生協の女神
「碧海結衣子。大嶽大学生協勤務の二十六歳。モデルのような抜群のスタイルと美しすぎる顔は見る者全てを魅了する。通称、生協の女神」
「やめなさい」
レジ台の向こう側にいる碧海結衣子に、先程購入した駄菓子のチョコバーで頭を叩かれた荻村梓は、痛いと言って大袈裟に脳天を手で覆ってみせた。梓は溜息を吐いた結衣子を気に留めることなく、チョコバーの外袋を縦に裂き咥える。
「はふははへほはいふせひー」
「何言ってるのか分からない」
「満更でもないくせにー」
梓が鼻を鳴らしてチョコバーを振ってみせると、結衣子は梓の手からチョコバーを抜き取った。それを口に突っ込んだ結衣子を見て、梓は両手で頬を包みわざとらしく体をくねらせた。
「きゃー! 間接キッス!」
「違う」
「もう、つれないなあ。そんなんで人生楽しいですか?」
「大きなお世話よ」
チョコバーを咀嚼し飲み込むと、結衣子は外袋をゴミ箱に放った。一口しか食べられなかった梓にきっかりと定価の二十円を請求し、レジに納める。
大嶽大学は、東京二十三区内に位置しながら、広いキャンパスと豊かな自然を持っている。建物は一号館から五号館まであり、それらは数年前から徐々に建て替えられているもので、清潔且つ学問に集中出来る環境がしっかりと整えられている。現在は四号館が建て直し工事中となっているが、騒音は他の館の教室内には響かない。また偏差値も決して低くなく、毎年多くの受験生がこの憧れの大学を目指しては涙を飲んでいる。
そんな学校の三号館地下に存在するのが、大嶽大学生協である。生協は日用品、文房具エリアと飲食品エリアに分かれ、毎日沢山の学生に利用されている。大学内のコンビニのようなものだと言えるだろう。生協の女神こと碧海結衣子が働いているのは飲食品エリアである。従業員のほとんどを四、五十の女が占めるこの二つの生協において、二十代の結衣子はそれだけで光を放っていた。
「もっと優しくして下さいってば。せっかく生協の紅一点なんですから」
「紅一点って、ここで働いてんのは女だけでしょうよ」
「年増のオバサンなんて男みたいなもんです」
「おい」
淀みなく発言した梓の足を背後から蹴り飛ばしたのは、結衣子と同じく飲食品エリア担当の笠原だった。笠原は二つの生協内で最も年長の五十四である。お世辞にも美しい容姿とは言えず性格もきついため、学生や従業員のみならず教授にも恐れられている人物だ。結衣子目当ての男子学生をその迫力で蹴散らしてきた笠原だが、しかし梓だけは取り除くことが出来なかった。すっかり生協の常連となった梓と笠原は、謂わば犬猿の仲である。梓は顔を顰めた。
「うわ、出た」
「出たじゃねえ。またいるのかこの暇人。忙しいんだから出てけ」
「今日の授業は終わりですー。つうか忙しいって、どう見てもガラガラじゃないですか」
昼休みを過ぎてしまえば、生協を訪れる人間はぐっと少なくなる。夕方の今の時間帯ともなれば尚更だ。客が一人もいないため、三つあるレジの内の一つを梓が占領しても全く営業妨害とはならなかった。梓がそれを指摘すると笠原は舌打ちをし、負けじと梓は舌打ちを返す。二人の間で、結衣子は溜息を吐き出した。
笠原を手で追い払うと、梓は結衣子に向き直る。
「ところで結衣子さん、再来週の今日は何の日でしょう?」
「は?」
「ブッブー! 時間切れ、バレンタインでーす」
レジ台に身を乗り出した梓を受けて、結衣子は身を仰け反らせる。結衣子との距離を縮めることに失敗した梓は唇を尖らせた。
「で、バレンタインがどうしたの」
「嫌だなあ結衣子さん。分かるでしょ?」
ん、と梓は結衣子に向けて手を差し出す。結衣子はポカンとしてその手を見つめた。
「チョコ下さい」
「はあ?」
「勿論、飛びきり愛の籠もった手作り本命チョコじゃないと許しません」
「……あんたが何を言ってんのか、本当に分からない。てかその日はもう春休みでしょ」
