国王の葛藤と決意(6)
夜もまだ明けきらないうちに、俺たちは馬に乗って王宮を出立した。
国王の動向について、国民たちは全てを把握しなくていい。
表向きはよくある隣国訪問で、盛大な見送りは不要。
彼らはいつも通りの朝を迎え、それぞれの時を過ごし、何事もなく一日を終えるだろう。
平和に暮らす者たちに、不自然を悟らせてはならない。
国境山裾の町に着いたのは昼より少し前。
事情を知るソル騎士隊長と数名の騎士に出迎えられる。
そこには先に送っていた荷物が届いており、交代の騎馬が用意され、全ての準備が整えてあった。
旅装を脱ぎ、鎧一式に身を包む。精霊の気配を感知する邪魔になるので兜は着けない。
一応、いざという時のためにそれなりに身体を鍛えているつもりだが、慣れない重量によろけていたらシャープに「大丈夫かよ」と心配された。いやあれは呆れている目だったな。
かくいうシャープは、目につく防具はガントレットと胸当て、太腿までのグリーヴのみという、ほぼいつも通りの格好で、何故そんな軽装かを問うと「動きにくいから」と一蹴された。
ヤツの得物である槍斧は懐に入られない立ち回りが基本だから、まぁ分からなくはない。
他の弟妹たちも防具を身に着けてはいたが、俺ほど重装備ではない。
まずはクロス・コスモスの香りで敵を無力化するのが最大の防御であり、攻撃を仕掛けられたとしても基本的に逃げることを第一とし、それには身軽な方がいいという判断だ。
精霊魔法も上手く使えば時間稼ぎになるだろう。
騎馬に跨り、辺りを見回す。
同じく準備を終えた弟妹たちが、俺を見て頷いた。
「ご武運を、お祈り申し上げます」
見送りに来たソル騎士隊長が、控えめの声で敬礼した。
国王へ忠誠を誓った騎士として護衛につくことを許されない歯痒さが伝わってくる。
俺は労いの笑顔を向けた。
「ありがとう。留守を頼む」
はっ、と短い返答を耳に残し、リタルダンドの王宮へ続く街道ではなく、草地へと馬首を巡らせる。
目指すは北。
――因縁の、グランディオの地へ。
* * *
部屋に入ってくる人の気配に、スラーは瞳だけを上げた。
湯気を伴う盆を持った侍女が、鉄格子の前で丁寧に拝礼する。
「お食事でございます」
記憶にある限りではいつも同じ人が持ってきてくれている、と思うとスラーは少しだけ申し訳ない気持ちになる。
捕虜であるスラーにただでさえ敬意を払ってくれているのに、この後に口にするのは食事ではなく、決まった言葉だからだ。
「……いりません」
きゅうと鳴る腹を隠して拒否の意志を示すのはこれで何度目だろう。
グラッセがスラーのことを、兄への復讐の道具としてしか見ていないことを知っている。
そんな男が用意させた食事など、何を混ぜられているか分かったものではない。
ここに来てからスラーは一度も、与えられたものを口にしていなかった。
時魔法で大量消費してしまった残り少ない魔力で水の精霊に頼み、水分だけを細々と口にしているのみだ。
眠りも浅い今、食べなければ魔力は回復せず、いずれ尽きることだろう。
水すらも飲めなくなれば、何もできずにこのままゆるゆると死を待つしかない。
死ぬのは怖くなかった。時魔法を使う前に乗り越えてきた恐怖だ。
だが死を迎えたとしてただひとつ心残りなのは、グラッセを止めることができないこと。
スラーが飛竜を留めておけなくなれば、グラッセは再びムジークの地へと侵略を開始するだろう。
だが一体どうすれば良かったのか、今のスラーに打開策を考える余力はなかった。
「どうか召し上がってくださいませ……このままでは、本当に」
懇願する声音に瞼を上げると、鉄格子の向こうの侍女が悲痛な表情でこちらを見ていた。
その姿が、ムジークに置いてきた世話係の女性と重なって泣きたい気分になる。
侍女は自らの懐に手を入れると鉄格子に顔を近づけ、声を潜めた。
「……スレイア様。わたくしは、あなた様の味方でございます」
古い名を呼ばれて、目を見開く。
侍女が格子を握り締める手は震えていた。
「グラッセ様のご指示で、お食事には心を操る毒が入れられております。今まで、召し上がったことにしてこっそり廃棄しておりました」
やっぱり、と胸中で毒づく。
グラッセは毒を使って、スラーの意志に関係なく飛竜を操るつもりなのだろうか。
