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国王と七音の旋律 ~ムジーク王国記~  作者: 卯月慧
第十一話 国王と決戦の舞台
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国王と決戦の舞台(2)

 グランディオ城内は、思った以上に閑散としていた。

 フラットが使い魔で見た通り、大多数の兵が既に中心部に集結しているのだろう。

 残っていた警備の兵たちは軽度の中毒だったため、近づいただけですぐに武器の構えを解いた。

 七年前のフェルマータ革命時からのヴェルテ国王派はもとより、グラッセ派だった者も今回の権謀術数に憤り、俺たちに協力を約束してくれたのはありがたい。

 道案内を買って出た兵士に付いて、中心部へと急ぐ。

 フラットとシドが片っ端から香水を振りまいているせいか、追い越す兵士たちがこぞって我に返り足を止めていく。

 侵入者を排除しようと動く者は、シャープが武器の柄で殴って昏倒させれば、その衝撃との相乗効果で目が覚めたりもした。


 グランディオ城の中心部には、中央が吹き抜けで寒気が容赦なく流れ込む、すり鉢状に窪んだコロシアムがあった。観客席は兵士たちで埋め尽くされている。

 演舞台の横には鎖で繋がれた一匹の巨大な飛竜、そして――

「……!!」

 それ(・・)を見た瞬間、血の気が引いた。

 台の中央で、木の柱に磔にされた女性がいた。

 薄汚れて、ところどころ破れた白いワンピースドレスは足元がどす黒く染まっている。

 その隙間から見える、折れてしまいそうな細い手足。

 長い栗色の髪は艶を失い、風で無造作に揺れる。

 身動きひとつしない身体は遠くて表情すら窺えないが、半開きの口からは意識の所在を感じない。


――スラー。どんなに変わり果てた姿になろうとも、君を見間違えるものか。


 たった一人で祖国に戻って、心細かっただろう。

 周囲は敵だらけで頼れるものがない中で、肉体的あるいは精神的な辛苦に耐え続けて、どれだけの絶望を味わったのだろう。

 俺がもう少し早く助けに来ていれば。あの手を離したりしなければ。

 自分への抑えがたい後悔で拳が震えるが、それを全て、彼女の隣で卑劣な笑みを浮かべる男への怒りに変換して、叩きつける。

「――グラッセ!!」

 腹の底から出した声はコロシアム中に響き渡り、数多(あまた)の視線がこちらに向けられた。

 静まり返る空気の中で、グラッセが胡乱げにこちらを見た。

「おや、これはこれは。招かれざる賓客のお出ましか」

 グラッセはくつくつと嘲笑しながら、腰の剣を引き抜く。

「だが、一足遅かったようだな、ムジーク国王よ。スレイアは既にゴミクズ同然だ」

「貴様……!」

「スレイアはムジーク王国を心から愛していたようだな。ついぞ助けに来なかったムジークに対して抱いたスレイアの失意は計り知れぬ。つまり、愛する娘にここまでの絶望を与えるに至ったヴェルテの罪は、それほどまでに重く、こんなに大きく膨れ上がったのだ! ――どうだヴェルテ、見ているか! 悔しかろう! 情けなかろう!!」

