国王と別離への序曲(1)-2
「ふう……」
魔法研究所の一室。
ぱんぱんに膨らんだ手提げ鞄をやっとのことで机に置いて、スラーは一息ついた。
蔵書庫で借りてきた本は、どれも古めかしく分厚い。
過去の実験を事細かに記した貴重な文献で、一緒についてきてもらった魔法研究所長の権限で特別に貸し出しを許可されたものだ。
額の汗を拭う少女の横で、当の所長――ヘオンは涼しい顔をして一冊手に取り、パラパラと眺めていた。「僕はついていくだけだから」と最初に宣言されていたので、重い本をスラー一人で運んだことについて文句はない。
それどころか約束の時間にスラーの私室まで迎えに来てくれたというだけでも、彼の兄弟たちに言わせれば『奇跡』なのだ。
「ありがとうございます、ヘオン兄さま」
改めて礼を言うと、ヘオンは一瞬だけ瞳をこちらに向け、すぐに顔ごと逸らした。
「……別に。僕も久し振りに読みたかったし」
最近、彼の物言いは冷たいのではなくて照れ隠しなことがあるのだと、スラーにもやっとその区別がつくようになってきた。
気づいてしまうと、近寄りがたい雰囲気を放つ彼が何だか可愛らしく見えてくる。
スラーは鞄の中身を全部出すと、ほつれかけた紐綴じを壊してしまわないよう気をつけながら机の上に並べた。
表紙を彩る文字にはまだ勉強していない難しい字も使ってあって、全てを読むことはできない。当然中身などはもっと難解で言わずもがなだった。
それでもこれらの文献の内容を知りたいと願うスラーに、絵本のような読み聞かせは無理だが、実物を参照しながら要点を説明するならいい、とヘオンが言ってくれたので言葉に甘えたのだった。
ここにある本に共通して書かれた文字。それが『時』。
「これは時を止めることによる影響の考察本、こっちは未来の世界が見てみたくて自分の時を数十年止めた人の日記」
「これは……えぇと、『時の王子様』……?」
「童話だよ、時間を自由自在に操る王子の話だね。作り話だけど理からは外れてないから、時の精霊を知る人間が書いた学術書扱いで一般販売は中止になったんだ。真似する子供が出ても良くないからね」
油絵で描かれた王子らしき青年の横顔。周囲にいくつもの時計があり、そのどれもが違う時を指しているという表紙だった。
テーマが興味深いこともあって、書店の児童書売り場に並べられていたらスラーもつい手に取ってしまうだろう。
「時の精霊は、十種いる精霊のうちの一種、ということで他の精霊と同列に見られがちだけど、影響を予測するのが難しいから慎重に扱わないといけないんだ。今のところ『影響が判明している』として許可されている一部の魔法以外、学術機関でも時の精霊語自体を教えてない。学ぼうと思えば学べるからそこまで厳密に隠してるわけじゃないけど、悪用しようとした人は大抵痛い目を見てるね」
肩を竦めながら、ヘオン。
「姫は最近やけに時の精霊にご執心のようだけど、何か企んでることでもあるの?」
半眼で問われて、スラーはどきっとする。
だが下手に誤魔化したり隠したりできるような相手ではないと分かっていた。
ここのところの勉強では時の精霊語を中心に教えてもらっていたし、特殊な本の貸し出しにまで付き合わせておいて、単なる興味ですなどと言っても信じてくれないだろう。
「実は……」
一度、言葉を切って。
意を決して口を開く。
「早く成長できる方法がないかな、と思って……」
そう告げた後の長い沈黙。
耐えかねて、上目遣いで恐る恐る顔を見れば、ヘオンは意外にも薄く笑っていた。
「……ヘオン兄さま?」
呼びかけると、ヘオンは首を軽く横に振って言った。
「いや、予想通りだったから。面白くなってきたね」
スラーは途端に頬が熱くなるのを感じた。
