国王と別離への序曲(1)-1
あれから数日が経った。
長椅子で夜を明かしたことで身体が冷えたのか情けなくも風邪を引き、執務に穴をあけてしまった。歳を重ねると回復も遅くなるから困りものである。
今は復帰後の初仕事を終えて執務室へと戻っているところだ。
過去を話すことによる心労で倒れたのかと最初は心配していたフラットも、実際の理由を知って露骨に呆れた顔をした。
いや実際心労もなくはなかったのだが、余計な責任を感じさせたくなかったから否定しておいたというのが正しいか。
廊下を歩きながら、フラットが苦笑する。
「スラーが凹んでいましたよ、自分がベッドを占領してしまったせいで陛下が風邪を引いたんだって」
「うう……それは可哀想なことをしたな」
一緒のベッドに入らなかったのは単純に俺自身の気持ちの問題であり、スラーに一切非はないのだが、ああも泣かせた後にさらに追い打ちをかけるようなことになってしまって心底申し訳なく思う。
「謝りに行ったほうがいいだろうか」
「そうですね、元気になったお姿を見せてあげるといいと思いますよ。――あ、噂をすれば」
フラットの言葉で視線を転じると、向こう側からヘオンと共に歩いてくるスラーの姿が見えた。
勉強をしに書庫へ向かう途中だろうか。
揺れる栗色の髪は陽の光で美しく煌めいて、俺の心臓がどきんと激しく脈打った。
あ、やばい。これはまともに顔を見られる気がしない。
「……変な顔」
近づいてきたヘオンが半眼で呟いた言葉に胸を突き刺される。
俺は咳払いをして平常心を装うと、誰に言うわけでもなくあさっての方を向き、
「これから勉強か? 相変わらず熱心だな」
と声をかける。スラーはわたわたと本を取り落としそうになりながら、
「あ、はい、トーン兄さまもお加減よくなられたようでよかったです……」
と消え入るような声で返答した。
ちらりと見るとその顔は真っ赤で、その瞬間俺にまで伝染したことを自覚した。
「そ、その、あれだ、ガンバッテナ」
「は、はい……ヘオン兄さま、急ぎましょう」
引っ込み思案なスラーにしては珍しく、げんなり顔のヘオンの腕を引っ張って立ち去っていく。
俺は反対方向に早足で歩き始め、その後を慌てた様子でフラットがついてきた。
「ちょっと陛下、何ですか今の!」
「聞くな」
「謝るんじゃなかったんですか、というか滑稽なくらい棒読みでしたよね」
「うるさい」
「そんな耳まで真っ赤になられて、まさかまた熱が」
「ああああもうオカンかお前は!」
ばん! と執務室に飛び込んで扉を閉めると、フラットを睨みつけた。
「フラット、分かってて俺をからかってるだろう」
「あは、バレましたか」
熱を持った頬を隠せない俺とは対照的に、涼しい表情で笑ってみせる弟。
「だって、あまりにも兄さんが可愛いものですから」
「可愛いって、お前な……」
くすくす笑うフラットの言いように脱力する。
このまま真面目に次の執務を始める気にもなれず、茶菓子を取り出して応接椅子に腰かける。
フラットが、部屋に用意されていたティーポットから二人分の紅茶を注いでくれた。
温かい飲み物で喉を潤し、一息つく。好きな紅茶の香りのおかげか、予期せぬ動悸はゆっくりと静まっていった。
「実は、少し安心しているんです」
先に話を切り出したのは、フラットの方だった。
「安心?」
えぇ、と頷いて。
「兄さんが、やっと妃を迎える気になってくれたんだって」
「ぶほぁッ!?」
発言に紅茶を激しく噴き出して、気管に入り込んだ熱湯を追い出すのにしばらく咳き込んだ。
ようやく収まり、涙目で弟を凝視する。
「妃? いつ? 誰が? 誰を?」
「兄さんがスラーを、です。……あれ、違ったんですか? おかしいなぁ」
何もかもお見通しといった表情を隠しもせずすっとぼけるフラットに、俺は膝に両肘をついて頭を抱えた。
「まったく、人の気も知らないで……」
「ずっと密かに応援してきた身としては、逆に兄さんが何を悩んでいるのかお聞きしたいですね。案外解決できることかもしれませんよ」
弟の言葉への突っ込みポイント、枚挙にいとまがない。
とりあえずこれ以上言い訳を重ねるのも無駄な気がして、ひとつ溜め息をついた。
「……スラーが俺に対して抱いている気持ちが、単なる兄への敬愛から来ているものではない、というのはさすがに理解した。いくら俺が鈍くても、あのひたむきな眼差しを受けて尚ずっと勘違いしていられるほど馬鹿ではない」
「まぁ、スラーの想いの強さに関しては一度実証されているようなものですしねぇ」
フラットが頬に手を当てて肯定した。
かつて悪魔の鏡がスラーの想い人を映し出した時のことを言っているのだろう。
「だからこそ、正気か、目を覚ませ、と言いたくなる」
「何故です?」
「年齢が離れすぎだろう。俺が三十四、スラーが九。以前見合いをしたヴェラの娘――名前なんだっけ――まあいい、ともかく、あの娘よりさらに年下なんだぞ。二十五歳差だぞ。下手をしたら親子だ」