 狂気の炎を宿した視線が、俺ではなく、虚空を射抜く。

 やはり、全ては兄ヴェルテ国王への復讐に回帰するのか。

「これから余が正当なる血の力を捻じ伏せる瞬間を、そこで指を咥えて見ているがよい。……取り押さえろ!」

 ざわり、と周辺がどよめく。

 最優先すべき皇帝から与えられた指令と、周囲に散開したフラットたちが撒くクロス・コスモスの香りによって解けた洗脳。

 そのはざまで兵士たちに混乱が発生し、演舞台へと続く通路が塞がれてしまった。

 俺はシャープに目配せし、二人同時に二年前と同様の精霊語を唱えた。

 闇魔法による暗幕が、俺の放った強烈な光から目を守ってくれる。

 呻き声と共に、周囲の兵士たちが眩しそうに顔面を押さえた。――が。

「同じ手は何度も食らわぬ!」

 グラッセの冷笑が響いた。

 既に薄闇の衣を纏っていたと思われる兵たちが、武器を手にこちらへ向かってくる。

 一般兵とは違う、恐らくグラッセの近衛――香水が効かない、自らの意思で主君に従う腹心だろう。

「ッ邪魔だ!!」

 シャープの槍斧が唸りを上げた。

 しなる長い柄が、片刃の斧が、鋭い駒爪が、槍の穂先が、踊るように舞って彼我の間の障害を取り除いていく。

 一目で致命傷とわかる敵が確認できないあたり、こんな状況でさえ、弟は俺の命令を可能な限り守ってくれているのだ。俺はその誠意と覚悟に応えねばならない。

 俺たちを標的にした精霊魔法の詠唱を耳が拾う。

 ヘオンから貰ったアミュレットを起動させると、目の前の何もない空間で炎の玉が弾け飛んだ。魔法障壁が火の精霊の炎を遮断したのだ。

 発動中に体感できる魔力の減りが半端ではなく、国外では王気の加護がないという父の言葉を痛感する。

 シャープが(ひら)いてくれた道を下り、レミーを庇いながら走る間も、次々と精霊魔法による攻撃が襲ってくる。

 俺は術者に聞こえるように、

「魔法など効かん! ムジークには精霊の加護があるからな!」

 と誇示してみせる。

 敵が怯んで詠唱の声が途絶えたことに手応えを感じながら一気に駆け降りる。

 例えハッタリであろうと、信じて魔法攻撃を諦めてくれればそれで良かった。

 だがそれでも、グラッセ優位の状況は変えられない。

「パシオネには更なる改良を施した。スレイアが血を流して尚、飛竜が余の命令に従えば、その時こそ余は真の意味でヴェルテに勝ったと言えよう。――血に酔わぬ飛竜の誕生だ!」

 濁った目をしたグラッセが刃を振り上げ、勝ち誇った笑みを浮かべる。

 物理的に止めるにも、魔法障壁を解除して詠唱するにも、この距離では間に合わない。


「やめろおおおおお!!」


 俺は叫んで手を伸ばす。

 無情にも、剣は振り下ろされた。

――だが次の瞬間、激しい轟音と共に熱波が押し寄せ、石礫が飛散して思わず目を伏せる。

 次に目を開けた時に俺が見たものは、

 

 グラッセのいた場所に広がる血溜まりと、爪の間から赤い液体を滴らせ、口元に炎を燻らせて咆哮する飛竜の姿だった。

 