予想していたということは、スラーが何故早く年を取りたいと思うのか、その理由までもお見通しなのだろうか。
ヘオンは予想の根拠を特に説明することなく、並べた本のうちの一冊を手に取った。
「結論から言えば、不可能じゃない。ただし、リスクが伴うことは覚悟しなきゃダメ」
「はい」
スラーは背筋を正す。
例えば、とヘオンは本のとあるページを開いて指し示した。
「時魔法には必ず『反動』が起きることは知ってるね。ここに詳しく書いてあるけど、まずは反動が大体どういう法則で発生するのかを理解して」
文字が読めないスラーのために、ヘオンが口頭で解説していく。
曰く、時の精霊に頼んで時間に干渉する際、動かした時間の分だけ別の力が働いて作用を相殺すること、それを『反動』と呼ぶ。今のところ反動をなくす手段は見つかっていない。
つまり、何かの時間を止めれば、解除した瞬間にそれ以外のものの時間が止まる。
何かの動きを遅くすれば、解除した瞬間にそれ以外のものの動きが遅くなる。
何かの時間を進めれば、進めたのと同じ量の力がどこかで消費されている、と。
「実際に見せた方が早いか」
難しくて眉間に皺を寄せているスラーに気づいたのか、ヘオンは掌を上に向けた。
《一口大の水を》《凍らせて》
まるで歌うように滑らかに、水と熱の精霊語が紡がれる。
瞬時に作られた小さな氷は、音もなく掌に落ちる。
「氷をこのまま放っておいたらどうなる?」
「解け、ます」
「そうだね。普通は空気や水分など、周囲の温度の影響で時間経過につれて解けていく」
ヘオンは反対の指で氷をつまみ上げた。
気泡のない透明な氷が、体温で解けて水となり彼の細長い指を伝い落ちていくのを、スラーは綺麗だと思いながらボーッと眺める。
《氷の時を一分間止めて》
続いてみっちり勉強してきた時の精霊語が耳に入ると、氷は雫を生み出すのをやめた。
「こうして時間を止めると、その時点での姿を維持し、新たに解けだすことはない。他の精霊を含む周囲からの干渉を受けなくなるわけだ。触ってごらん」
スラーが出した手に氷が置かれた。
掌から、想像していた通りの温度が伝わってきた。
「冷たいです」
「氷として確かな温度をこちらには伝えてくるのに、解けない。飲み物に入れておけば、これひとつでずっと冷やし続けてくれる。便利だよ」
その言い方に実感が込められていて、スラーはくすりと笑う。
ひんやりと冷たい石をころころと弄んでいると、突然一瞬で石が消え、両掌を濡らした。
「わわっ」
「一分経ったから時魔法が解除されたね。普通に置いておいたら一分程度じゃ見た目の変化はなかっただろうけど、今は姫がずっと持っていたから一気に解けたんだ」
「今、反動が起きてたんですか?」
そう、とヘオンが頷く。
「時魔法が解けた時点で、反動として氷の時間だけが一分間動き出す。その一分間を、僕たちは感知できない。君の手の上で魔法解除を迎えた氷は、そのまま君の熱で解けていき、一分間の反動が過ぎた状態が、それだ」
濡れた掌を指差して、続ける。
「氷は生き物じゃないから、君の手の上から逃げられずに解けた。そうだな、他の例――犯罪被疑者を捕まえる際に時魔法で動きを止めたとするよね。もしその時しっかり拘束しておかなかったら、時魔法が解けた直後に逃げられていたなんてこともある。だって反動中は、被疑者だけが動ける世界だ。刃物が近くにあったら縄を切ることも可能だし、押さえ込まれてなかったからって両足で飛んで逃げた奴もいる」
「ひえぇ」
