくていい」
会話が途切れる。
話したいことも、話さなければならないことも、たくさんあるはずなのに、言葉が出てこない。
「あの時は、ごめんなさい」
スラーが先に、口を開く。
「わたし、自分のことしか考えてませんでした。トーン兄さまがどれだけたくさん悩んで、グランディオに行くことを――わたしを助けようと決心なさったのか、背負っているものの大きさを思えばすぐわかるはずだったのに。ムジーク王国の人たちと、わたしひとりの命なんて、天秤にかけられるものじゃないのに……それでも、来てくれた」
スラーは飛竜の背の上で怯えていたのが嘘みたいに、嬉しそうな、そして少しだけ申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「俺がやりたいようにやっただけだ。きょうだいたちには、だいぶ背中を押してもらったがな」
「ふふ、皆さまらしいですね」
スラーは柔らかい笑顔を浮かべ、
「助けてくださって、本当にありがとうございました」
そう言って、深々と頭を下げた。
俺は、顔を上げたスラーに頷いてみせる。
助けなど望んでいなかったのではと、ずっと心の奥に蟠っていた疑念が、今やっと晴れた気がした。
彼女が俺の葛藤を理解してくれていて、俺の方が救われた心地さえする。
「グラッセのことは……愁傷だったな」
俺にとってはスラーやムジークに害なす者という認識でしかないが、あれでもスラーからすれば血の繋がった叔父なのだ。
事故のようなものだったにせよ、その死を手放しに喜ぶ気にはなれなかった。
「いいんです。あのまま叔父がグランディオの統治者であり続けたら、きっともっと多くの人が不幸になったと思いますから」
悲しそうに目を伏せて、スラーは言った。
きっとその胸中は複雑に違いない。
「そう……もう、統治者がいないんですよね。あの国には」
ぽつりと。呟いた言葉が、俺の胸に突き刺さる。
やはり逃げられることではなかったか、と思った。
霊峰フェルメトの麓に暮らす民たちは、革命で正統なる王を失い、代わりに玉座に就いた者を――賢君でなかったとはいえ――今再び失ったのだ。
為政者を抱かぬ国は、これから混迷に向かっていくことだろう。
だが、スラーには胸に浮かぶ赤い痣がある。
フェルメトの神竜に認められた証が。
その印の意味を、彼女は知っている。
スラーは言葉の先を迷っているのか、口を開いては閉じている。
大きな瞳が、すがるように俺を見る。
心に秘めた意志を表明するのは、勇気が要ることだ。
それが本当に自分の望むことなのか、自信を持てないでいるのなら尚更。
それでもきっと、彼女は決めているのだ。己がどうすべきかを。
俺は目を閉じ、嘆息する。
ただひたすら、この時が過ぎるのが惜しかった。
このまま時の精霊に時間を止めてもらったら、永遠を共にすることができるのだろうか。そんなことまで考えた。
しかし、それは意味のないことだ。
時は刻み続けてこそ、全てのものの価値を生むのだから。
俺たちは決して、歩みを止めてはならないのだ。
今度こそ、きちんと伝えておかなければ。
再び後悔しないように。
「スラー」
ベッドの横で、跪く。
細い手を取り、甲にそっと口づけた。
「俺は、君をとても大切に想っている。国王として、兄として――ひとりの男として」
顔を上げ、真剣に瞳を見つめる。
「俺が今まで、どれだけ君の言葉に支えられてきたか。どれだけ、君の笑顔に元気をもらったことか。俺にとって君は特別な、かけがえのない存在なんだ」
「トーン、兄さま……っ」
スラーの声が震えている。
「笑いたければ笑ってくれていい。自分でも不思議でな、こんな歳の差でそういう感情を抱くなんて」
「笑うわけ……ないじゃないですか……!」
スラーの瞳に水の膜が張る。
笑顔と真逆の悲しげな顔が、俺の胸を締めつける。
それが例え嘲笑でも、感動でも、歓喜であっても。
今ここで俺の想いを告げたところで、彼女が笑ってくれることはありえないと、分かっていたこととはいえ。
「ずるいです」
涙声で、スラーが俺を詰る。
「今、そんなことを言われたら、決心が揺らいじゃう」
「……ごめんな」
握ったままの手に、力が込められる。
爪が食い込む痛みを、俺は甘んじて受け入れた。
俺の言葉で決意を揺らがせてしまったのなら、俺が背中を押してやらなければならない。
「君は、女王になるといい」
笑顔を向けて、言った。
ちゃんと笑えているかどうかは自信がない。
