国王と過去の記憶(5)
何度もつかえながら、やっとのことでそこまで話し終えて、言葉を切った。
いつの間にか、手だけでなく身体まで震えている。
過去の記憶を辿る行為は、あの時の気持ちを追体験しているようで、胸が激しく痛んで呼吸がうまくできない。
そんな俺の背中を、スラーが泣き出しそうな顔で撫でてくれた。
「トーン兄さま、泣いてください。泣かないと、兄さまの心のほうが壊れてしまいます。スラーは、かっこ悪いなんて思いませんから」
「――……っ」
とうとう堪えきれなくなって、俺は腕で顔を覆って泣いた。
自分の嗚咽が部屋中に響いて聞こえる。
そういえば、二年前に馬車の中で最後の別れを交わして以来、両親のことを思って泣いた記憶がない。
国に帰って、弟妹や国民たちに死を伝える時も、墓を作る時でさえも。
慌ただしく過ぎていく日々についていくのが精一杯で、悲しいという気持ちは心の奥底に封印してきた。
国王として、長男として。
ただでさえ国の柱を失って不安な者たちに、出来損ないな俺が国を継ぐことで余計な心配をかけまいと、ひたすら気を張って生きてきたような気がする。
「トーン兄さまは、ものすごくがんばってます。スラー、トーン兄さまのことずっと見てるから」
死の真相はスラーにも衝撃だっただろうに、取り乱したり、泣き叫んだりせず、懸命に言葉を投げかけて俺の心を救おうとしてくれている。
こういう時の、この子の包容力は一体どこから来るのだろう。
こんなに小さな身体で。こんなに幼い心で。
「いっぱい泣いたら、きっと楽になりますよ。立派な王様でいなきゃって気持ちも、お兄さんとして強くなきゃって気持ちも……今は忘れてください」
――あぁ、何ということだろう。守ってやるつもりが、俺の方がスラーに守られている。
俺は、スラーを抱きしめた。
きゃ、と驚く声が聞こえたが、構わずに強く力を込める。
腕の中にすっぽり収まってしまう細い身体。温かな体温。かすかな鼓動がとくとくと心地よいリズムを刻んで、俺の胸に、心に、穏やかな癒しを与えてくれる。
奥底から湧き出てくる、彼女を愛おしく思うこの気持ちは何なのか。それを冷静に分析する余裕は、今の俺にはなかった。
どのくらいの時間、そのままでいただろうか。
感情を洗い流す涙がようやく出番を終えた頃、腕の中でもがくような振動を、やっと冷静さを取り戻した脳が感知した。
慌ててスラーを解放すると、ぷは、と少女は息を吸い込んだ。
「あぁ、す、すまん、大丈夫か」
「は、はい」
そうは言うものの、よく見ると顔は赤いし、頬に服の跡がついてしまっている。
苦しかっただろうに抵抗せずじっと我慢していたんだと思うと、俺は一体何をやっているんだとより一層恥ずかしくなった。
乱れた髪を軽く手櫛で梳いてやる。スラーは気持ちよさそうに目を閉じて、しばらくされるがままになっていたが――やがて、ぽつりと言った。
「……ありがとうございます」
ん? と問いかけると、スラーは少しだけ俯く。
「トーン兄さまも辛いのに、スラーに本当のことを教えてくれて。スラーの前で、我慢しないで泣いてくれて。……スラーのこと、ずっと追い出さないでいてくれて」
言葉の最後の方は、涙で揺れていた。
ぽつりと透明なひと雫が手の甲に落ちる。
「オクトさまとノーテさまを、兄さまたちの大事な人を死なせてしまったのが、スラーの叔父さまで……本当はシャープ兄さまみたいに嫌だなって思うのが普通なのに……みんな優しくしてくれたから、スラー、ちっとも気づかなくて……っ!」
「それは違う。スラーは、グラッセがしたことと、何の関係もない。だから俺たちは、スラーのことを嫌だなんて思ったことは一度もないさ。シャープも、それは分かっている」