「時魔法とその反動がどこまで適用範囲なのか、実のところまだ研究中で詳しくは分かってないんだ。創樹祭の冠を作った姫なら分かると思うけど、切り花の時間を止めておけば茎を曲げたり短く切ったりしても枯れないままだったでしょ? あとは人の動きを止めた場合に、着ている衣服はどこまで一緒に止まるのか、とかね。時の精霊と相当仲良くない限り、意図を正確に伝えるのは難しいんだ。精霊が命令を自己解釈して余計な事してくれちゃうこともあるし。この辺が、時の精霊が未知数であんまり関わっちゃいけない理由でもあるね。……ま、難しい話は今理解する必要はない。時魔法を使ったら、必ず相応の反動があるんだってことを覚えておいて」
スラーは頷いた。
もしかして自分はとんでもないことをしたいと思っているのではないかと、不安がよぎる。
「時を遅くした場合の反動も、止める場合と似たようなものだから分かるね。動きが遅くなった分、反動中は周囲より速く動けるようになる。そして時を戻すことはできないから、それについては考える意味がない。――さて、本題。姫が望む、『時を進める』場合だ」
胸がどきりと高鳴る。
ヘオンが別の本を手に取って開いた。
「時を進めるのは生物に対する回復魔法として転用している例が多い。怪我をした際に付近の細胞を活性化させて早く傷口を塞いだりとかね。この場合の反動は、細胞の劣化として現れる。つまり、その生物が持つ自己治癒能力を前借りする形になるかな。これは結構怖い話で、大怪我をした場合に時魔法で早く治そうとすると、その身体が本来ゆっくり使っていくはずの自己治癒能力――細胞の再生の力を反動で急速に使い果たしてしまって細胞が死滅し、怪我じゃなくて時魔法のせいで死ぬ、みたいなことが起きる」
「元気になってほしくて使ったのに、逆に死なせちゃうんですね……」
「そ。この本にも、依存して常習していたら、他人より何倍も速く老化して早死にしたって記録がある。怪我の程度によっては前借りする回復力量も想定できるけど、実際に身体が耐えうるかどうかは誰にも予測できない。だから、怪我が痛くても時魔法で楽して治そうなんて考えない方がいい」
スラーは神妙に頷いた。
「時魔法で身体の成長を早めるなら、傷の周囲だけの場合と違って身体全体に影響するぶん逆に分かりやすい。早めた時間だけ寿命が縮まる――いや、死に近くなるという方がより正確かな。六十歳まで生きる予定の人がいるとして、現在三十歳で十年時間を進めると、身体は四十歳になるよね。単純計算で、残りの寿命が三十年から二十年に減るわけだ」
ヘオンが紙に図を描いて、視覚的に分かりやすく説明してくれた。
スラーはその図を見て、疑問に思ったことを口にする。
「これだと、さっきの怪我の治療みたいな反動はどれにあたるんでしょう。ただ年を取りたくて取っただけで、損はしてないみたいに見えます。身体が年を取って、えーと、老化? することで、反動のぶんを支払ってるってことですか?」
「問題はそこなんだ」
腕を組んで、ヘオンが眉間に皺を寄せる。
「君は、自分が何歳まで生きる予定かを知ってる?」
問われて、はっ、と息を呑む。
「……わかりません」
「でしょ。それを知ってるのは恐らく時の精霊だけなんだ。本当は反動で本来の寿命より削られてる可能性があっても、それを知る術は僕たちにはない。だから反動の有無自体を検証できない」
「…………」
「それだけじゃないよ。そもそもの寿命があと一年しかないと定められてる生物が、身体の時を五年進める魔法を使ったら?」
「……っ、死んじゃう、のかな」
「確かに死亡例はある。けど、それが本当に残り寿命に満たなかったせいで死んだのか、それとも別の弊害が起きて死んだのか、判断できないんだ。だって元の寿命を知らないんだからね」
教えてくれればいいのに、と恨めしそうに虚空を見るヘオン。
精霊は目に見えないがすぐそばにいることは確実なので、きっと時の精霊を睨み付けているのだろう。