そう言って結衣子は、レジ台を離れてカップ麺コーナーの整理を始めた。梓は慌てて追いかける。今日の使命は、結衣子からのチョコを確実に貰えるような約束を取り付けること。了解させるまで、結衣子を解放してなるものか。
「でも生協は営業してるじゃないですか。それに結衣子さん、私のこと好きでしょ?」
「いや別に」
「またまたー。もう、ツンデレちゃんなんですから! そんなところも好きですけど」
「私に殴りたいと思わせる人間はあんたくらいよ」
「ええっ!? 私、特別!?」
梓が言うと、結衣子はキッと振り返って梓を睨んだ。それから大股で今度はドリンクコーナーへと移動してしまう。流石に調子に乗り過ぎたか、と梓は一時反省するが、しかしすぐに気を取り直して結衣子を追った。立ち直りの早さが梓の長所であり短所である。
「じゃあ百歩譲ってついでチョコでいいですから! 結衣子さんチョコ作るんでしょ、ついでに私のも作って下さいよう」
梓が涙声で結衣子に縋ると、結衣子は一瞬ドリンクを整理する手を止めた。泣き落とし作戦が成功したか、と梓の頭に光明が差したが、あっという間に暗雲が光を遮る。結衣子は梓と目を合わせることなくまた手を動かし始めた。彼女が動くたび、艶やかな長い黒髪と生協のエプロンが揺れる。
「どうして私がチョコ作るって思うの」
「え。だって結衣子さん、渡したい人がいるでしょ」
驚いたように、今度こそ結衣子は梓を見た。視線が交わったことに、梓の頬は自然綻ぶ。
「あ、私が気付いてないとでも思ってたんですかあ? そんなわけないでしょ、いつ何時だって結衣子さんを見つめてる私が!」
「……ストーカーみたいなこと言うのはやめてほしいんだけど」
いつものツッコミがキレを失っていた。本当に動揺しているらしく、結衣子は口を閉ざしてしまう。その瞳は手許のジュースの、更に奥を捉えていた。梓は掛ける言葉を失う。
好きだの愛してるだのといった告白を、梓は毎日結衣子にぶつけている。だがそこに言葉通りの意味は籠もっていない。梓は結衣子を本気で好いているわけではないし、結衣子もそれを承知の上で梓のちょっかいに付き合っているのだろう。間違っても現状、二人が恋仲になることはない。
梓が結衣子を追いかけ振り回すには、もっと違う理由があった。そこに絡んでくるのが、「結衣子がチョコを渡したい相手」である。
その時、生協内に蛍の光が鳴り響いた。午後六時、閉店を知らせるチャイムである。結衣子は我に返ったようにジュースのボトルを置いて、梓に向き直った。
「さあ、もう帰りなさい。明日は来ないでね」
「来ますとも! じゃ、結衣子さん、チョコお願いしますねっ」
「人の話を聞きなさい。それとチョコは作りません」
「手作りチョコ楽しみにしてます。では!」
結衣子に否定させる間隙を与えず、梓は生協を駆け足で後にした。そのまま三号館の階段を駆け上がり、一階のエントランスから建物の外へと躍り出る。紺と黒を混ぜ合わせた空を彩るのは周囲のビルから零れる照明で、星々は見当たらない。梓は息を整えながら、そんな空に向かって、呟いた。
「……上手く、出来たよね」
囁きのようなその音を聞き取った者は誰もいない。木々の中へ、風の中へ、空の中へ、溶けて消えていった。
翌日、梓は三時限目の空コマを利用して学食で一人昼食を摂っていた。昼休みの時分には混雑し席を確保することもままならない学食だが、この時間ならばある程度落ち着いて食事が出来る。普段は友人たちと空き教室で騒がしくパンを貪る梓は、時たまこうして一人静かに食事をすることも好んでいた。今日は梓のお気に入りである豚汁定食を注文した。窓辺の席はやんわりと陽光が射し込んで、心持ちぽかぽかと暖かい。一階の学食の外では、学生たちが学内を忙しなく行き来していた。
梓が外に目を遣りながら味噌汁を啜っていると、突然視界の端で黒い影が動いた。正面に向き直ると、一人の男子がニヤニヤとして梓の向かいの席に座っている。梓は味噌汁を盆に置いて、白飯に持ち替えた。和風ハンバーグを箸で細切れにし、摘む。