シャープが墓でスラーに見せた態度については、フラットから大まかに聞いてはいた。それを悪いことだと断じるつもりはない。
両親から直接思いを託された俺と違い、何の覚悟をする暇も与えられないまま目の前で喪った弟にとって、心の澱がそういった形で溢れてしまうのは無理もない。
だが、そのことに対するフォローを怠ったのは俺であり、どちらも傷つける結果になってしまったことを反省する。
「きっと、創樹祭の時に俺が怪我をしたこともあって、自分への苛立ちがスラーに当たるような形になってしまったんだと思う。どうか許してやってくれ」
スラーはもう一粒涙を落としてから、こくんと頷いた。
「何も知らないで、オクトさまたちに会いたいなんて言ったスラーが悪いんです。まだ子供だから、話すのはやめておこうってみんなが思ってくれるのは嬉しいけど……でも……それならスラーは……早く、大人に……なりた……」
言葉は徐々に緩慢になり、その身体が力なくゆっくりと傾いでいく。
「おっと」
咄嗟に支えて顔を覗き込むと、濡れた睫毛に縁取られた瞳は閉じていて、小さな寝息が聞こえてきた。
無理もない。すっかり夜も更け、長い話に付き合わせてしまった上に、今日はスラーにとって心を揺さぶられることが多すぎた。
心身ともに疲れ果ててしまったのだろう。
「スラーは……ここにいても、いい……?」
きゅっと服が握られる。
その小さな手に俺の手を重ね合わせて微笑む。
「……あぁ。もちろんだ」
少女の身体をそっとベッドに横たわらせ、布団を掛けてやる。
その時、胸元の赤い痣が目に入った。
フェルマータの守護竜を操る、『血の盟約』の証。
グラッセの目的は、兄であるヴェルテ国王への復讐のために、兄が大事にしていたもの全てを奪い、破壊することだった。
母ノーテに惚れたということの真偽がどちらにせよ、ヴェルテ国王の大切な友人である父オクターヴからをも奪う復讐の一環であり、ムジークの国土が欲しいなどというのは言ってしまえばついでだ。
そんなグラッセがスラーを欲した理由に、この痣が無関係だと果たして言い切れるだろうか。
――両親がスラーを守ってくれと俺たちに託した意味を、忘れてはならない。
決意を新たにした時、軽く身じろぎしたスラーがにこっと笑って、
「……トーンにいさま……だいすき……」
と呟いたので、そのあまりの可愛らしさにどきりとして、赤面し、一通り悶えたところで我に返り、思わず周囲を見回してしまった。
ここは俺の私室で、俺たち以外誰もいないのに。いつも通りに妹同然のスラーを可愛がるのと変わらないはずなのに、何故だか妙に背徳的な気がして、そっとベッドを降りた。
音を立てないように注意しながらバルコニーへと出る。
春特有の温い風が、俺の短い金髪を巻き上げる。
過去を、意識せず封じ込めていた悲しみさえも全て吐き出したおかげで、心は軽くなった。
だがその空いた場所に生まれた別の感情が、果たして素直に受け入れてもいいものなのか、俺には判断できなかった。
スラーを守りたいという気持ちに変わりはないのに、原動力となる感情が今までとは異質なものに変化してしまった自覚がある。
そしてそれを認めまいとする、理性と常識。
「……駄目だろう、どう考えても」
自分に言い聞かせるよう、敢えて口に出してみる。
それがまた逆効果で、ますます深く意識する羽目になった。
何が、どう駄目なのか。スラーから向けられる眼差しの真意は。俺自身の本音は。受け止めるべきか、流すべきか。
堂々巡りする思考に観念し、空を仰いで独りごちる。
「今夜は、長椅子で寝るか……」
気恥ずかしさから火照った頬を春風でしばらく冷ましてから、俺は再び少女の眠る部屋へと戻っていった。