 一拍置いて、コロシアム全体が恐慌に包まれる。

 吐き出された火球がすぐ近くに着弾し、座席が燃え上がる。

 鎖を引きちぎって踏み鳴らす足が、地を叩く尾が、地震の如く周囲を揺らす。

 洗脳が解けた兵士たちはもとより、グラッセの腹心たちも主君の変わり果てた姿を見て掌を返し、我先にと逃げ出そうとした。

 俺たちに対する抵抗が消え失せ、自由に動けるようになる。

「お兄ちゃん、スラーが!」

 レミーの声に演舞台を見る。

 くくりつけられていた木の柱が衝撃で倒れ、飛竜の足元に投げ出されていた。

 あのままでは踏まれてしまう、と焦った俺は危険を顧みずにスラーの元へと走り出す。

「あっ、オイ兄貴! ……チッ、やるしかねェか。手加減はできねェからな!」

 シャープが舌打ちしながらも槍斧を構え猛進する。

 遠くからフラットの闇魔法の詠唱が聞こえ、飛竜の視界を奪った。

 シドが魔道具で次々と炎避けの氷の盾を作り出していく。

 弟たちが気を引いてくれている間に俺はスラーのところへ辿り着き、拘束を解いて抱え上げる。

 少し離れた場所へ移動させると、レミーがスラーの容態を見てくれた。

 グラッセによる腕の切り傷に布を当てながら、

「大丈夫、傷は浅いみたい。服の血もスラーのものじゃなさそう。意識は――」

 そこまで言った時、虚ろな目をしたスラーの口元が僅かに動いた。

 レミーが耳を寄せるが、すぐに顔色を変える。視線で問う俺に、レミーは首を振った。

「……グラッセさま、って。香り程度じゃ中和できてないわ、飲ませないと」

「やってみよう」

 クロス・コスモスの香水瓶の蓋を開け、上半身を持ち上げて瓶から口元へ直接流し込む。

 だが、廃人の如く生命力が希薄なスラーの身体は嚥下(えんげ)を拒み、端から液体がこぼれ落ちてしまう。

「飲んでくれ、頼む……!」

 このまま目覚めないのではないか、元のスラーに戻ることはないのではないかと、焦燥と絶望に冷や汗が噴き出る。

「兄さん、危ない!!」

 フラットの叫喚に顔を上げる。

 両眼を覆う暗闇に目が慣れたのか、飛竜は炎を吐き散らしながらこちらへ迫ってきていた。

 巨体の影に入ろうかというその時、間に立ちはだかる後ろ姿があった。

「早く起こせ! スラー(そいつ)が命じりゃ、このデカブツを止められンだろ!? レミー、援護を頼む!」

 振り下ろされた爪を長い柄で受け流し、鱗で覆われた足に槍斧をめり込ませながら怒鳴るシャープ。

 辛うじて足止めできたものの、飛竜は不快感を隠さない。

 シャープが肩で息をしているのは当然で、そもそも人の身で対等に渡り合える相手ではないのだ。レミーが熱と風の精霊魔法で援護を始めたものの、時間的な猶予はほとんどないだろう。

 俺は決断する。

「……許してくれ」

 届かない謝罪を呟き、瓶に残る香水を呷って口に含む。

 舌に広がる苦さに顔を(しか)めつつ、物言わぬスラーへと口移しした。

 指先で触れたスラーの喉元がゆっくりと上下するのを確かめる。

 唇を離し、顔色の変化ひとつも見逃すまいと様子を窺う。

 長い睫毛が震えて、瞼がぴくりと動いた。

 焦点の定まらなかった瞳に、徐々に力が戻っていく。

「スラー。俺だ、分かるか」

 努めて優しく声をかける。

 裏腹に、肩を抱く手に力がこもった。

 光を取り戻した栗色の瞳に、俺の姿が映る。

「……トーン……兄さ……ま……?」

「スラー……良かった……!!」

 スラーが俺の名を呼んだ瞬間、胸を締めつけられる痛みが襲った。

 心の底から、彼女が無事目覚めてくれたことに安堵した。

 これは、何という幸せな痛みなのだろう。

 スラーは状況を飲み込めない様子で瞬きを繰り返している。

 感傷に浸っている場合ではない。俺はスラーの手を強く握り、力づけるように言った。

「もうグラッセはいない。俺たちは、スラーを助けに来たんだ」

「え……――」

 その時だった。


 からんからん、と金属の棒が地面に激しく打ちつけられる音と、

「いやあああぁぁぁっ!!」

 耳を(つんざ)く悲鳴が轟いた。


 咄嗟に顔を上げる。

 泣き出しそうになりながらまろぶように駆けるレミーと――観客席と隔てる低い壁のそばに倒れて鮮血を吐き出すシャープの姿が見えて、背筋が凍りつく。

 信じがたい光景が緩慢に映る。

 時の精霊が、動きを鈍くする魔法を勝手にかけたのではないかと邪推するほどに。

 飛竜のいる演舞台からあの場所まではそれなりの距離がある、あそこに叩きつけられるほどの衝撃を受けたのか。怪我の具合は。動けるのか。次の攻撃には耐えられまい、どう逃がす。火がだいぶ回っている、逃げ道は。他の皆は。