「何の用ですか」
「ぼっち飯かお前。寂しいなあ、友達がいない奴は」
「いるわよ。今はあえて一人でいるの」
「孤高のぼっちなんて今時流行りませんぜ」
男子のからかいに梓はいよいよ我慢ならなくなり、乱暴に箸とお椀を放った。男子は相変わらず楽しげに頬を緩ませている。そのだらしない表情が梓を苛立たせる。だが結衣子と会話する時の梓が、今目の前にいる男子と似たような顔付きをしていることに、梓は気付かない。
「本当に何の用なの、児島。私はあんたに付き合ってられるほど暇じゃないんだけど」
「よく言うぜ、ぼっちのくせに」
「さようなら」
立ち上がった梓を、児島は慌てふためいた様子で引き止めた。梓は渋々腰を下ろす。
児島佳祐は梓と同じ法学部の二年である。一年の必修授業で偶々席を隣り合わせたことがきっかけで続いている仲だ。児島も梓も交友関係は広いため、絡みが多いわけではない。しかし児島は梓を見つけると必ず声を掛けてきてからかいの言葉を投げかけてくるので、梓はその存在を少々煙たく感じていた。
梓が訝しく思いながらも児島を見つめていると、児島はふと窓の外に視線を投げた。おかしな方向に目を彷徨わせながら、児島が口を開く。
「あー……えっと、ほら、お前彼氏いねえだろ」
「だからなに。余計なお世話なんだけど」
「つまりその、さ、寂しいだろお前! 再来週、お一人様ってのはよ……」
目を逸らしたままで頬を掻く児島が言わんとしていることを理解出来ず、梓は一瞬眉を顰めた。だがすぐに、ああ、と見当を付ける。再来週に控えている特別なことといえばつまり、バレンタインだ。
「お、お前だって女なんだし、その、チョコ作る気くらい、あるんだろ」
「なにあんた、チョコが欲しいの」
「ばっ、そんなこと言ってねえだろ! べ、別にお前のチョコなんていらねえよ」
「まああんたは黙ってても沢山貰うだろうしそうでしょうね。ていうか本当に何が言いたいの」
児島は容姿が良い。性格も明るく、女子には割と気遣いが出来る男だ。よってかなり人気のある男である。児島を慕う女子の、優しい、という児島評を梓は不服に思う。梓に児島の優しさが行使されないのは女として認識されていないからだろうと梓は一人納得して、納得出来てしまうことをまた不満に思う。
「だからさ、お前バレンタインは一人なんだろ」
「決めつけないでくれる? 一人じゃないし」
「はあ!?」
テーブルを思いきり打って立った児島を、梓は変わらず眉根を寄せて見上げた。
「誰だよそれ!」
「結衣子さんに決まってるじゃない」
「結衣子? ……ああ、なんだ。碧海結衣子か……」
「ちょっと、児島の分際で結衣子さんを呼び捨てにすんじゃないわよ!」
怒りのあまり立ち上がった梓と入れ替わりに児島は椅子に座り直した。頬杖をついて深妙な顔付きになった児島に拍子抜けして、梓もそろそろと腰掛ける。恐る恐るという風に児島が言った。
「お前さ、レズなの?」
「は? 違うけど。……たぶん」
「たぶんかよ。まあ、違うならいいけど」
しばしの沈黙となった。急に静まり返った児島を不審に思いつつ、梓は再び味噌汁を啜った。黙々と箸を進めていると、児島の掌が梓の右手の甲を包んだ。それは箸を握る方の手であり、身動きが取れなくなる。また嫌がらせか、と梓は嘆息した。
「ねえ、キモいんだけど」
「お前、空けとけよ。バレンタイン」
「は、」
「俺と過ごせ。碧海結衣子とでも他の男とでもなくて」
梓は呆然として児島を見つめた。児島は真っ直ぐと梓を見返していて、冗談を言っている気配は微塵もない。繋がれた手に一際強く力を込められた。児島の黒い短髪にも、憎らしいながら整った顔立ちにも、平時と変化はない。相変わらず上背があるし、通学に利用しているらしい紺青のリュックサックも変わっていない。
