Ⅲ
ナウシズの部屋の外で、ウィアドは、胸の奥の何か重いものを吐き出すように、大きく息を吐いた。
気分が悪くなったというのは、ある意味で本当だった。……ザインのあの瞳が、不思議に頭から離れなくなっていたのだ。口元に浮かぶ、柔らかな微笑み。彼の整った美しい顔立ちは、見る者を強く惹きつける。だが、眼は……その強い光を湛えた鳶色の瞳は、少しも笑ってなどいなかったように思う。鋭く射抜くような、それでいてねっとりと絡みつくような、そんな視線。
その時、ウィアドの耳に、若いメイド達の会話が聞こえてきた。
「……マルバス家側は、よく今回の婚姻を承諾しましたね。ナウシズ様はお美しくて素晴らしい方ですし、入婿のザイン様とお似合いの夫婦になれるでしょうけれど。アッシャー側に齎される利益に比べると、マルバスにとってはあまりに不公平なのでは?」
新米らしいメイドが、何気ない口調で訪ねると、
「馬鹿言ってんじゃないわ。この縁談で苦い思いをしてるのは、アッシャー家当主のオセル様の方よ」
呆れたような声が飛んだ。こちらは、先のメイドの先輩のようだ。
「アッシャーには相続の問題があるもの。跡継ぎのラメド様が三年前にお亡くなりになってしまって、婿養子を迎えるしかなくなったのよ」
「え? でも、次男のウィアド様がいらっしゃるではありませんか」
「……はあ。あなた、ほんとに何も知らないのね」
先輩のメイドは、後輩の疑問を一蹴した。
「ウィアド様は重い病気なのよ。生まれつきのね。お医者様にも、二十歳まで生きられないだろうって言われ続けているらしいわ」
「でも、そんな……まだ、生きていらっしゃるのに」
「ええ、オセル様もさぞお辛かったでしょうよ。まだ息子が生きているうちから、近い将来に死ぬことを見越して、代わりの跡継ぎを用意しなければならないなんてね」
先輩のメイドは、沈んだ声で言葉を続ける。
「それだけじゃないわ。マルバス家の次男が次期当主になるのだとしたら、将来的に、アッシャーの覇権がマルバスに吸収されてしまうことになるかもしれないのよ。……いいえ、ほぼ間違いなくマルバスはそれを狙っているし、オセル様もそれにお気付きになってはいた。でも、半年前に体調を崩してお倒れになってから、状況が変わってしまったの。早急に次期当主を決める必要性に駆られたのね」
「そんな……結婚の裏に、こんな事情が……」
「私は、今回の婚姻はむしろ、アッシャーを潰すことに繋がるんじゃないかと不安なのよ。ナウシズ様が、もっと大きな悲しみや苦しみを背負わされるようなことにならないといいけれど。いずれは、お一人になってしまうのでしょうからね。――ああ、ラメド様が生きていらっしゃったら……」
それから話題は結婚式後に開かれる宴の会場装飾のことに変わり、二人の声は遠ざかって行った。
ウィアドは、再度大きく息を吐いた。……動悸が激しくなり、呼吸は乱れていた。
――自分が、こんな身でなかったら。それはあの日から、幾度となく感じた想い。
三年前。政府に不満を持った壁外の貴族らが結託し、帝都に押し寄せた。その規模は今に至るまで、【壁内都市】始まって以来最大の反乱と言われている。それでも、あの大きな悲劇が齎らされることになるとは、その時点では誰も予測出来なかった。
反乱に際して、ウィアドの兄・ラメド=アッシャーが、指揮官として初めて戦地に赴く運びとなった。
優れた統率力と判断力を持つ、二十二歳の若き闘将。アッシャー家の誇り。その一戦は、前途有望な彼のために用意された、実践練習の場に過ぎないとさえ考えられていた。誰もが、彼の初陣の輝かしい勝利を信じて疑わなかったのだ。
だが。
そこで何が起きたのか、誰にも分からない。壁外に出た彼の軍は、次の瞬間散り散りになり、縦横無尽に走り出していた。ラメドが任されていた反乱軍を制圧したのは、専ら、遅れて来た別の後援の軍だった。
その後ラメドは、部下の手によって『回収』された。
今でも思い出す。彼が『帰って』来た時の様子を。叫び声を上げて慟哭する母に、涙を流すだけの人形のようになってしまった姉。肩を震わせながら仁王立ちになり、少しも動かなくなった父。……そしてウィアドはと言えば、見たくもない程変わり果てた兄の姿から、目を反らすこともできず、茫然とただそこに『在』った。
悲劇は続いた。元々体の弱かった、母・ビーナ。息子を亡くした悲しみが、その身を蝕んだのだろう。ラメドの死から僅か半年後、後を追うように亡くなった。
自分が、せめて普通に生きることができたら。
家が存続の危機に立たされることなど無かった。両親が、命を削る程の絶望感に苛まれずに済んだ。姉は、家を出て他家に嫁ぐことができた。
それを不可能にしたのは、自分。他でもない自分だ。拭うことのできない自己否定。どうすることもできない現実。何も、できない。ただ嘆き、詫びることしか……。