国王と別離への序曲(5)
飛竜が、炎を飲み下したように見えた。
攻撃の意思を失くした相手を斬ることができず、踏み込んだ足をその場に留める。
声のした方向へ振り返ると、一人の若い女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
何の自衛手段も持たず無防備に近づいてくる姿に、危険だ、と声をかけようとして――俺は言葉を失った。
炎の橙、煙の灰色に支配された宵闇の中で、光の精霊の化身かと見紛う純白のワンピースドレス。
緊迫感に包まれたこの場所で軽やかささえ感じさせる足取りで、音もなく瓦礫の上を舞うように歩く。
しなやかな四肢はすらりと伸び、華奢な身体は儚げで――そして何より、腰の下まである栗色の髪と同じ色の憂いに満ちた瞳が、俺の心を占める少女の姿と重なった。
「……スラー……?」
呆然と呟く。
心臓が強く脈打つ。
かつて想像した、美しく成長したスラーの姿と、あまりに瓜二つで。
だが、そんなはずはない。
だってあの子はまだ九歳の少女なのだ。
――少女の、はずなのだ。
スカートがふわりと風に舞う。
誰も動くことができない中、ゆっくり歩みを進めた女性は、俺の横を素通りして飛竜の眼前に立ち、両腕を天に広げた。
怪我をしているのか、赤い液体が指先から白く滑らかな腕をゆっくりと伝い落ちていく。
「……な、何をやっている、早く焼き尽くせ!」
我に返ったグラッセが地団太を踏んでいる。
飛竜はそんな皇帝の命に従うことなく、ただじっと女性を見下ろした。
そして、もたげていた首を下げると、大きな舌で血を舐めとり、甘えるように腕の中へと頭を埋めたのだった。
「ごめんね……こんなことさせて……」
かすかな声が耳に届く。
細い身体の数倍もある飛竜の頭を慈しむように撫で、女性はグラッセを見据えた。
「お願いです、もうやめてください……グラッセ叔父さま」
「……!!」
俺は瞠目した。
抱いた確信と、それを拒否したい気持ちが怒涛のように押し寄せてきて言葉が出ない。
「ムジーク王国は、もう叔父さまとは何の関係もないはずです。この子たちも嫌がってる」
「……クッ、ははは! そうか、そういうことか。どんな手を使ったのか知らぬが、見違えたぞ」
グラッセが引き攣った笑みを浮かべる。
「正当なる血の力はパシオネの上をゆくか……ヴェルテめ、死して尚ことごとく余の邪魔をしてくれる!!」
その形相は、兄に対する怨恨と憎悪と、とにかくこの世のどす黒いものを全て混ぜ込んだような凄まじいものだった。
「こうも戦意を失くされては侵略どころではないな。まぁ、目的のひとつは果たしたと言ってよいかもしれぬ。――帰還するぞ!」
宣言し、腕を振って従者に合図する。
それぞれの飛竜の背に乗った彼らがパシオネの実を食べさせると、後ろの二匹の飛竜は低く唸って翼をはばたかせ、宙に浮いた。
巻き起こった風が髪を煽って、かの人の顔を俺の前にさらけ出した。――視線が、交錯する。
「……トーン兄さま」
少しだけ大人びた柔らかい声が、耳朶を叩く。
彼女は微笑んでいた。透き通った瞳には涙ではなく、心からの優しさを湛えていた。
あんなに泣いていた少女は、もうそこにはいなかった。
たった数歩の距離にいるのに、足が地面に縫い付けられたように動かない。喉がからからに乾いて声が出てこない。
「スラーは……いえ、わたしは。ムジークの国を――みんなを愛するトーン兄さまのことが、大好きです」
グラッセの乗る一番大きな飛竜が、愛しい人の身体を掴む。
「だから、そんな大事なものを傷つけてしまって、ごめんなさい」
「な……何を……何を言っているんだ」
俺は喉の奥から声を絞り出す。
「わたしは、いるべきところへ帰ります」
そんな言葉は聞きたくなくて、ぎこちなく首を横に振る。
地面から足を引き剥がして、風に抗い、手を伸ばす。
やっと掴みかけた細い指は、しかしするりと空しく手の中から逃げてしまった。
飛翔する。離れていく。――行ってしまう。
「……行かないでくれ」
声が震える。視界が歪む。彼女の顔を見たいのに、輪郭がおぼろげになっていく。
「今まで、ありがとうございました。……トーン兄さまの妹でいられて、嬉しかった」
違う。
違うんだ。
妹なんかじゃなくて、君は――
翼が力強くはばたき、ひときわ強い風が吹き荒れる。
思わず目を閉じてしまった刹那、飛竜は空の闇にその身を溶け込ませていった。――彼女の笑顔の残滓を眼裏に映して。
「…………」
俺は虚空を見つめ、その場に膝をついた。
これは現実なのか。
本当に、手の届かないところに行ってしまったのか。
過ぎてしまった時は、戻せないのか。
「……俺は……っ」
地面を殴りつけ、蹲る。
「俺はまだ、何も伝えられていないのに……!」
零れ落ちた涙が小さな染みを作る。
やっと自分の正直な気持ちに気づいたのに、全てが遅すぎた。
受け入れがたい喪失感が、取り返しのつかない後悔と共に押し寄せる。
ムジークの王宮は、静寂に包まれていた。もうこの場所に脅威はない。
――また、守られてしまった。
「うああああああああ……――っ!!」
胸が張り裂けるような悔恨の念は嘆きとなって、天つ空に響き渡った。
ここで、同人誌版『国王と七音の旋律 ~ムジーク王国記III~』の内容は終わりです。
次回更新は4000字程度の短編です。