「……あんた、私のこと好きなの?」
「ばっ! ん、んなわけねえだろっ。俺はお前が可哀想だから仕方なくっ」
「そう。でもそんな気遣いいらないから」
梓は定食を食べ終えると、手を合わせてから箸を置いた。水を飲み干して立ち上がった梓の後を児島が付いていく。
「と、とにかくっ。予定は空けとけ。いいな!」
「嫌よ。私は結衣子さんと過ごすの」
「じゃあ碧海結衣子も一緒でいい。でも男とだけは過ごすなよっ」
「もう、煩いわね。分かったわよ」
肩を竦めて梓が言うと、児島は顔を輝かせた。返却口に食器を置いて、梓と児島は連れ立って食堂を出る。友人を発見したらしい児島は梓に別れを告げると、さっさと走り去ってしまった。梓は溜息を吐いた。
梓に彼氏がいないことを憐れんでおいて、他の男とバレンタインを過ごすなと命じる。児島の言動はちぐはぐで複雑怪奇だ。全く理解し難い。尤も、理解する気もないが。
あいつ、本当に私のことが好きだったりして。
「ま、そんなわけないか」
今は児島のことよりも結衣子のことだ。彼女はどんなチョコをくれるのだろうか。そんなことを考えた梓は、気が付くと鼻歌を歌っていた。
二月十三日木曜日。バレンタインを翌日に控えた今日、梓は大学最寄り駅前の喫茶店にいた。腕時計を確認する。十一時に友人と待ち合わせしているのだが、現在は十時四十分。少し早すぎたかもしれない。梓はホットブラックコーヒーを啜りながら長い足を組んだ。店の奥のテーブルに通されたため、窓の外を眺めることも出来ない。
「あずちゃーん!」
ブラックコーヒーも湯気立たなくなった頃、自分の名前を大声で呼びかけられ梓は顔を上げた。そこには、にこにこと天真爛漫に笑う友人が立っていた。白いシャギーコートを羽織り、中は桃色のワンピースを身に付けている。
「ごめん、待った?」
「全然。まだ十一時前だしね」
「いやあ、あずちゃん美人だから遠くからでもすぐ分かっちゃったよ」
高倉春花は手袋を外すと、梓の正面に腰掛けた。メニューからレモンティーとパンケーキを選び注文し終え、梓に向き直る。
「あずちゃんブラック飲めるの?」
「まあ。春花はやっぱりレモンティーなのね」
「あはは、好きだからねえ」
春花は大嶽大学文学部に所属する。梓と同様大学一年生だ。二人が学部を異としながらも友人となり得たのは、大嶽大学が学部越境の講座を盛んに開講しているからである。春花曰く、梓は春花の幼馴染と似ていて親近感が湧くらしい。
注文したものが春花のもとに届くと、二人の会話は本題へ移った。内容は勿論、明日のことについてである。とはいえ春花には既に恋人がいるため、告白についての相談ではない。聞かされるのは主に惚気話だった。そうなるであろうことは梓も覚悟していたので、それについて不満に感じることはない。ただ、胸が痛くなる。
「和彦くん、春休み中もずっと勉強頑張ってるみたいで。だから明日、少しでも和んでもらいたいなって」
相沢和彦。それが春花の恋人の名前だ。二人の馴れ初めは高校時代に遡るようだが、春花はそれ以前の中学時代からずっと相沢に片想いをしていたらしい。高校入学を機に交流が始まり、約一年半かかって恋人関係にまでこぎつけたようである。
春花が幸せそうにしていると梓も嬉しい。春花は素直で一生懸命で、少し馬鹿らしい部分もあるがなお一層愛らしい。春花が巻き髪をふわふわとさせて微笑んでいると、梓も自然頬を緩ませてしまうのだ。だからこそ、梓は思う。
結衣子の想い人が相沢でなければ良かったのに、と。
「ね、あずちゃんは? バレンタインどうするの」
結衣子に気を取られぼんやりとしていた梓だったが、春花に話を振られて我に返った。ブラックコーヒーのカップを手に取り、口を付ける。
「どうするって?」
「やっぱり児島くんと過ごすの?」
コーヒーを吹き出しそうになり、慌てて飲み下した。春花は悪びれる様子もなく笑っているので、悪意はないのだろう。
