国王と幼姫の慕情(2)
仕事が一段落つき、次の公務まで少し時間があったので、息抜きに庭園へ出た。
部屋の日差しは暖かかったが、さすがに外に出るとまだ風が冷たい。日向ぼっこするならもっと遅い時期の方がいいだろう。
マントで風を防ぎながら歩いていると、花壇の横で珍しい人影を見つけた。
「ヘオン」
俺の呼びかけに気づいて顔を上げたのは、弟のヘオン=ムジーク。
七人兄弟の真ん中で、精霊魔法研究のエキスパートだ。
水色の髪と怜悧な視線、俺への塩対応を見た者には冷酷な印象を与えているが、実は極度の照れ屋でひねくれているだけである。
何を考えているか分からない度合いを数値化したなら、ソファラの方がよっぽど高い。
普段は研究室に篭っていることが多いため、こうやって屋外で偶然会うのは本当に珍しい。
珍しすぎるので何度でも強調する。極めて稀な事態である。
「珍しいな、お前がこんなところにいるなんて」
「別に、好きで出てきたわけじゃないよ」
思いすぎて口からも出てしまった『珍しい』に対し、ヘオンは不機嫌そうに眉間の皺を深め、視線を戻した。
ヘオンの視線の先を辿ると、花壇に整然と植えられた花々が、日光を浴びて華麗に咲いている。
いつにも増してキラキラと光って見えるのは、周囲を舞う水滴が光を反射しているからだと気づいた。
空は晴れており、霧が出るような湿度でもない。
「ほう、花に水をやっているのか」
うん、と頷くヘオン。
「次はあっち」
別の場所へと移動する弟についていく。
ヘオンは片手で花壇を示して、
《水よ、ここの花たちが欲しがる分だけ土にしみこんであげて》
水の精霊にのみ通じる言語で呟く。
俺は水の精霊との相性は悪いが、言語だけは勉強したので聞き取ることができた。
「面白い命令をするなぁ」
「だって、どの種類の花にどれくらい水をやればいいかなんて僕には分かんないもん。精霊に判断させた方がよっぽど正確」
先程の花壇と同じく、花の周囲を水の粒が躍り、さぁぁ、と輝きながら土へと落ちていく。
美しい天気雨の恵みを、花たちも喜んでいるように見えた。
そもそも、とヘオンが口を尖らせる。
「僕がこんなことするハメになったのはさ。弟が、庭の花壇に定期的に水をやっといてくれって言ってどっか行っちゃったからなんだよ」
彼の言う弟とは、俺たち兄弟の下から二番目で、宮廷庭師をしているシド=ムジークである。
やれあちらで収穫期を迎えた野菜があれば飛んでいき、やれこちらで珍しい植物が見つかったと聞けば飛んでいくという、フットワークの軽い自由人だ。
そしてその移動のほとんどが事後報告であるため、シドに関しては現在の居場所を把握している方が少ない。
「この僕をタイマー付きジョウロ扱いして、まったくいい度胸してるよね」
ヘオンが憤慨した様子で腕を組む。
「アイツはまた勝手に出かけたのか」
「みたいよ。僕も行き先は知らないけど。定期的にって頼まれたからには、ちょっと遠出なのかも」
はぁ、と溜め息交じりにぼやくヘオンと同時に、俺も溜め息をついた。
遠出ということは、隣国にでも足を延ばしているのだろうか。
喫緊の用事はないにしろ、いちいち心配するこちらの身にもなってほしいものである。
ヘオンはまた別の花壇へと歩いていった。
あの冷血漢が、口では何だかんだと文句を言いながらも世話してやっているのを見ると微笑ましい。
後でシドにどれだけの見返りを要求するつもりなのか、俺には怖くて聞けないが。
頑張れよ、などと余計なことを言うとまた睨まれてしまうので、手だけ軽く振ってその場を後にする。
こんな光景滅多に見られるものではないし、写真の一枚でも撮れば良かったと少し後悔しつつ。
王宮に戻る道すがら、またも見知った人影が目に入った。
門番と比べて頭二つ分は小柄な少女が、開かれた扉の外で所在無げに佇んでいる。
「どうしたスラー、そんなところに突っ立って」
「……あっ!? あ、えっと、お、おはようございますっ」
突然声をかけられて驚いたのか、あわあわと挙動不審な様子でお辞儀をしてきた。
おはようと言うにはやや遅い時間帯なので、余程上の空だったのかもしれない。笑いながら、おはようと返しておく。
スラー=マルク=フェルマータ。
俺たち兄弟とは家族同然に過ごしてきた、友好国フェルマータの姫君だ。
まだ九歳だがしっかり者で、甘えたい盛りだろうにそれをおくびにも出さないのが何ともいじらしい。
大きめの革鞄を手に提げており、恐らく勉強道具が入っているのだろう。
