国王と過去の記憶(2)
ヴェルテ国王は即位後、スラーを含めて三人の子宝に恵まれた。
長男のグリス王子は身体が弱く、床に臥せっていることが多いと聞いていた。父君に似てとても優しく聡明な少年だったな。
次男のポルト王子は反対にわんぱくで、考えなしだが行動力の高さは人一倍。
年齢こそ三つ離れていたが双子のように仲が良く、「二人で一人前なんだ」とよくヴェルテ国王が笑っていた。
あぁ、二人とも半人前だという意味ではなくて、どうやら俺たち兄弟の存在に影響されて、お互い助け合ってほしいという思いがあったらしい。
実際二人は相手にない部分をよく補っていたようだ。
俺が彼らに最後に会ったのは、七年前。
冬の寒さが特に厳しい年で、元々病弱だったグリス王子が重い病にかかり、そのまま帰らぬ人となってしまう。
まだ九歳という若さだった。
俺は父と共に葬儀へ参列したのだが、愛する息子を喪ったヴェルテ国王や王妃の憔悴は見ていて痛々しかった。
俺と父が国に戻ってしばらく、フェルマータで革命が起きたとの一報が入った。
ヴェルテ国王の弟であるグラッセ=トラウム=フェルマータが、自身に息子が生まれたのを機に反旗を翻し、国王夫妻とポルト王子を弑逆して王位を簒奪したのだ。
グラッセは国名を『グランディオ皇国』と改めた。
ヴェルテ国王側の抵抗にあって当の息子も戦乱のさなかで死亡したものの、グラッセ本人がその初代皇帝として今も君臨している。
ムジークはあくまでフェルマータと友好国だったので、グランディオになった際に友好宣言を解消。
さらに現在は間のリタルダンドと協定を結んで、ムジーク・グランディオ間の往来を制限しているため第三国経由の情報ではあるが、噂に聞く限りでは国民にとってあまり良い治世ではないらしい。
山や谷の多い雪国で実入りの少ない土地なうえに搾取が厳しく、周辺諸国では時折逃げてくる難民の処遇に頭を悩ませているという。
* * *
「スラーは、自分の本当の名を知っているか?」
「本当の……?」
まるで予想していなかった問いなのだろうと分かる、きょとんとした顔が返ってきた。
「今のスラーの名は俺の父が決めたものだ。本名は、スレイア=トラウム=フェルマータという。トラウムが王家の姓、フェルマータは霊峰フェルメトと飛竜と崇める名として大多数の国民につくものらしいな」
「スレイア……」
呆然と、スラーがその名を反芻する。
「ムジーク王国で匿うにあたり、父の友人マルク氏の娘という体裁で、スラー=マルク=フェルマータと改名した。スラーがフェルマータ王家の生き残りと知っているのは本当に一部の者しかいない。ヘオンが姫呼びした時は内心焦ったが、偏屈な男の皮肉と受け止められたようでな」
「……そう、だったんですね」
スラーは戸惑いがちに微笑んだ。
「スラーは、生まれた時からずっとスラーなんだと思ってました。でも、不思議と変な感じはしないです。本当の名前も、心にしっくりきます」
「それはきっと、父君と母君が幼いスラーに愛を込めて呼びかけてくれていたからだろうな。記憶にはなくても、心の奥底で覚えていたんだ」
はい、と嬉しそうに頷いて、すぐに悲しげに俯いた。
「そんなお父さまもお母さまも、お兄さまも……みんな、殺されてしまったんですね……」
胸元を押さえ、ぽつりと呟くスラー。
「何もできないスラーだけが、生き残ってしまって――」
「そうじゃない」
少女が抱く自責の念を、優しく、それでいてきっぱりと否定してやる。
「スラーが生きてここまで辿り着いてくれたことは、俺たちにとっても救いだったんだ」
懇意にしていたフェルマータの喪失によって、両親や俺たち兄弟が受けた衝撃も相当なものだった。
そんな時ルグレとフィーネに連れられてムジークに逃げてきたスラーは希望の光に見えた。
わずか二歳の幼子は国を追われたショックで表情と言葉を失っていたが、両親や兄弟であれやこれやと力を尽くして、初めて笑顔を見せてくれた時はどんなに嬉しかったことか。
スラーの細い肩を抱き寄せる。
「俺が――俺たちが家族となって、スラーのことを全力で守ってやると決めた。どうか、あの時一緒に、なんて思わないでくれ」
「はい……ごめんなさい」
スラーは瞳に浮かんだ涙を拭うと、儚げな笑顔を見せた。
安心させるように、肩を抱く指先に力を込める。
「お父さまたちは、殺されてしまうような悪いことをしたんでしょうか」
「していない、と他国の事情を断言することはできないが……少なくとも、ヴェルテ国王は国民に慕われる良い王だと、俺の目には映っていたぞ」
「グラッセは、お父さまの弟なんですよね」
「そうだな。スラーから見ると叔父にあたる」
「どうして兄弟で仲良くできなかったんだろう……って、トーン兄さまたちを見ていると思います」
今となってはスラーの唯一の血縁者となるグラッセ。
叔父が実の兄であるヴェルテ国王を殺すというその心境を、到底理解しがたいのだろう。
「確かに、ヴェルテ国王から弟君とうまくいっていないと聞いてはいた。ムジークの精霊魔法を学んだのは、自衛のためでもあるのだと。王位継承者として、弟に命を狙われる予感みたいなものがあったようだ」
「そんな……お兄さまが王様になったら、うれしいって思わないのかな」