「愛しい人が女王となるなら、これほど誇らしいことはない。王は国内で唯一無二の存在であるがゆえに、孤独だ。対等な立場になってくれるというなら、ムジーク国王として、新しい国の女王の後ろ盾となろう。最大限の援助をしよう。決して裏切らないと約束する」
スラーはもう片方の手で口元を押さえる。
嗚咽が、指の隙間から漏れる。
「大丈夫だ。不安な時は呼んでくれ、何を置いても駆けつけるから」
ついに声を上げて泣き出したスラーを、そっと抱きしめた。
肩に顔をうずめる姿がとても小さく見える。九歳の少女の幻が重なり合う。
こんな細い肩に、一国の民の未来が乗るのか。
その身に感じる重圧はいかばかりか。
スラーが一言でも「嫌だ」と言うなら、止めようと思っていた。
女王になどならず、俺のそばにいてほしい、と伝えるつもりだった。
だがきっと、そんなことは言わないだろうという確信もあった。
グランディオを離れる時、スレイア姫を呼ぶ民衆の声を聞いた。
グラッセの圧政から解放する救世主の如く舞い戻ったヴェルテ前国王の娘へ、期待に満ちた眼差しを送る民たち。
彼らを見捨てるような選択を、彼女はしないだろう。
それでも、きっと恐怖はする。
日常からかけ離れた、未知なる世界へ飛び込もうとしているのだから。
身を離してしゃくりあげながら、スラーは懸命に心情を吐露する。
「スラーみたいな子供が女王になっても、誰もついてきてくれないんじゃないかって」
「そんなことはない。君の存在そのものが、人々の希望なのだから」
「その希望が、失望に変わってしまったら」
「不安だよな。でも、こんな俺でさえ失望されずに何とかなっているんだ、頑張り屋のスラーならきっと大丈夫さ」
「いいえ、トーン兄さまは立派な人です。スラーには自信がありません」
「自信なんて最初からないほうがいい。いつだって結果は後からついてきて、積み重なって自信になる。それよりも、民を思う優しい心をどうか持ち続けてほしい」
スラーは泣き腫らした瞳で俺を見た。
躊躇いがちに、唇を震わせて。
「離れ離れになったら、トーン兄さまはスラーのことなんか忘れちゃうかも、って――」
「忘れるものか……!」
再び、スラーの身体を抱きしめる。
感触を記憶に植えつけるよう、寂しさを忘れさせるくらい、強く、強く。
「絶対に、片時も、忘れはしない。どんなに遠く離れても、いつでも俺は、スラーのことを想い続けるよ」
「ぜったい……ぜったいですよ……っ!」
背中に回された小さな手に、力がこもる。
こうなることが分かっていたから、できるだけ会いたくなかったのだ。
腕の中に閉じ込めて、このまま離したくなくなってしまうから。
しばらくスラーの嗚咽だけが響いていた部屋に、やがて静寂が訪れる。
囁くような声が、耳に届いた。
「あの……スラーのわがまま、聞いていただけますか?」
「ん? 言ってごらん」
顔を覗き込むと、スラーはぽっと頬を染めた。
「今夜は、トーン兄さまと一緒に眠りたい、です」
それを聞いて、思わず視界が歪んだ。かつての願いと同じなのに、違う。
なんと可愛らしく、そして切ない我が儘なのだろう。
俺は優しく髪を撫で、微笑んでみせる。
「俺も同じ気持ちだ。今宵はスラーと離れたくない」
「わぁ、嬉しい……!」
スラーの心からの笑顔を、ようやく見ることができた。
いつ以来だろう、いや、記憶を遡ってもこれ以上の笑顔は思い出せない。
これが共に過ごせる最後の夜だと、お互いに分かっていたが口には出さなかった。
最後だと言ってしまったら、本当にもう二度と訪れない時間になってしまう気がして。
俺とスラーはひとつのベッドに横になり、相手の温もりを感じながらいろいろな話をした。
笑い合って、慰め合って、時には涙を拭い、感情を共有する。
一緒に過ごした八年近くの年月。
二人の間に生まれた思い出を語り尽くした頃、眠そうなスラーの額に軽く口づければ、彼女はくすぐったそうにはにかんで、夢の世界へと旅立っていった。
「おやすみ、スラー」
顔にかかった髪をどけてやる。
その寝顔には、まだあどけなさが残っていて。
愛おしさと、胸が張り裂けそうになる切なさと、強くなるばかりの喪失感で胸が締めつけられて、涙が溢れて止まらなくなった。
時計の針は、進む。
「誕生日、おめでとう。……君の幸せを、心から願う」
白んできた空、北に浮かぶ星に祈り――最後にもう一度だけ、滑らかな頬にキスを落とした。




