Ⅳ
ウィアドは重い足取りで自室に戻って行った。部屋の戸を開け、そこにある更なる憂鬱の存在に気付く。
金色の憂鬱だった。戻って来た部屋の主を前にしても、この瞬間、この場に自分が居ることの正しさを微塵も疑っていない様子で、少しも動揺することなく、そこに居た。『彼女』はそれほどに、ウィアドには一切目もくれず、一心に、手元を見つめていたのだ。
長い金髪の巻き毛に、みずみずしい白い肌。つんと澄ましたような横顔は、小さく整った顎先にかけて、流れるような美しい弧を描く。
「……。何で居るんだ」
ようやく当然の疑問を口にしたウィアドに対し、
「貴方のお父様が、御三家の二つの家の結婚式に、残された家の者を招かないとでも?」
彼女は相変わらず目線を合わせないまま、淡々と口にした。その皮肉めいた言い回しに、ウィアドは、苛立ちよりも、天井を振り仰いで溜息を吐きたくなるような落胆を感じる。
「違う。何で俺の部屋に居るんだと訊いてる」
実際に大きく息を吐きながら言う。彼女はようやく、ちらと視線を送ってきた。その翡翠の瞳は、誇り高きタリアン家の令嬢の名に相応しい高貴な光の端に、彼女自身の我の強さと、子供じみたとも言うべき純粋さを忍ばせていた。
「恋人に会いに来るのは、そんなにいけないこと?」
彼女はまた、非常に情動的でもあった。それは、ウィアドが、この一つ年上の幼馴染に会うのを苦手とする理由の一つでもある。が、彼女は、ウィアドの内閉的な性格に原因があると考えているらしく、少しも譲歩しなかった。
「なあティファル。いや、ティファレント」
ウィアドは、敢えて普段の呼称でなく、本名で呼び掛ける。
「恋人じゃない。俺は、」
皆まで言い終えぬうちに、彼女・ティファレント=タリアンは、もう聞き飽きたとでも言いたげな様子であからさまに顔をしかめ、また目を反らしてしまった。その時、彼女が先程から見ていたのが、自分が曲を描いたあの楽譜だということに気付いた。
「おい、また勝手に……」
ウィアドは慌てて彼女の手からそれを取り返す。彼女が、連ねられた音符を見たところで曲の良し悪しを判断できるとは思えないが、あまりいい気分にはならなかったのだ。
ティファレントは一瞬不満気に頬を膨らませたが、
「それ、貴方が創ったのよね」
一呼吸置いて、何気ない態度で訊いてきた。
「……そうだけど」
「ナウシズ姉さんのお祝い?」
ウィアドが頷くと、
「弾いて聴かせてくれない?」
案の定、彼女は言ってきた。予想通り、かつ最も恐れていた言葉に、ウィアドは閉口する。彼女は、言い出したら聞かないのだ。『嫌だ』も『駄目だ』も一切通用しないことなど、昔からの経験でよく分かっていた。この状況において彼女を納得させられるのは、黙って演奏の準備を整え、ピアノの椅子に浅く腰掛けて鍵盤にそっと手を乗せること、それだけだ。
……静かな響きが、部屋に満ちていった。
ウィアドは、昔からよく曲を創った。むしろ、曲を創ることぐらいしかしてこなかった。幼少期から病弱だったせいで、室内で過ごすことがほとんどだったからだ。ピアノは元々、母・ビーナが趣味で持っていた物だった。初めはさほど好きというわけでもなかったのだが、他にこれといって出来ることも無かったし、何より母が喜んだ。次第にそれが唯一の趣味へと変わっていく中で、著名な作曲家の作品を与えられて弾くよりも、自分で自由に演奏することの方が好きだと気付き、曲を創り始めたのだ。
ティファレントは、普段さほど音楽が好きなわけでもないのに、ウィアドが曲を完成させる度に、それを演奏して聴かせるようにせがんでくる。そうやってなまじ関心がある風に振る舞われるのは、好きではなかったが、母亡き後はそういう素振りを見せる者すら他に居なかったので、毎回弾いて聴かせていた。
演奏中、ピアノの脇に立つティファレントを横目で窺ってみたが、やはり大きな関心を持って聴いているようには見えなかった。とは言え彼女は、十分に余韻を聴き、演奏者を労うだけの感性は持ち合わせている。曲が終わり、たっぷり間があった後、非常に乾いた拍手が投げかけられた。
「それ、結婚祝いの曲?」
彼女は手を叩きながら訊いた後、頷く間も与えず言葉を続ける。
「暗すぎるわ」
馬鹿にして言っているのではないと分かった。彼女は言葉はきついが、人を嘲笑うような人間ではない。だからこそ、何も言えなかった。下手な曲だと笑われた方が、幾分気が楽だっただろう。
「泣いてるの?」
彼女は真っ直ぐにウィアドを見て、問うた。その表情からは、何も読み取ることができない。だが、部屋に籠りきり、下手な暗い曲ばかり創っている自分に呆れ、憐れんでいるような気もした。
「かもしれない、」
自分が涙を流していないのは明らかであったが、そうでない、何か心の奥深くを見透かされたような気がして、ぼんやりしたままそう答えていた。
「あの方の何が気に入らないのよ?」
ティファレントの問いに、ウィアドはただ口走る。
「わからない」
わからない。口の中で再度呟いた。
一気に心に陰が差した。ずっと胸の奥に居座っていた、でも意識しまいとしていた、負の感情。それを目前に晒されたように感じたからだ。
「大丈夫よ、」
慰めると言うよりは、聞き分けの悪い子供をたしなめるような口調で、彼女は言う。
「貴方は泣きたいほど嫌いでも、ナウシズ姉さんを幸せにするのには、何の不足も無いわ」
「……」
ウィアドは、黙り込むしかなかった。
付き合いきれないと思ったのか、ティファレントは首を振り、式で会いましょう、と小さく言い残して、出て行ってしまった。
ザイン=マルバス……。姉の婚約者として、また義兄として、願ってもいない才色兼備の好青年。
こんなことを、思ってはいけない。感じてはいけない。そう思って、自分を律してきた。彼に対して良くない感情を持ってしまうのは、自分の心が歪んでいるからだ。この感情は、自分とは真逆の優秀な彼に対する、僻みでしかない。憎み嫌うべきは、彼などではなく、心までも病の暗い影に蝕まれ、純真さを失ってしまった、自分自身の卑屈さだ。そう心に言い聞かせてきた……。
だが、この日を迎えてもなお、何一つとして納得できていない。むしろ、以前はただ何となくもやもやとしていた感情が、より具体的なものに変わっている。
あの鳶色の目を思い浮かべる度に込み上げてくる、否定しようのない想い。
祝う気など起きない。喜ぶことなどできない。
姉は、こんな男のものになってしまうのか……?
手の中には、あの楽譜があった。
願うのは、姉の幸せ。
込めたのは、不安。不信。嫌悪。……そして、深い哀しみ。
今なら、はっきりと言える。
……ザインが、嫌いだ。
ウィアドは一つ呼吸して、手にした楽譜の束を、徐に引き裂いた。