「魔法自体は簡単だよ。時の精霊語が扱えて魔力が足りるなら、あとは命令文をしっかり練って間違えずに言えれば発動する。自信が無かったら他人にかけてもらってもいいしね。ただしやり直しはきかないよ、時は戻せないから。でも、もし本気でやるつもりなら僕も協力する。面白そうだし」
あくまで淡々と、実験の試行回数が一回増えるだけだとでも言わんばかりにあっさりと勧められ、スラーは悩ましさに唇を噛む。
トーンと釣り合う女性になるために早く大人になりたいという願いが、こんなにも難しい決断を必要とするとは。
時の精霊の力を借りても、望む未来にはなり得ないかもしれない。
――最悪、使った瞬間、死ぬ。
重い選択を前に、スラーは両手をぎゅっと握りしめた。
* * *
「……では、スラーが年を取るために時魔法を使うかもしれない、というのか」
「はい、ヘオンの憶測ですが。一応、諦めさせる方向で説得するようにとは言い含めてありますけど……好奇心旺盛なあの子のことですから、もしかしたら焚き付ける可能性も」
「駄目だ!」
俺は、思わず声を荒らげて立ち上がった。
驚いた目でこちらを見るフラットに、すまん、と一言謝って、再度椅子に腰かける。
「……時の精霊に頼るのは、危険だ。時間の流れを捻じ曲げて大人になったとして、及ぼす影響が計り知れない」
「もちろん、その辺りのリスクはちゃんと説明すると言っていました」
「そもそも俺は反対だ。スラーには、正しい時間の流れの中でいろいろな経験をして、ゆっくりと大人になってもらいたい。若い頃の数年間は人生の中でも特に貴重な時期だ、それを飛ばしてほしくはない」
そうですね、とフラットも頷く。
「兄さんの考えを聞けて良かったです。世間体を気にするあまり、スラーの時魔法による成長を手放しで喜ぶようだったら、私は兄さんを殴っていたかもしれません」
にっこりと微笑みを向けてきたので、俺は照れくさくなって目を逸らした。
「あ、当たり前だろう。そんな利己的な男ではない」
ふふっと笑って、フラットは手元の紅茶を飲み干しカップを皿に置くと、立ち上がった。
「では、私も説得に参加してきますね。今ヘオンと勉強しているなら、内容はきっと時魔法のことでしょうから」
「あぁ、頼む。もしスラーがどうしてもやりたいと言うなら、一度俺のところに連れてきてくれ。俺からも説得する」
かしこまりました、の言葉と共に閉められた扉。
一人になった俺は、カップで手を温めぼうっとしたまま、しばらく物思いにふけっていた。
大人になったスラーは、きっと美しい女性だろう。目を閉じれば、姿形は何となく想像できる。
だが、大人の彼女が脳内で動く時、その唇から紡がれる言葉も、華奢な手足で表す仕草も、笑い方も――彼女を構成する内面の要素が全て子供のままで、違和感を隠し切れない。
スラーが生まれてすぐ、フェルマータで初めて顔を見た時の感動。
ムジークに逃げてきて、表情をなくしてしまったスラーを見た時の衝撃。
俺たち兄弟に心を許し、笑ってくれた時の喜び。
そして今、ただ守られるだけじゃなく、俺を守ろうとしてくれる懸命な姿に抱いた愛おしさ。
そのどれもが大事な思い出だ。
一緒に同じ時間を過ごしてきたからこそ得られた感情だ。
これからも、そうありたい。生き急いでほしくない。そのためには。
「……俺が、しっかりしなくてはな」
ひとつの決意が、俺の心に火を灯す。
――今度、きちんと伝えよう。俺の正直な気持ちを。
ともあれまずは執務を片付けようと席を立った時、扉をノックする音が響いた。
フラットが忘れ物でもしたのかと思ったが、聞こえてきたのは別の声で、若干の深刻さを帯びていた。
「陛下、シドです。――お耳に入れたいことが」