「誰かを待っているのか?」
「はい、ヘオン兄さまに、精霊魔法を教えてもらう約束をしていて」
ヘオンなら、ここからも見える位置で花の水やりをしている。
俺が世間話などをしていたから、邪魔しては悪いと思ったのだろうか。
「何だ、俺に遠慮せず話しかけてくれば良かったのに」
「い、いえ、大丈夫です」
スラーは何が大丈夫なのかよく分からない遠慮のしかたをしてから、失礼します、と会釈して庭へと走っていった。
ヘオンも「脳が若いからか飲み込みが早くて助かる」とスラーのことを褒めていたのできっと教え甲斐があるのだろう、スラーの勉強に付き合っている姿は割とよく見る。勉強熱心なのは良いことだ。
息抜きにも満足したので、次の公務に向けて準備をするため執務室へと戻ることにした。
隣国の来賓を迎えての昼食会と国内視察を終え、無事に見送りを済ませたところで、俺を呼ぶ声がしたので振り返る。
そこには男と侍女が揃って丁寧なお辞儀をしていた。
俺の側近として付き従っていたフラットが、二人の頭を上げさせる。
「ルグレ殿、フィーネ殿。お二人お揃いで、どうなさいました?」
初老の男はルグレ、二十代後半の侍女はフィーネ、共にスラーの臣下である。
父王の時代にフェルマータ王国が内乱によって滅びた際、まだ幼い末姫スラーを連れてムジーク王国に逃げてきたのがこの二人だった。
父は賓客として迎えようとしたらしいが固辞されたので、以来使用人としてムジークで召し抱え、スラーの身の回りの世話をしてもらっている。
顔を上げたルグレは、心底困ったような表情をしていた。
「お呼び止めして申し訳ございません。スラー様のことで気掛かりがございまして」
「スラーが? どうかしたのか?」
神妙に頷いて、ルグレ。
「このところ、お食事を満足に召し上がっていないようなのです。医師に診ていただいても、原因は分からず。何か悩んでおられる様子で」
「それは……心配だな」
昼前に会った時はそんな風には感じられなかったが、俺もよく観察したわけではなかったし、大丈夫と断じるのは早計だろう。
ルグレは隣に目配せすると、フィーネが頷いて言葉を継いだ。
「もしかしたら、スラー様はお寂しいのではないかと思いまして。以前にも偽物の陛下にべったりだったことがありましたでしょう? ですからもしよろしければ、陛下にお時間を取っていただければありがたく存じます」
「国王陛下におかれましては、お忙しいのは重々承知いたしておりますが、何卒よろしくお願いいたします」
二人が再び頭を下げる。
俺は一も二もなく頷いた。
「分かった、報告ありがとう。なるべく早いうちにスラーと直接話をしてみよう」
俺の言葉に、ありがとうございます、ともう一度礼をして、二人は下がっていった。
ふと脳裏に浮かんだ疑問があって、横に立つフラットに問う。
「レミーやソファラからは、特に何も聞いていないのだが」
「確かに、そうですねぇ」
フラットも俺の言葉に同調した。
妹二人はスラーの良き話し相手でもある。
専属護衛のソファラは万事あの調子だから仕方ないとしても、教育係のレミーは少なくとも同性として、スラーの変化には敏感なはずだ。
「もしかして、鏡の時のようにまた隠し事をしているのだろうか」
「ふふ、どうでしょう」
今度は含みのある笑い方をしたフラットを半眼で見る。
「……何か知っていそうな口振りだな」
「いいえ、何も。ただ察しがついただけです」
むぅ、と唸る俺。
確かに昔、鈍感力が高いと学友の女子に褒められたことはあるが。
「私の推察の上でよろしければ、陛下にヒントを差し上げましょうか」
フラットがもったいぶって指を一本立てる。
「ルグレ殿やフィーネ殿は、スラーの従者であり、保護者です。対してレミーやソファラは、スラーにとって姉も同然。個人的な悩みがあるとしたら、誰に相談したいでしょうね?」
「……ふむ」
顎に手を当てて考える。
「何となく分かったような、分からんような」
俺の曖昧な呟きは、フラットに苦笑で流された。
「では、ともかくスラーと話をしてみて、原因が分からなかったらレミーにでも聞いてみるか」
「それがよろしいかと。頑張ってくださいね、陛下」
何をどう頑張るのか、聞いてもどうせ明確な答えは返ってこないだろう。
深く考えるのをやめ、フラットにこの後のスケジュール調整を頼んでおいた。
そして夕方。
作った空き時間でスラーの部屋に行く途中、当のスラーが一人で王宮の廊下から外を眺めているのを見つけた。