「どうしてそこで児島が出てくるのよっ」
「えー、だってあずちゃんと言えば児島くんだし。ね、何にもないの?」
「……まあ、明日誘われはしたけど」
「きゃー! やっぱり約束したんだね。で、どうするの?」
どうするのと言われても、どうしようもない。梓は答えに窮した。そもそも梓は結衣子と過ごすつもりでいるし、予定を空けとけとは言われたもののあれ以降児島から一切の連絡がない。どこで何をするといった指示が来ないなら、このまま有難く放置して結衣子に集中しようと考えていた。
梓がお茶を濁していると、春花は不満気に頬を膨らませた。子供のような動作も、春花なら何故か許せてしまう。
「あのねあずちゃん。児島くんってすっごいモテるんだよ? 文化祭のミスターコンで優勝してから、大学中の有名人なんだから」
「ああ、そういえばそんなこともあったわね」
「もう! あずちゃんは鈍感すぎるよ。児島くんとバレンタイン過ごしたい子なんて幾らでもいるのにさ、あずちゃんは児島くんに選ばれたんだよ」
梓の周囲の人間は皆このような言い方をする。児島の何が不満なのか、と。だが梓にとって児島は、不満とかそういう以前の問題だ。友人だと思ったこともないし、まして恋愛感情なんて論外だ。強いて言うなら喧嘩仲間だった。だから、友人たちに羨ましいと愚痴を零されても、付き合えばいいと助言されても、梓にはピンと来ないのだった。
「でもやっぱ、私が好きなのは結衣子さんだし」
「それとこれとは好きが違うでしょ?」
「うーん。ていうか私、児島のこと好きじゃない」
「えー!」
唇を尖らせた春花を軽く笑い飛ばしつつ、梓は心中を騒つかせていた。先日はつい結衣子に鎌をかけてしまったが、彼女は果たして相沢にチョコを渡すのだろうか。梓は相沢に恋人がいることを結衣子に話していない。彼女は知っているのだろうか。自分がきっぱりと真実を伝えておくべきなのだろうか。だが、そうすれば結衣子を傷付ける。どちらを選択すれば、彼女の傷が小さくて済むのだろう。
結衣子にも春花にも本当のことを告げられない自分は卑怯者だと、梓は思った。
結局、そのまま翌日を迎えた。梓は昨夜眠りに入る直前結衣子宛にメールを送ったが、午前九時現在返信はない。恐らく待っていても来ないだろうと考え、身支度を整えた。今日くらいは女らしい装いを、と思い立ったものの、スーツ以外スカートを所有していなかったことに気付く。諦めて、梓は朱色のニットにジーンズスキニー、黒のパンプスといういつもと変わらない格好をした。
一人暮らしの自宅を出て、駅へと急ぐ。スタイルの良い美人である梓はそれなりに人の目を引くが、結衣子について期待と一抹の不安を抱く彼女はそれに気付かない。大学の最寄りに到着すると早足でキャンパスに向かい、生協を目指した。
「結衣子さんっ」
生協入口から、向かって左側に飲食品エリアがある。梓が飛び込んだ時、結衣子は菓子コーナーで配架作業を行っていた。他には客も従業員もいない。結衣子は一瞬梓と目を合わせたが、すぐに作業に戻ってしまった。その背中に常にない冷たさを感じ、梓の掌に汗が滲む。それでも努めて明るく振る舞い、結衣子の顔を覗き込んだ。
「ゆーいーこーさん。無視ですか?」
「…………」
「ねえねえ結衣子さんてば」
「……あんた、知ってたんでしょ」
手を止めず、梓を見ないまま結衣子は言った。梓は首を絞められたように声を発せなかった。結衣子の横で、拳を握りしめ息を飲む。
「え……ええー? な、何のことですか」
「ふざけないでよ!」
梓は初めて結衣子の怒鳴り声を聞いた。結衣子は梓を強く睨み、それは梓の息を止めた。
「あの人の隣にいたの、高倉さんだったわ。あんたの友達の。それを、あんたが知らないはずがないわよね」
「結衣子さん……」
「馬鹿にしてたんでしょう。私の気持ちも、知ってたくせに」
