国王と別離への序曲(3)
その日の夜。
国境遠征から戻っていたシャープが俺の執務室を訪れた。
国境山裾の町に駐屯していたルナ騎士隊が、半月ほど前に、密入国しようとするグランディオの兵士を捕まえたという報告だった。
「今までにもグランディオからの難民は港の方にはチラホラいたが、山の方、それも兵士がそうだと分かる格好で逃げてきたのは初めてだな。いつもならグランディオに追い返すところだが、状況が特殊ってンでルナ騎士隊長の判断で国境の町に留め置いてた」
グランディオからムジークへ移動する手段は二つある。
隣国リタルダンドを経由する山越えの陸路と、急峻な谷底にある流れの速い川を下って海へ出る海路。
前者はリタルダンドと協定を結んでいるためおいそれと通り抜けることはできず、後者に至ってはまさに命がけで陸地に辿り着くことすら奇跡だった。浜辺で小舟の中の遺体を引き上げたことも少なくない。
「リタルダンドが関所を通したのか」
「そこも一応問い詰めた。リタルダンド側の記録には残ってねェとさ。まァ確かに、入国と出国の両方を見逃すようなザル警備でもねェと思うから本当に通ってないンだろうが」
「ふむ……ではどうやって辿り着いたのだろう」
俺の至極当然な疑問に、シャープが肩を竦める。
「分かりゃ苦労しねェよ」
「口を割らないのか?」
いいや、と首を横に振るシャープ。
「オレも直接会ったけど、会話が成り立たねェんだよ。なんつーかこう、目の前の人間を見てねェ感じ。発見された当初は複数個所の骨折と打撲、それと広範囲の火傷があって、怪我のショックで錯乱してンのかと思ったらしいが……痛みを取り去って半月経っても良くなるどころかますます発言が怪しくなって、なんか取り憑かれてるみたいだったな。皇帝陛下万歳、とか。ありゃ聞き込みできる状態じゃねェわ」
「そうか……」
兵士、妄言、取り憑かれている――これらについて思い当たることといえば、昼間にシドからもたらされた情報、麻薬植物パシオネの禁断症状以外にない。
正常な判断力を失っている者が、リタルダンドの監視の目を掻い潜ってまでグランディオから逃げ出すことなど可能だろうか。
「取り調べすンなら護送させっけど、どうする?」
「そうだな、直接見れば何か分かるかもしれんな。頼む」
「了解。二、三日かかるぜ」
「構わん。ところで、兵士が見つかったのはどの辺りだ」
俺が机の中から地図を取り出して広げると、シャープがうーんと唸ってリタルダンドとの間に連なる山を曖昧に指差した。
「正確には分かんねェんだよな……ムジークの商人が仕入れを終えて国境の山道を通ってる時に、道から逸れた奥の方で木に引っかかってる人間を見つけて保護したんだとよ」
「木に」
何だそれは、との思いを込めて反芻する。
怪我をした状態でわざわざ木に登ったとは考えにくいし、人を襲う野生動物から逃げるためだとしても、元々動物の方が木登りは得意なので無意味だ。
となると自然、上から落ちてきたことになる。
「仮に上から滑落してきたとして、そもそもどうやってそこまで行ったのかという問題がまた出てくるな。他国の兵士が山道より上に登る意味などほとんどないと思うんだが」
「だろ? 大体リタルダンドを通らずに山に入ること自体が不可能だ。空から落ちてきたってンならまぁ分からんこともねェけどよ」
「空から……?」
シャープの冗談が冗談に聞こえず、地図を睨む。
兵士は火傷を負っていたとも言っていた。
ここ数日で仕入れた情報の断片が、頭の中でみるみるうちに線を成していく。
「……まさか、飛竜……――!?」
そう呟いたのとほぼ同時、近くでどぉんと大きな音がして、部屋全体が激しく揺れた。
いや、この感覚は部屋だけではない。
王宮の建物自体に、何か異変が起きている。
「動くな、オレが見てくる!」
シャープは立ち上がった俺を制して、バルコニーへと飛び出した。
その間にも絶え間なく衝撃が足元から伝わってくる。
周囲を確認し終え、険しい表情で中へと戻ってきた弟は、
「真下、火の手が上がってる。急いでここを離れるぞ」
俺の返事を待たずに背中を押してくる。
何が起きているのか分からないまま、腰に剣がついていることだけ確認して執務室を出た。
その直後、窓ガラスが割れる音と共に熱風が背後をかすめ、次いで布や紙が焦げる匂いが漂う。
戻って確認するまでもなく執務室の被害は甚大、その場に残っていたら無傷では済まなかっただろう。
廊下で近衛騎士と合流し、すぐ前を走るシャープの背中に問う。
「何か見えたのか!」
「分かんねェ、空からいきなり火の玉が飛んできた」
返ってきた言葉に、馬鹿な、と独りごちる。
王宮を包む魔法障壁は、一定以上の力を持つ精霊魔法をほぼ無効化する。
窓を破壊するような強さの火魔法なら外部からだと弾かれるし、内部からだと術者の時が止められるからだ。
例えば火矢など、着火に精霊魔法を使っていても燃焼維持が油などの場合は素通りしてしまうが、飛距離と威力からしてその線は薄い。