「ここに、わたくしの食事の残りがございます、どうかこれだけでも」
「で、でも……」
「わたくしを信じていただけないでしょうか。フェルマータの名のもとに、誓って嘘偽りは申しません」
ごくり、と喉が鳴る。
隙間から差し出された、小さな小さな握り飯。
彼女の脇で未だ湯気を立てる食事一式よりも、それは美味しそうに見えた。
ベッドから降りたものの、足腰に力が入らない。
這うようにゆっくりと近づき、震える手を伸ばして、それを受け取る。
「い……いただきます」
恐る恐る口に含めば、冷たいながらも塩気のきいた、懐かしささえ感じさせる味が舌の上に広がった。
じっくりと噛みしめ、胃に落とす。
こらえきれず、すぐさま二口めに噛りついた。
夢中で食べるスラーを、侍女が優しい眼差しで見つめてくる。
「スレイア様のご帰還で、城内にわずかに残る反革命派の者も俄かに沸き立っております。わたくしたちは神の竜と共に在りたい。心はいつでもフェルマータの御許にございます。スレイア様は、忌まわしきグランディオ皇帝の支配から解き放たれるための、唯一の希望なのです。だからどうか――」
声が不自然に途切れ、スラーは顔を上げた。
――上げるべきではなかった、と気づいた時にはもう遅かった。
水分を含んだ重い何かが落ちる鈍い音が響き、スラーの心臓が一瞬で凍りつく。
優しい侍女の虚ろな眼差しが、床からスラーを見つめていた。
赤い液体を噴水のように湧き上がらせながら、頭を失った身体がどうと倒れ伏す。
濃い赤はぬらぬらと石畳の間を広がり、スラーの白い服を下から染め上げていく。
最後の一口分の握り飯がぼちゃりと落ち、沼の中でほどけていった。
悲鳴どころか、呼吸さえも忘れてしまったスラーの前に、影が立ちはだかる。
「ヴェルテ派の輩は、小賢しい真似をするな」
視界に入った血の滴る剣を辿り、持ち主を瞳に映す。
嘲りの笑みを顔に張りつけた、グランディオ皇帝グラッセの姿がそこにあった。
「どうだ、スレイア。貴様に慈悲をかける者の末路を見た気分は」
にやにやと自らの所業を見せびらかし、グラッセは嗤う。
人を殺めておいて微塵も悪いと思っていない神経が理解できない怒りと、あの鋭い刃はいつでもスラーを殺せるのだという恐怖に、自然と身体が震え始めた。
「『極楽の果実』の量を徐々に増やしていたが、道理でなかなか効かぬと思ったわ。料理自体を口にしていなかったのなら当然か」
「……な、なんで……どうして、こんな、ひどいことを」
やっとのことで絞り出した言葉に、グラッセが片眉を上げる。
「何故?」
血塗られた剣を掲げて。
「貴様の父が、憎いからだよォ!!」
言葉通りの憎悪に顔を歪め、感情のままの刃が振るわれる。
スラーの自由を奪う忌々しい鉄格子が、ガキンと激しい音を立ててスラーの身を守った。
グラッセは憤怒で顔を真っ赤にしたまま、語り始める。
「貴様の父ヴェルテは、幼き頃から何でも奪っていく男だった。あんな幸薄そうな顔をして、あんな気弱な性格で。だが、どれもこれも全て振りだったのだ! 奴は、謙虚で賢い王子だと装っていれば馬鹿な両親が聡明な子だともてはやし、何もかもを与えてくれると分かっていた! 現に、余が欲していたものは全て奴が手に入れた。親の愛も、優秀な臣下も、惚れた女も、勉学の機会も、飛竜を操る力も、王位も――全部、全部だ!!」
鼻息荒く、拳を握りしめる。
「奪われたのなら奪ってやればいいと思ったよ。余が懇意にしていた者の中に植物学者がいたのが幸いした。雪山深くに咲く『奇跡の花』、その実である『極楽の果実』に関してはほとんど効果が知られていなかったからな、効能を引き出してヴェルテ側の者たちを腑抜けにし、革命は容易く成った。ヴェルテは命乞いをしながら無様に死んでいったよ。王妃も王子も我が手で切り刻んでやったさ。余を王位につけなかった両親は悔やみながら冥府へ行った」
残虐非道な昔話に、スラーは耳を塞ぎたくなった。
だが、身体が動かない。
言葉ひとつ、身動きひとつ、一体何がグラッセの逆鱗に触れるか分からない。
「玉座を手に入れた余は、ヴェルテから全てを奪ったはずだった……ところがそうではなかったのだ。どこにもスレイアの死体が見つからぬ。飛竜は始末されて山奥に老いぼれしか残っておらぬ。余は卵から孵るのを待たねばならなくなった。――数年待ってようやく孵化した飛竜も、事もあろうか余の血を拒んだ!」