 焦る思考が、頭の中で空回りする。

 俺の動揺が伝わってしまったらしく、腕の中のスラーが小刻みに震え始めた。

「そ、そんな……いや……わたし……っ」

 狼狽に歪む表情。

「スラー、大丈夫だ」

「いや……いやだ、トーンにいさまの、だいじなもの……また、こわし、て」

「スラー!」

 両肩を掴んで、しっかりと正面から見据える。

「飛竜の声が、聞こえるか?」

 はっ、とスラーが目を見開いた。

 そのまま視線を巨影の主へと移す。

 飛竜の身体を覆う、複雑な色を孕む鱗。

 晴天の下で見ればさぞ美しいであろうそれが、今は周囲の炎で赤く煌めいていた。

 まるで内なる怒りを体現しているかのような。

 翼を揺らせば火の粉が巻き上がり、地を這うような唸り声の隙間に高熱の炎が(くすぶ)っている。

 ゆらりと、長い首をこちらに巡らせる。

 濁った金の瞳が、次の標的として俺を見据えた。

「だめ……だめだよ、この人たちは敵じゃない」

 スラーが、ふるふると首を振りながら飛竜に呼びかける。

 腕の布をほどき、まだ乾いていない傷を露わにすると、もう片方の手で血を拭って差し伸べた。

「ほら、怖くないから……お願い、目を覚まし――」

「! ……くっ!」

 間一髪のところでスラーの胴を抱いて引き倒し、距離を取る。

 手があった場所で、がちん、と鋭い牙が空を切った。

 庇い立つ俺の背後で、地面にうずくまるスラーが湿った声を出す。

「声が、聞こえない……わたしのことも、わからなくなっちゃったの……?」

 グラッセの言葉が蘇る。『血に酔わぬ飛竜の誕生』――正統なる血を前にしても正気に戻らない飛竜。

 もはや誰に従うこともなく、誰を守護することもない。

 心は完全に毒薬に蝕まれてしまったのだ。

 かつてのフェルマータの象徴は、今や暴虐の魔竜と化していた。

 このまま全てを破壊して共に朽ち果て、グランディオへ意趣返しするのだろう。

「……トーン兄さま」

 すぐそばで、場違いなほど静かな声が俺を呼ぶ。

 振り向くと、上半身だけ起こした、大人びたスラーの穏やかな笑顔がそこにあった。

 俺を見上げる澄んだ瞳に、涙の痕跡はない。

 心臓が跳ね上がる。――まただ、と思った。

 スラーは柔らかく三日月を象った唇で、言葉を紡ぐ。

「わたしには、この子を救えない……せめて最期は一緒にいてあげたいんです。お願いです、トーン兄さま。みんなと一緒に逃げてください」


 あの時と、同じ笑顔で。

 また、たったひとりで、皆を守るつもりなのか。


 きっと知らないだろう。

 君の手を離してしまった俺が、どれだけ後悔したのかを。

 きっと想像もしていないだろう。

 俺がどれほど、君を大事に想っているのかを。

 当たり前なのだ。

――俺はまだ、何も伝えられていないのだから。

 残される側の気持ちは、嫌というほど味わった。

 もう、あんな思いはしたくない。


「俺は、逃げない」

 力強く、言い放つ。

「言っただろう、スラーを助けに来たのだと」

「でも、いやなんです!」

 スラーが叫ぶ。

 まるで、九歳の子供に戻ってしまったかのように。

「ソファラ姉さまも、ヘオン兄さまも怪我をして、ムジークの王宮も壊れてしまって、そのうえシャープ兄さままで……わたしはこれ以上、トーン兄さまが大事なものを傷つけられるところを見たくない!」

――君は、分かっていない。

 俺の『大事なもの』の筆頭が、君なのだと。

 スラーを傷つけられるのが、俺にとって何よりも耐え難い苦痛であることを。

 至近距離での威嚇の雄叫びが、肌にびりびりと響く。冷や汗が頬を伝う。

「……確かに、皆俺の大事なものだ」

 飛竜を正面に見据え、剣の柄に手を伸ばす。

「だからって、君を諦めていい理由にはならない!」

 背後で、(むせ)ぶ音が聞こえた。


「俺は、君と同じ時を生きたいんだ、スラー!!」


 柄を握って一息で抜き去り、天高く掲げる。

 剣身に宿った精霊が解き放たれ、周囲に黄金色の燐光が舞う。

《雷の精霊よ――》

 呼びかけに応え、空中でぱちっと光が弾けて。


《雷鳴を轟かせ、操られし飛竜の目を覚ませ!!》

 