仮に攻撃だとしたら、誰が、どうやって、何のために。それとも予期せぬ自然災害なのか。
戸惑う小姓や小間使いたちに避難を促し、被害の範囲を確認しながら、やっと正面玄関の広間に辿り着いた時には、辺りは既に混乱に満ちていた。
絶え間なく続く衝撃と煙の中で、叫び声をあげて建物内へ逃げてくる者、怪我人を運び込む者、盾を構えて飛び出していく騎士たち。
シャープは騎士団の副団長に指揮権を委ね、下位騎士の指揮統率と、現状を報告できる者を呼ぶよう命じた。
「陛下、ご無事ですか!」
その時、フラットが駆け寄ってきた。
外から逃げてきたらしく、衣服がところどころ薄汚れている。怪我は特に見当たらない。
「一体何事だ」
問いかけるも、青ざめた顔の弟は首を横に振る。
「お逃げください。陛下の御身が狙われています」
「いや待て、状況が分からん。何も知らずに俺だけ逃げるわけにはいかない」
フラットは息を整え、瞳に真剣な色を灯して言った。
「――グラッセが、飛竜を従えてきました。それも複数です」
「何だと!? ……っ!」
近くの窓が破砕する。
マントで熱風から顔を守りながら、空いた穴から外を見た。
暗闇の中、篝火が照らし出すのは既知の生き物の姿。
見上げるほどの巨体。全身を覆う硬い鱗。長い尾と雄大な翼。――忘れもしない、かつてのフェルマータ王国の象徴と言われた飛竜だった。
七年前までは父の良き友の相棒として親しみ、俺も過去に窮地を救ってもらったことさえある。
それが今はどうだろう。
獰猛な光を目に宿し、周囲に炎を吐き散らして、爪は地面を抉り尾は草木を薙ぎ払う。
かつての気高さが微塵も感じられない狂暴な魔物と化していた。
ご報告に参りました、と騎士の一人が走ってきて、敬礼する。
「グラッセ皇帝は『スレイア』と、陛下の身柄を要求しています。飛竜は全部で三匹、いずれも上空から直接王宮に攻め込んできており、通常の武器では太刀打ちできません。フェルマータ王国の飛竜より好戦的で、盾で火を防ぎつつ足止めしている状況です。狙いは王宮のみのようで、城下への被害は今のところありません」
「スレイア……」
やはりそうか、と目的を察して苦々しく呟く。
それがスラーの本名だと知る者は少ないし、ごく少数の知っている者がスラーをわざわざ差し出しはしまいと信じるほかない。
「何でこんな簡単に乗り込まれたンだ」
シャープの問いに、それが、と騎士が口ごもる。
「闇魔法で夜空に紛れていた模様です。気づいた時には既に急接近しておりました」
「……盗まれたか、めんどくせェな」
シャープが苦い顔でこぼした。
他国で使われる精霊魔法は火・水・風・地の四大元素の単純な呪文が大半なので、高度な命令をしたければ精霊語の習得が必要になる。
二年前、俺たちがグランディオ城から逃げる際に使った闇魔法を調べられ、習得された可能性は否定できない。
先日国境の山道で見つかったグランディオ兵も闇に紛れた飛竜から落ちたというなら、今まで気づかなかったのも納得がいく。
「今、ヘオンが精霊魔法で騎士たちを補佐してくれていますが、全ては対処しきれないようです。ソファラもスラーを庇って負傷しました」
フラットの言葉に背筋が粟立つ。
ソファラは医務室に運ばれ、命に別状はないがすぐ動ける状態でもないらしい。
俺も様子を見に行ってやりたいが、そんな余裕はなさそうだ。
ヘオンを一人でずっと矢面に立たせておくわけにもいかない。
「他の皆は無事か」
「使い魔を飛ばしましたが、レミーは城下町の修道院にいますし、シドは書庫で姿を見た者がいたので恐らく無事でしょう。スラーもフィーネ殿と共に避難してもらいました。王宮の者たちも怪我人を優先的に避難させています」
「そうか、ありがとう」
頷き、爪先を玄関口へと向けた。
泡を食った双子が目の前に立ち塞がる。
「どこ行くンだよ、兄貴!」
「駄目です、今外に出てはなりません!」
俺はそんな二人の肩を叩いて、言った。
「グラッセとは一度話をしなければならないと思っていた。わざわざ挑発までして、俺を呼び出しているのだろう? ならば好都合だ」
「馬鹿言うな、話が通じる相手じゃねェだろ!」
「通じなかったら、殴る」
「殴る、って……今のグラッセは、獰猛になった飛竜を操っています。生身で近づくなんて、そんな無謀な――」
「無謀? それがどうした」
俺は、自分の声に怒りが乗るのを自覚した。
「俺の愛する国と、民と、きょうだいを傷つけられた。俺の身を削られたに等しい行為だ、黙って見ていられるか! ……売られた喧嘩は買う、それだけだ」
二人は俺の気迫に怯んだ様子で言葉を詰まらせる。
扉を開くかのように双子の肩を押しのけ、躊躇なく一歩を踏み出すが、それを止めようとする手はなかった。
「フラットは皆の避難を助けてやってくれ。シャープはどうせ、来るなと言ってもついてくるだろう?」
「当たり前だ」
シャープの「意地でも離れない」という意志を込めた言葉を聞き、頷く。
「行こう。――俺が、奴を止めてみせる」