グラッセはスラーを指差し、わなわなと震わせる。
「相応しくない、と。そんな馬鹿げた理由があるか? きっと貴様が生きていたせいだ!」
スラーの胸元に現れた、『血の盟約』の証。
赤い痣が何かの形に見え始めた時、スラーはかつて侍従長だった男に尋ねた。
曰く、霊峰フェルメトが抱く神竜の背に乗り、意のままに操る力を得た証拠であるということ。
フェルマータ王家に生まれた者は等しく『血の盟約』を結ぶ権利を持つが、神竜の主たる証となる紋を身体に発現するのは正統なる後継者――つまりフェルマータの王座に就くべき器を有すると飛竜に認められた者のみ。
弟に命を狙われていることを知っていた父王ヴェルテは、子が生まれるたびにフェルメトへと赴き、赤子の血を捧げたという。
自身が身罷った時のために、子の誰かが次なる後継者になるべく行動していたのだ。
「死んでも尚、余から奪っていくとは……腸の煮えくり返る思いだった。憎い男に何度も虚仮にされる思いが、貴様に分かるはずもなかろうよ!」
グラッセがガァンと鉄格子を蹴った。
体重の乗った大きな音にスラーは思わず目を瞑る。
「スレイアがムジークに匿われていると突き止めたのは三年前だったが、刺客を何度送り込んでも何故か一向に成果がない。時のムジーク国王も召喚要請を無視した! ならば余の力で『血の盟約』などというくだらぬ伝統はねじ伏せてやる――そう決意した余は、さらに研究を重ねて『極楽の果実』を改良し、ついに飛竜を盟約なしに従えることが可能になったのだ。しかも同時に三匹、ムジークで猛威を振るったあの姿を貴様も見たはずだ。これが奴に打ち勝ったと言わずして何であろう!」
傲慢な高笑いが、狭い部屋に響く。
グラッセは剣の切っ先をスラーへと向けて、厭らしく口角を上げた。
「スレイアよ、貴様はヴェルテが最も大切にしていたものの一つ。……ただ殺すだけではつまらぬ。余の復讐心を満たす糧となり、せいぜいもがき苦しんで死ぬがよい」
グラッセが顎をしゃくって合図すると、後ろに控えていた兵士が牢の扉を開けて乗り込んできた。
へたり込んだまま後退りするが、狭い部屋はすぐにスラーの背中を受け止めてしまう。
「そうそう、ムジークは本当に良い国だなぁ」
迫りくる手から必死に逃れようとしている間に、無視できない言葉を耳が拾う。
「実際訪れてみて驚いた。この時期にもうあんなに暖かいとは。亡き兄ヴェルテの思い出深き留学先であり、兄の唯一無二の友人オクターヴと麗しき王妃ノーテの生まれ故郷であり、また姪スレイアをここまで育ててくれた場所でもある。そんな大恩ある国には、弟として、叔父として、何か礼をせねばならぬな」
「……!」
「ムジーク王国は自然の恵みに溢れた楽園。かたやグランディオ皇国は、食えもせぬ石ころばかりで痩せた極寒の地。地理の違いのみで人々の暮らしにこのような苦労の差が出るなど、我が民が不憫でならないし、理不尽極まりない。貧困に喘ぐ我が国のために属国となることは、ムジークにとって非常に名誉なことと言えよう?」
嫌悪感を催す甘ったるい言い回しで嗤うグラッセ。
今更「民を思う」などと、この男の口から出ることが白々しく、おぞましい。
それ以上に、ムジーク王国が何の苦労もなく恵みを享受していると勘違いしていることが、スラーにはどうしても許せなかった。
オクターヴが――トーンが、国のためにどれだけ心を砕いてきたか、知りもしないで。
「……あなたに」
震える身体を抑え、睨みつける。
「ひとの心を傷つけることばかりするあなたなんかに……ムジーク王国を手にする権利なんて、ない!!」
言い切ると同時、兵士によって乱暴に床へと引き倒される。
衝撃で小さな悲鳴が漏れた。
敵意を剥き出しにしたグラッセが、スラーを見下ろす。
「そうやって偉そうに説教をたれるところは父親そっくりだ。……虫唾が走る」
やれ、と冷徹な一言が響く。
失われた体力は、抵抗と呼べるほどの行動すら許さなかった。
顎を掴まれ、強引にこじ開けられた口に流された液体。
吐き出すこともままならず嚥下した直後、スラーの意識は紅に飲み込まれていった。