本を抱えていたので、どうやら書庫からの帰りのようだ。
夕日に照らされる横顔が、九歳とは思えない大人びた憂いの色を湛えていて、思わず動揺する。まるで別人に見えたからだ。
声をかけるのが躊躇われる。
可愛いというよりは美しくて、不用意に触れると散ってしまう花のような儚さがあって。
できればもう少しだけあの横顔を眺めていたい。
何故かそんな風に思ってボーッと突っ立っていたら、あちらから気づかれた。
「……トーン兄さま……っ!?」
ばさばさ、と持っていた本が落ちた音で、我に返る。
「だ、大丈夫か」
俺は平静を装って、わたわたと本を拾い上げているスラーに近づき、そばに落ちている本へ手を伸ばす。
が、俺の指が届く前にスラーにサッと拾われてしまった。
「大丈夫ですっ! あ、あの、……見てないですよね?」
何をだ? あぁ、本のことか。
「いや、見ていない。そんなにたくさん本を借りて、スラーは勉強熱心だな」
そう声をかけると、本を抱えたスラーはホッとしたような表情で控えめに頷いた。
うーむ、そんなに隠したくなる本を借りたのだろうか。
確かに装丁は古そうだが、直前までヘオンと勉強していたのだろうし、精霊関係の歴史書とかかもしれないな。
沈黙が流れる。
春特有の穏やかな風が通り抜けて、スラーの髪を撫で上げていった。
艶やかな栗色の髪は夕日の光を反射して、絹糸のように美しく煌めいている。
そういえばスラーはこの国の出身ではないから、洗礼を受けていない生来の髪の色なんだな。
手触りはどんな感じだろう、きっと柔らかくて、指をさらりとすり抜けてしまうに違いない。ちょっと触ってみたい。いやいや何を考えているんだ俺は。
「最近、食事を満足に食べていないそうだが、具合でも悪いのか? ルグレやフィーネが心配していたぞ」
当初の目的を思い出し、妙な思考を隅に追いやってから問いかける。
スラーが小さく首を横に振った。
夕日の色で分からなかったが、よく見たら顔にうっすらと赤味が差している気がする。
「顔が赤いな。熱でもあるのでは――」
「な、何ともないです!」
額を触ろうと伸ばした手を避けるように、スラーが一歩後退した。
「……そ、そうか。それならいいんだが」
スラーが大丈夫だと言い張るのなら、俺はそう答えるしかない。
再び二人の間に訪れる沈黙。……何だ、この気まずさは。
ここは王族の私的な区域なので人通りは普段からそう多くはない。
とはいえ人っ子一人通る気配がないというのも逆に珍しい気がする。スラーと二人、この世界に取り残されてしまったかのような。
この微妙な空気の打開策を、外に求めることは叶わなそうだった。
スラーは本を抱えたまま、俯いている。その表情は分からないが、やはり何か悩んでいるのではないだろうか。
父親代理として、話を聞いてやらねばなるまい。
「そうだ、スラー。今夜また俺の部屋に来ないか?」
「えっ?」
驚いて顔を上げるスラー。
「ほら、前に一緒に寝たいというスラーの願い事を聞いたことがあっただろう。ここのところあまり構ってやれてなかったしな、久し振りに父親らしいことをさせてくれ」
以前そうした時のスラーの嬉しそうな表情を思い出しながら、提案した。
我ながらいい案だ、きっとまたあの時のように可憐な笑顔を見せてくれるだろう。
――と、思ったのだが。
スラーの大きな瞳がみるみるうちに潤んでいく。
想像していた笑顔とは程遠い表情を見せられて面食らう。
何故だ。どうしたというんだ。今のは何かまずかったのか?
今にも溢れそうな涙を湛えた瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
そしてかすかに首を振ると、スラーは震える唇を開いた。
「トーン兄さまは……スラーにとって『お父さま』ではありません。父と呼べるのは本当のお父さまと……オクトさまだけなのです!」
最後は叫ぶように言い切って、スラーはサッと踵を返した。
ついに零れた涙の粒が、橙色の光を輝かせながら舞い散る。
走り去っていく小さな後ろ姿を追いかけることもできず、俺はその場に立ち尽くしていた。
泣かせてしまったことへの罪悪感と、逃げられてしまったことへのショック。
そして何より、スラーの言葉は俺の心に強烈な一撃を与えていた。
――俺は、父親代わりには、なれない。
はっきりと突き付けられた『父親失格』の烙印は、俺の胸に鮮明な痕を残したのだった。




