Ⅰ
その部屋は、ピアノの音に満ちていた。操る少年の細い指が、鍵盤の一つ一つを正確に押さえていく。左手が奏でるのは、低く落ち着いた静かな響き。右手が歌うのは、繊細で物悲しい旋律……。昂りも、悲嘆にくれもしない。ただ水が流れるように、淡々と。呼吸までもが、張り詰めた空気を震わせて、微かな囁きのような音色の一部に変えられていく。
やがて曲は終盤に差し掛かり、ゆっくりと結びへ向かう。
最後の一音が、小匙一杯分の砂糖をミルクのカップへ落とす時のように、静かに宙に溶けていった。その余韻がまだすぐそこに消え残っているうちに、部屋の戸が叩かれる無機質な音が響く。
「……。はい」
少年が部屋の外に向けて返事をすると、戸が開いた。
「ウィアド様」
声と共に入ってきたのは、黒服に身を包み、黒い長髪を背で括った若い男だった。
「メグレスか……」
父の【従者】のメグレス・S・サードは、ピアノに向かったまま呟く少年の元に歩み寄り、白手袋を付けた手を胸に当て、恭しく一礼した。長身で華奢に見えるが、そのしなやかな動きは、黒服の下の、鋼のような筋肉が可能にするものだ。動作一つ取っても、彼が極めて有能な人物であることが覗える。
だが、彼の最も特異な点は他でもなく、その目にあった。少しの油断もなく光る黒い右目の隣……同じように左目が存在しているはずの位置に、それは無い。少なくとも、彼の本来の左目は。
代わりにそこに埋め込まれているのは、眼球を模した、金属製の小型装置だった。血のように赤い瞳孔の部分は、微かな機械音と共に、絶えず伸縮し回転しながら、目の前の物を捉えている。この装置により、対象を通常比五十倍まで拡大視でき、温度・材質・数量等も瞬時に測定・分析可能とのことである。帝国の最先端技術が生んだ、優れた装置だ。
その装置は今、ひとえに、少年とピアノの周囲に散乱した、無数の紙切れに向けられていた。五線の上に連ねられた音符。手描きの楽譜である。
「曲をお創りになったのですか?」
足元に落ちていた一枚を手に取って、彼は訊いた。
「ああ。今日のために」
少年は、散らばった楽譜を掻き集めながら答える。
「本日の結婚式では、帝国交響楽団が全ての曲の演奏を担当することになっておりますが」
「分かってる。別に、式の中で披露するつもりで創ったんじゃないさ。……姉さんのために、俺にはこれくらいしかできないからな」
「……」
暗い調子で呟いた少年に、メグレスは、手にした楽譜を差し出す。
「ご気分がよろしいのでしたら、午後からの式が始まる前に、ナウシズ様の所へ行かれてはいかがでしょう。お喜びになるかと存じますが」
少年は黙ってそれを受け取り、集めた楽譜を順番通りに並び替えながら、じっと考えていた。
「……それが一番良いかもしれないな」
やがて、彼は小さく言った。
「では、私は失礼致します」
メグレスは一礼して去って行った。
彼の後姿を見送り、少年は立ち上がる。ピアノの蓋を閉じ、丁寧に埃を払ってから布をかけた。
部屋を出ようとして、自分が寝間着同然の服装であることに気付き、壁に掛けてあった紺の膝丈コートを着た。彼の家に代々伝わる、軍服の上に纏う肩章の付いたコートである(と言っても実際に軍服を着る機会など殆ど無いので、このように普段着として着用することの方が多かった)。
下に着ている服が見えないよう釦をきっちり留めると、少年は部屋をあとにした。