結衣子はその場を離れ、最奥の弁当コーナーへと行ってしまった。梓はその小さい背中を見つめ、自らが犯した過ちの大きさに打ちひしがれた。でも、どうしても言えなかったのだ。自分の発した言葉が結衣子を深く抉るその様子を、見たくなかった。見る勇気がなかった。
梓はゆっくり、結衣子に歩み寄った。
「……笑った顔、初めて見たの。ずっと、無口で笑わない人だと思ってたのに」
結衣子が呟く。彼女の背中で、梓はそれを聞く。
「隣にいるのは、私じゃなかった」
「……特別な人、なんでしょう」
梓は、結衣子の肩を包み込むようにして後ろから抱きしめた。梓より若干小柄な結衣子は、梓の腕にぴたりと収まる。結衣子の体温が心地良くて、髪に鼻先を埋めるとふわりとダージリンティーの香りがした。結衣子の表情を覗き見るなんて不躾なことはせず、梓はそのまま、更に固く抱きしめる。
「馬鹿、なにすんの。人が来たら」
「来ないですよ。今は邪魔なオバサンもいませんし」
「……それ、笠原さんのこと?」
「さあ」
悪態を吐きながらも腕を振り払わない結衣子が、梓は愛しくて嬉しかった。二人の間をしばらく沈黙が支配した。
「結衣子さんに、泣いてほしくなかったんです」
梓は小さく絞り出した。
「結衣子さんは、きっと悲しむ。そう思ったら、言えなくて」
「……今の方が、ずっと悲しいわよ」
「そう、ですよね。ごめんなさい」
結衣子を抱く腕を緩めてから、改めて強く抱きしめた。結衣子の瞳に涙があるか。確かめることは少し怖かった。それでも梓は、明朗に語りかけた。
「大丈夫です。この先ずっと結衣子さんに恋人が出来なかったら、私と結婚しましょう」
「出来ないでしょ、日本じゃ」
「じゃあ同棲しましょう。私がずっと結衣子さんのそばにいます」
梓が言うと、彼女の手に結衣子の掌が重なった。ハッとしたと同時に結衣子の首が動き、梓を見た。その頬は綻んでいた。
「別にいらないわよ、あんたなんか」
「ええっ、そんなこと言わないで下さいよう。寂しいじゃないですか」
「知らない」
くすくす、と結衣子が笑った。梓はそれに安心して、いつの間にか微笑んでいた。緊張から解放されたはずなのに、鼓動が加速する。結衣子以上に愛くるしく守りたいと思う存在はいない。結衣子がいれば恋人などいらない。だってきっと、結衣子以上に慈しむことは出来ないから。
「ていうか、あんたどうして私に寄ってくんのよ」
「ふふ、結衣子さんの全部が好きだからです」
「……馬鹿」
優しい罵倒が、梓の心を温めた。
結衣子は覚えていないのだろう。入学直後、大学内で迷子になり途方に暮れていた梓に、自分が手を差し伸べたことを。その時の笑顔が、梓を一度で魅了してしまったことを。だが、思い出してもらえなくてもいいのだ。結衣子のそばに、いられるのなら。
「お、荻村梓っ」
思いがけず背後から名前を呼ばれ、梓は結衣子を解放し振り返った。少し離れた位置に、児島が立っていた。梓は顔をしかめる。児島は、そんな梓に大股で歩んでいった。
「お、お前何してんだよ!」
「はあ? てかあんた誰」
「ふざけんなっ。つ、つうかお前、やっぱりレズなのかよ!」
「ふざけてんのはそっちでしょ。私と結衣子さんの愛は恋愛感情なんかにとどまらない深い愛なの。ねえ結衣子さん?」
「いや、知らないけど」
結衣子の左腕にしっかりと自分の右腕を絡めながら、梓は児島に去れと手で合図した。児島は歯を噛み、梓の左腕を強引に引いた。梓も負けじと結衣子にしがみつく。
「来いよっ」
「いーやーでーすう。助けて結衣子さん!」
「児島くん、この子連れていっていいわ」
「そんなあっ」
結衣子が梓を剥がすと、梓は呆気なく児島の手に渡った。児島に引き寄せられた勢いで、梓の顔が児島の胸に突っ込む。ネイビーカラーのコートに顔面が激突した瞬間、柔軟剤のような匂いがした。結衣子とは異なる香りに侘しさを感じると同時に、児島の生温い体温に不快感を覚えた。すぐに児島を突き飛ばしたが、見上げた彼の顔は真っ赤に染まっていた。