「まぁ世間一般では二十五で子持ちなんてざらにいますからね」
フラットは常識的な意見を述べた後、でも、と続けた。
「ムジーク王国は一夫一婦制で婚姻年齢の下限も決まってますが、王家は世継ぎを残すことが優先されますので、国王だけは妻の年齢制限も人数制限もないんですよ」
むぐ、と言葉に詰まる俺。
「確かに国民から少女愛の謗りは免れないと思いますけど、それが何ですか。規範に沿ってるんですから堂々となさっていれば良いのです。子作りは少し待つ必要がありますが」
「い、いや、そういう問題じゃなくてだな」
「あ、もしかして世間体とか気にしちゃうんですか? ここまで独身を貫いておいて今更ですよ、兄さん」
にっこりキッパリ言い切る態度は、遠慮がなさすぎていっそ清々しい。
俺は指をくるくるさせながら、しどろもどろに言葉をひねり出す。
「スラーはまだ若い。若すぎるくらいだ。これからの人生でもっと伴侶に相応しい人物に出会うかもしれないのに、その機会を、俺なんかが奪ってしまっていいのだろうか」
「卑屈すぎる王様って、却って嫌味ですよ」
私相手だからいいですけど、と言うフラットの目が笑っておらず背筋に戦慄が走る。
確かに「俺なんか」はまずかった、国王をやっている人間が持たざる者であるなんて主張は通らない。
すぐ卑屈になるのは俺の悪い癖だな、と反省しつつ返す言葉も見つからなくて、所在なく紅茶を飲んでいると、小さな溜め息が聞こえた。
「それでスラーを手放したとして、兄さんは何とも思わないんですか?」
俺を慕ってくれていたスラーが、まだ見ぬ男の手を取り、遠くへ行ってしまうこと。俺のことを見向きもしなくなること。あの熱い視線を感じなくなること。
そのどれもが、心にぽっかりと穴を空けるだろうと思う。だが。
「……分からないんだ」
首を傾げるフラットに答えを求めるように、訴える。
「両親から託されたスラーのことを、俺は本当の妹のように可愛がってきた。今こうしてとても大切に思うこの感情も、単に情が移っただけなのではないかと、自分の気持ちに自信が持てないでいる」
うーん、と唸るフラット。
「じゃあもし、レミーやソファラが嫁ぐことになったらどう思います?」
「嫁の貰い手あるかなぁ」
「万が一いたら、と仮定して」
妹たちがこの場にいないのをいいことにお互いひどい言い草だが、冗談はさておき。
「寂しいが、祝福して送り出すだろうな」
苦笑して言うと、フラットは頷いた。
「それがスラーでも、同じように心から祝福してやれるかどうか。兄さんが自分の気持ちを量りかねているなら、まずはそこからじっくり想像してみてはどうでしょうか」
うーむ、と口元に手を当てて考える。
スラーがこの国に来た当初は、俺にとってはたくさんいる弟妹のうちの一人に過ぎなかった。
父と母が身罷った後も、今後は俺が父代わりとして守ってやらねばという意識が強かったように思う。まぁそれが原因で先日は泣かせてしまったわけだが。
意識が変わった、と自覚したのは本当につい先日のことだ。
弟妹たちの前ですら見せてこなかった弱さをスラーの前でさらけ出して、真正面から受け止めてもらえて。
過去の記憶に押しつぶされそうになっていた俺を、スラーは救い出してくれた。
あんな子供相手に何を言っているのだと笑われるかもしれないが、俺はあの時、心から安心したのだ。
そしてそれ以上に、愛おしいと思った。
腕から伝わる温もりを手放したくなくて、本当はずっと抱きしめていたかった。
あの後ベッドに戻ることができなかったのは、これ以上スラーに癒しを求めて嫌われてしまうのが怖いという臆病風が、言い訳のために理性と常識を運んできたからだ。
長男だの第一王子だの国王だのと俺を繕う仮面を剥ぎ取って、素顔を見せることができた初めての存在。
そこまで心を許せる関係は、見合いや晩餐会などでパッと出会ったくらいの相手とはそう簡単に築けるものではない。
そんなスラーが目の前からいなくなってしまうことに、俺は耐えられるのか。
「……嫌、だな」
長考の末やっと出た一言に、フラットがにこりと笑った。
「でしたら、後は兄さんの決意だけですよ」
決意。俺はその言葉を反芻する。
年齢の差も、立場の違いも、好奇の目も。あらゆる艱難辛苦から、スラーを守れるか。
――俺がスラーを、一人の女性として、愛することができるか。
「あっ、大事なことをご報告忘れてました」
「は?」
このタイミングで突然そんなことを言われて、俺の脳から迷いの思考が文字通り吹っ飛んだ。吹っ切れたのなら良かったのだが。
フラットは、良いことなのか悪いことなのか判断しきれない微妙な顔をして、頭に疑問符を浮かべる俺に言葉を投げた。
「ヘオンから相談を受けていまして。――時魔法に関することで」




