国王と幼姫の慕情(4)
結局昨夜はあまり寝付けなかった。
眠い目を擦りつつ無難に朝議を終え、私室のある棟への道のりを考え事をしながら歩く。
あの鏡の悪魔は覗き込んだ者の心を読み取り、その時一番心の中を占めている相手を映し出して化けるものである、というところまでは思い出した。
被害者に女性が多かったことから『恋患っている相手』が映ることが多いのは必然で、市井においては恋占いの鏡として使われていたこともあったらしい。
つまり、スラーが覗き込んで俺が映ったのなら、スラーの心の中は俺でいっぱいだったというわけで。……改めて認めると恥ずかしくなってくるな。
だが、それが本当に恋心かというと断言はできない。
スラーに最後に言われたこととレミーの発言から察するに、俺自身が父親のつもりでいたのが嫌だったのだろうが、何せまだ九歳だしな。
そんな少女が抱く気持ちは曖昧で、移り気で、憧れを錯覚していたり、恋に恋する状態だったりするかもしれない。
ともあれ、俺の言葉でスラーを泣かせてしまったのは事実だ。
一言謝りに行かねばなるまい。少々気まずいが。
昨日の廊下に差し掛かった時、同じ場所に人影があって一瞬立ち竦んでしまった。
よくよく見れば背格好はスラーと全然違う大人の女性のものだ。
意外にトラウマになっているのかもしれんな、と自分に苦笑して、その人影に声をかける。
「おはよう、フィーネ」
「これは国王陛下。おはようございます。こんな姿でお目汚しを失礼いたします」
フィーネはたくさんの白い布を入れた籠を抱えたまま立ち止まり、会釈をした。
「気にするな、いつもありがとう。スラーは部屋にいるか?」
「はい、おられますが……今はちょっと」
表情を曇らせる侍女に、少しだけ心拍数が上がる。
まさか俺とは会いたくないと言われているとか。
「これからソファラ様とお散歩に出られるとのことで、お召し替えの最中でございますから。いくら陛下でも外でお待ちいただかないと」
「そ、そうか、そうだな。ではここで少々待つとしよう」
言い方に安堵がダダ漏れだったらしく、くすくすとからかうように笑われて、照れ隠しに頭を掻く。
フィーネが籠を足元に置いて雑談に付き合ってくれそうな空気を見せたので、遠慮なく話題を投げてみる。
「昨日スラーに不調の原因を尋ねたのだが、どうも言い方がまずかったらしくてヘソを曲げられてしまってな。まだ真相を聞けていないのだ、すまん」
「まぁ、そういうことだったのですね。昨夜お夕食をお持ちしたらレミー様に入室を断られまして。何かおありになったのだろうな、とは思ったのですけれど」
でも遅い時間ではあったものの少し召し上がっておられたので安心しました、とフィーネ。
どうやらレミーは、俺のところに来た時以外はスラーのそばにいてくれたようだ。
恐らく込み入った話もしているのだろうが――まぁそれは聞いても素直に教えてくれるわけがないだろう。
「あの年頃の女子はなかなか難しいな……」
俺がぽつりとこぼすと、フィーネが柔らかく微笑んだ。
「ふふ、わたくしも遠い昔に少女だった時分がございますから、少しでしたらお力になれるやもしれませんよ」
「うぇ!? 遠い昔とかそんな……い、いや違う、えーと……そうだな、そう言ってもらえるのはありがたい。是非知恵を貸してほしい」
女性の歳を詮索する失礼な発言をしてしまい慌てて取り繕いつつ、すがるような思いで伝える。
フィーネは優しく頷いて、少し考えた後、口を開いた。
「陛下、スラー様は今度のお誕生日で十歳におなりですよね。十歳といえば節目の年。いつもよりも特別な感じで祝って差し上げてはいかがでしょうか?」
「……おぉ!」
スラーの誕生日は春。
毎年ささやかなお祝いはしてきたが、確かに十歳は年齢が初めて二桁になるわけだしな。
特別なお祝いというのは良いかもしれない。
どんなことをしたら喜ぶだろう、スラーが最近好きなものは何だ、こうしたら面白いかも――などと、フィーネと知恵を出し合って話し込んだ。
通りかかったフラットに声をかけられて初めて、次の執務に差し支えるほどの時間が経っていたことに気づいたのだった。
* * *
春らしい暖かな光が差し込む部屋で、その明るさに似つかわしくない暗い顔の少女――スラー=マルク=フェルマータは溜め息をついていた。
昨日、感情が激しく揺さぶられて、トーンに酷いことを言ってしまったのだ。
「……あんなこと、言うつもりなかったのに」
スラーは小さくひとりごちる。
昨夜は自己嫌悪で涙が止まらなくなり、泣き疲れていつの間にか眠ってしまった。
数時間経って起きた後は無性に寂しくなって、一人でいるのが嫌で、様子を見に来てくれたレミーを一晩中付き合わせた。
そして朝になっても心はなかなか晴れてくれない。
鏡の悪魔騒動があった時、トーンは元凶であったスラーを責めることもせず、逆に小さな願い事を叶えてくれた。
その願いが『トーンと一緒に眠りたい』というもので、喜んだスラーのことを覚えていてくれたのだろう。
だからきっと今回も、スラーを元気づけようと思っての提案に違いなかった。
実はあの夜は、結局一睡もできなかったのだ。
トーンの隣で体温を感じながら横になっていると、頬が熱くなり、心臓がドキドキして、この鼓動がトーンに聞こえませんようにとひたすら祈りながら夜を明かした。