「金や地位といった力関係が絡んでくるとそうも言っていられないのかもな。俺もスラーが生まれた時にグラッセと会ったことがあるが、あまり喜んでいないようで、めでたい場に少し浮いて見えた」
俺はわずかに苦笑する。
以前、俺自身も王位継承について悩んだ時期があったのを思い出したからだ。
弟たちに嫌われたくなくて、いっそ玉座を譲り渡そうかとも考えた。
今まで弟たちと築いてきた関係をどこかで一歩間違えていれば、フェルマータのようになっていた可能性も否定できない。
「兄弟にも、いろいろな形があるということだな。俺たちはたまたま相性が良かっただけなのかもしれない」
もちろん仲良くするために努力もしたが、と付け加えると、スラーは得心が行ったようで神妙に頷いた。
「そういえば」
「ん?」
「飛竜は、どうなりましたか? フェルマータの王族が操れるなら、グラッセ叔父さまが勝手に悪いことに使っちゃったりしないでしょうか」
心配そうなスラーに、首を横に振ってみせる。これを告げるのは少し心苦しいが。
「聞いた話ではあるが……飛竜は、ヴェルテ国王自ら始末したそうだ」
「始末……じゃあ、殺しちゃったんですか」
「悪用されるくらいならと、お父上もスラーと同じことを考えたんだろうな。死んでしまったのはかわいそうだが、悪いことのための道具にされるのはもっとかわいそうだと思うから、きっとそれで良かったんだ」
少なくともグランディオになってから、グラッセが飛竜に乗って外交の場に来たという話は聞いていない。
王座を奪うほど野心溢れる男ならば、威信のために飛竜を引き続き利用するだろう。
飛竜はフェルマータの象徴として国と共に滅びた、という見解が周辺各国の共通認識だった。
スラーが何も言わずに服の胸元を握り締める。
俺はそれを、飛竜の死に心を痛めているのだと思ったが、次に発した言葉は意外なものだった。
「それじゃあ、スラーの力は、もう何の意味もないんですね……」
「力?」
はい、と小さく返答して、スラーは突然胸のボタンを外し始めた。俺は泡を食ってそれを止める。
「ちょっ、ま、待て、いきなり何を――……っ」
露わになった肌にあるものを目にして、言葉を失った。
左胸の上あたり、白く透き通った肌にうっすらと浮き出た赤い痣あざ。その形に見覚えがあったのだ。
フェルマータの、竜の国章。
「これ、は……」
「この痣は小さい頃からあったんですけど、何かの形に見えるなって、スラーも最近気づいたんです。フィーネさんに見せたらすっごく驚かれて、ルグレさんからお話を聞きました。……これが、フェルマータの守護神たる飛竜との『血の盟約』の証だ、って」
「飛竜を、操る力……」
「血を使って飛竜にお願いするんだって言ってました。今のスラーは身体が小さくて痣も薄いし、血をたくさん抜くのは危ないからダメだけど、これからこの痣が少しずつ濃くなっていってくっきり見える頃――大人の身体になる頃には、ちゃんと飛竜が操れるようになるんだそうです」
それを聞いて、俺はスラーの痣から目を離すことができなかった。
過去の記憶が蘇り、穴のあいたパズルにピースがかちりとはまる。
頭の中を悪夢のような光景が駆け巡って渦巻いて、闇色に塗り込めていく。
感情が高ぶり、胸の奥がぎゅうっと掴まれる感覚があって、自然と呼吸が浅くなった。
「そんな……それでは……」
「……トーン兄さま?」
「!」
我に返った時には、指先がスラーの胸元に触れそうになっていた。
スラーが恥ずかしそうに身をよじったので、慌てて手を引っ込める。
「す、すまない」
「いえ……大丈夫ですか? 顔色が……」
大丈夫だ、とスラーに答えたのは、自分に言い聞かせるためでもあったかもしれない。
鼓動が早まる心臓を押さえ、一度冷静になるため、深い呼吸をする。
「今、やっと本当に理解できたんだ……あの時、父と母が招かれた理由が」
「えっ?」
「二年前、父と母はグラッセに招かれてグランディオを訪れ――命を落とした」
スラーが息を呑む音が聞こえる。
両親の死の真実については最初から話すつもりでいたものの、新たな事実によって俺自身がこんなに動揺することになるとは思ってもみなかった。
心の中がぐちゃぐちゃで、とにかく何かを吐き出してしまわないと苦しくて仕方ない。
だがそれをぶつける相手とタイミングは本当にこれで良いのだろうか、と辛うじて歯止めをかける自分がいる。
俺でも受け止めきれていないものを、こんな少女に背負わせてしまっていいのだろうか。
その時、俺の手に小さな温かい手が重なる。そこで初めて、俺は自分の手が震えていることを知った。
「トーン兄さま、大丈夫です……大丈夫ですよ」
俺を優しく包み込む、聖母を思わせる声。
「辛いことは、分け合えばそのぶん軽くなります。ひとりで抱え込まなくていいんです。なんでも話してください。スラーは……トーン兄さまの力になりたい」
心に沁みこむ言葉に、視界がぼやける。
何もしていないのに、辛いだけだった胸の苦しさが少しだけ和らいだ気がした。
「ありがとう。……普段スラーに何でも話してほしいと言っているのは俺の方なのに、俺が溜め込んでしまっては世話がないな」
相手が九歳の少女であることを今更思い出して自分の情けなさに苦笑し、もう片方の手でスラーの手を包み込む。
冷えた掌がじんわりと熱を帯びるのを感じながら、再び過去と向き合う決意をした。