「なに赤くなってんの? ていうか最悪なんですけど」
「はあ!? お、俺だって最悪だっつの! お前臭えしっ」
「ちょっ、最低! 女子にそれ言う!?」
「お前なんか女子じゃねえわっ」
生協中に響くほどの口論を繰り広げ始めた梓と児島に結衣子は溜息を吐き、その場を去ってレジ台の前に立った。それに気付いた梓は結衣子を慌てて追おうとしたが、児島に手首を掴まれ生協の外へ連れ出されかけた。それを振り払い、結衣子のもとへ駆け寄る。
「結衣子さんっ。本当に助けて下さいよう、あいつしつこいんです!」
「しつこいってなんだよ! 碧海さん、俺はこいつと約束したんですよ。約束破る方が悪いですよね」
「それはあんたが結衣子さんも一緒でいいって言ったからっ」
「はいはい。とりあえず二人とも煩いから静かにして」
レジ台に身を乗り出してきた梓の肩を押してどかしつつ、結衣子は言った。彼女は児島に外で待っているよう指示した後、唇を尖らせる梓に向き直った。
「まったく。あんたたち、毎回毎回喧嘩してて飽きないの?」
「だってあいつからふっかけてくるんですもん。私悪くないです」
「児島くん、良い人だと思うけど。優しいし、親切だし」
それを聞いた梓は、思わず口をへの字に曲げた。
「そりゃ、結衣子さんや他の子には優しくて親切なんじゃないですか? でも私には真逆の態度ですよ真逆の」
「あんたが特別な人だからでしょうよ」
「……へ?」
不意打ちの言葉に、梓の頬は急速に熱を持っていった。不覚にも火照ってしまった顔を誤魔化すように、梓は顎のそばで両手を振る。
「そ、そうだ。結衣子さん、チョコ下さい」
「ないわよ。あの人のはヤケ食いしちゃったし」
「ええー! わ、私の分も作ってくれたんじゃ?」
「そんなわけないでしょ」
ぶっきらぼうにそう返答され、梓はがっくりと肩を落とした。頭をフル回転させて菓子コーナーへ戻ると板チョコを二枚掴み、結衣子の立つレジへと持っていった。
「もういいですよ。ホワイトデー期待してますからね」
「は?」
「はい」
梓が代金を払い、結衣子がそれをレジに納めた。梓は満面の笑顔を結衣子に向け、板チョコを一枚差し出した。ぽかんとする結衣子が可愛らしくて、また抱きしめたくなる。
「ハッピーバレンタイン」
梓が言うと、結衣子の頬が途端に薔薇色に染まっていった。大好き、と抱き着く前に目を逸らされ梓は残念だったが、遠慮がちに結衣子の手が伸びてきて板チョコを受け取った。梓は嬉しくて、飛び上がりそうになる。
「あ、あんただって用意してなかったんじゃない」
「私は貰う側だと思ってたんですよう。それに私、料理下手なんで」
「そっちのチョコはどうすんの」
「んー、煩いんで児島にあげます。ムカつきますけど」
梓が肩を竦めて板チョコを振ると、結衣子は吹き出した。
「あんたも、何だかんだお人好しね」
「仕方なくですからね、結衣子さん。勘違いしないで下さい。愛が籠ってるのは、結衣子さんのチョコにだけです!」
「ついさっき適当に買ったくせに」
二人で顔を見合わせ、笑う。結衣子の花のような笑みは、梓の宝物だった。これから児島の面倒を見てやらないといけないとしても、この笑顔を思い出せばどんなことでさえ乗り越えられる気がした。
「おーまーえー」
地獄の底から湧き上がるような、重苦しい声がした。恐る恐る梓が振り返ると、案の定、そこには笠原がいた。
「ゲッ、オバサン」
「オバサンじゃねぇよ。また邪魔しに来たのか! 春休みくらい失せろっ」
「あー煩い煩い。これだからオバサンは」
「てめっ」
「じゃあね結衣子さん。また来ますから!」
梓は自分に向かって蹴りを入れる仕草をする笠原から逃れ、結衣子に手を振った。結衣子は呆れていたが、それでも梓に向けて手を上げていた。梓は満足して生協を飛び出した。
ホワイトデーこそは、結衣子と二人きりで過ごす。そんな決意を勝手に固めながら、梓は児島のもとを目指した。