嬉しいはずなのに、安心するためにお願いしたはずなのに、何故こんなに緊張してしまうのかが全然分からなかった。
翌日そのことをフィーネに話したところ、彼女はクスクスと笑いながら言ったのだ。
『陛下のことが大好きすぎて特別なんですね。それを人は《恋》と呼ぶようですよ』
――恋。
確かに、スラーはトーンのことが大好きだけれど。
それはムジーク兄弟皆に等しく抱く思慕なのだと思っていたけれど。
トーンと会う時に胸に宿るこの温かさだけが、特別な名前を持っているというのか。
そうやって意識してしまってから、スラーはトーンと一対一になるとまともに顔を見られなくなってしまった。
スラーがトーンに求めているのは、父代わりでも兄代わりでもないのだと気づいてしまったのだ。
トーンは今回の提案が逆効果であることも知らずに気遣ってくれただけだ、と理性では分かっているものの、感情がどうしてもその言葉を受け入れてくれそうにない。
では逆に何と言われたら良かったのかと考えても答えは出なくて。
代替案もなしに「嫌だ」と言うだけではただの子供だという事実に愕然とする。――そう、スラーはまだまだ子供なのだ。
トーンに謝らなくてはいけないのに、顔を見たらまた泣いてしまいそうで。
いい天気だし散歩でも行こうと誘ってくれたのは、レミーと同じく姉のように慕っているソファラだった。
スラーが落ち込んでいるから気を遣ってくれたのであろうことは明白だ。
スラーはそれを応諾し、トーンとのことは今は忘れて気分を入れ替えよう、花でも愛でて春の空気を楽しもう、そう思っていた。
それなのに、スラーは見てしまったのだ。
自分のお世話係の若い侍女と楽しそうに話しているトーンの姿を。
身長も、年齢も、人生経験も。
国王と使用人という身分の違いさえ目を瞑れば――いや身分など年齢差に比べたら乗り越えられる程度の障害でしかない――、スラーよりも余程お似合いの二人だった。
スラーがどう頑張って背伸びしたって、トーンとは到底釣り合わない。
そんな現実をまざまざと見せつけられた気がして、スラーは反対方向に駆け出した。
「ちょっ、スラー!?」
ソファラの呼び止める声を背中で受け止めながら、溢れる涙をストールで拭った。
一瞬だけ振り返って、叫ぶ。
「ごめんなさい、一人にして……!」
うっ、と言葉に詰まったソファラを横目に、再び走り出す。
が、すぐに別の人影とぶつかってしまった。
「きゃっ」
「っとと。どうしました、スラー」
受け止めてくれた腕を辿って見上げると、フラットが目を丸くしてこちらを見ていた。
「すみません、大丈夫です。……失礼します」
泣いているところを見られたくなくて咄嗟に顔を伏せる。
小さく謝ってするりと横をすり抜け、一心不乱に走った。
どこに行く。どこでもいい。
トーンの姿を視界に入れることなく、落ち着いて気持ちを整理できるところなら。
ふと、昨夜のレミーの言葉が蘇る。
『スラーはいい子すぎるのよ。たまにはイタズラでもして皆を困らせてみたら?』
そうだ。
いっそ隠れてしまおう。
何かから逃げるように走っていても、誰も追いかけてはこない。
そのことについて寂しいと思う気持ちはないでもなかったが、自分から望んだ孤独、むしろ幸運に思うべきだ。
城下町に一人で行ったことはまだない。人ごみに対する恐怖が勝って、スラーは表へ出ると裏庭の方向へ足を向けた。
トーンは心配して探しに来てくれるだろうか。
――スラーのことを見つけ出して、抱きしめてくれたりするだろうか。
* * *
「追わないであげてください、ソファラ」
「でもさ……っ」
「大丈夫ですから」
去っていく少女の後ろ姿を不安そうに見つめる妹へ、フラットは努めて優しく声をかけた。
昨日の一連の出来事をトーンから聞いていたこともあって、少女の涙の理由はすぐに分かった。
廊下の先から聞こえてくる談笑はトーンとフィーネのものだ。少なくとも今は、スラーはトーンに会いたくないだろう。
「あの子のことは私が見ていますし、折を見て迎えに行きます。その時は知らせますから、ひとまず私に任せておいてください」
「……ん、フラットにぃがそう言うなら」
ソファラは渋々、といった様子でスラーに向けていた腕を下ろす。
八の字に下がった眉が、『心配』の二文字を雄弁に語っていた。
自室で待機している、と言うソファラと別れ、フラットは自らの使い魔の気配を探った。
スラーが走り去る直前、気づかれないよう小さなコウモリを彼女の背中に飛ばしておいたのだ。
目と耳の代わりとなるその生き物は、流れるように揺れる栗色の髪と、草の上を走る足音、そしてしゃくり上げる呼吸音をフラットに伝えてきた。
そのかすかな嗚咽に胸を痛めつつ、少女の向かう方角が人の多い城下でないことに安堵する。
王宮の裏手なら、魔力が届かず見失うこともないだろう。
フラットは最小限の意識を使い魔に向けたまま、廊下で話し込んでいる二人に声をかける。
執務のことをすっかり忘れて慌てる主君と、平謝りするフィーネの双方にやんわりと釘を刺し、トーンを次の支度へと急がせた。
スラーのことは言わなかった。――少し、時間が必要な気がしたから。