 詠唱完了と同時にほぼ全ての魔力が吸い取られるほどの感覚、次いで飛竜の頭上で光が収束し――激しい雷撃が、鼓膜を突き刺す轟音と共に飛竜の身体を貫いた。

 電光が表皮を伝う。

 鱗を青白く光らせて、悶絶の咆哮が辺りに響く。

 身体を硬直させた飛竜はやがて、鱗の隙間から白い煙を(くゆ)らせながらその場に倒れ伏した。

 すぐに動き出す気配はない。

 大音響の後の静寂が、耳鳴りを呼ぶ。

 剣を下ろし、ゆっくりと息を吐き出す。

 きん、と剣身が鞘に全て収まった直後、周囲からわあっと歓声が上がった。

 観客席に残っていた負傷者だけでなく、コロシアムの外まで逃げたグランディオ兵たちもいつの間にか戻ってきていたのだ。

「トーン兄さま……!」

 身体ごと振り向く。

 スラーが口元を押さえていた。

「すまない、飛竜も救う望みがあるのはこれしかなかった」

 首を横に振るスラー。

 俺の雷撃が、飛竜を殺すためのものではなかったということを、精霊語から理解してくれているのだ。

 なにぶん精霊頼みなので、上手くいっているかどうか自信はないが。

 抱き締めたい気持ちと、拒否されることを恐れる気持ちが、俺の中でぶつかり合う。

 しばしお互いを見つめるだけだった俺とスラーは、レミーの悲鳴に似た呼び声ではっと我に返った。

 周囲を見渡す。雷の精霊は俺の意思を酌んでくれたようで、電撃による被害は飛竜以外の場所には及んでいないようだった。

 コロシアムの外周にいるフラットが水魔法で周辺の炎を鎮火させ、シドは洗脳が解けたばかりで混乱している者たちへ状況を説明して回っている。そして――

「シャープ!」

 慌てて駆け寄る。

 横倒しに蹲ったまま動かない弟と、身体に縋って取り乱す妹の姿が近づくにつれ、俺の中の不安が大きくなっていく。

「大丈夫か」

 二人のそばに膝をついてザッと状況を観察する。

 レミーにはこれといった怪我はなさそうだ。

 シャープは吹っ飛ばされた時に切ったらしい額からの軽い出血以外に目立った外傷はない。が、口元を彩る赤い血、激痛に耐えている証左の脂汗、胸元をきつく押さえて苦しげに喘ぐ息遣い。何らかの体内の怪我であることは間違いなかった。

 隣に転がっているひしゃげた胸当てが、威力の強さを物語っている。

「これは……迂闊に動かせないな」

 この国に腕の良い医師がいれば、と希望に賭けて近くのグランディオ兵に声をかけるも、無情にも返ってきた言葉は否だった。

 グラッセが人の命を使い捨てのように扱ってきたので、激務に耐えられず果てたか逃げ出したという。

 搬送しようにも、ムジークはおろか隣国リタルダンドへの距離でさえ治療が間に合うかどうか分からない。

 古い吊橋経由の道程は決して平坦な地面ばかりではなかったと、往路で身にしみている。

 かといって火が消えた今、いつまでもここにいては体温が奪われる一方だ。

 焦燥に駆られていると、かすかな声が聞こえた。

「……ぅ……兄貴……」

「どうした、シャープ」

 苦しい呼吸の合間から搾り出すようなシャープの声を聞き逃すまいと、耳を寄せて拾う。

「……今度こそオレは……兄貴を、護れたよな……?」

 その言葉で、俺の胸がずきんと痛んだ。

 きっと、創樹祭の時に俺がアクートに刺されてしまって、幼い頃の誓いを守れなかったことをずっと気にしていたのだろう。

 自身がこんな怪我を負っても、心配するのは俺の身なのだ。この男はそういう奴だ。

「あぁ、もちろんだ。……お前が護ってくれなかったら、俺も無傷ではいられなかっただろう。本当に、ありがとう」

 傷に響かぬよう肩にそっと手を乗せて伝えると、弟は満足そうに微笑んで――再び苦痛に顔を歪めた。

 咳き込んだ際の新たな赤が、唇の色を上塗りする。命がこぼれ落ちていく。

「お兄ちゃん……どうしよう、シャープがしんじゃう……っ」

「レミー、落ち着け。必ず助けよう」

 いつも気丈なレミーが、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

 俺が冷静さを欠いては、皆も戸惑ってしまう。俺は意識して表情を引き締めた。

 恐らく、今の状況で頼れる存在は、彼女(・・)しかいない。

「スラー」

 同じ場所で座り込んだままのスラーのところへ歩み寄り、片膝をつく。

「飛竜はあと二匹いたと記憶しているが、そちらは無事か?」

「は、はい……あの子たちはまだ子供なので、母竜ほどひどい実験はされていないみたいです」

「そうか」

 逡巡する。

 これを頼むことは即ち、ただでさえ弱っているスラーにさらなる無理を強いるということだ。

 それこそ俺の私利私欲のために犠牲になってくれと言うようなもの。

 弟の命の危機でなりふり構っていられないのに、躊躇してしまう。

 迷う心が、言葉を喉の奥で詰まらせる。

 言わんとしていることの意図と、それに対する葛藤を察したのか、スラーが俺の手を両手で包み込む。

「トーン兄さまは、本当に優しいですね。――わたしなら、大丈夫です」

 そう言って柔らかく微笑んだ。

 あぁ、と溜め息が漏れた。

 この期に及んで、俺は彼女に救われるのだ。

 泣き出したい気分をぐっと堪えて、頭を下げる。

「ありがとう、スラー。……この恩は必ず返す」

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