表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

1-5

不慮の事故により二名が脱落した麓原学園野球部(仮)の初活動は、銃刀法違反者の通報を持って無事(?)終えることとなった。

明日、つまり夏休み初日からさっそく初練習にとりかかる旨を通告し解散の運びとする。

いや正直乗り気ではなかったのだが、花織先輩が前もって練習場にふさわしい場所まで見つけてきてくれたとのことで、その好意を無碍にすることなど先輩大好きな俺にはとてもできず、市内の運動公園に朝10時集合という予定を立てた。


「ふぅ、北海道の牛乳レベルに特濃なキャラ揃いだったな……」


ただいま職員室の一隅に設けられた給湯室にて、仕事終わりの一服中である。

あぁ、タバコが旨い!

現実の辛さとタバコの味わいってのは反比例するものなんだ。

俺はゆっくり大人の味を吸い込むと、おおきく煙を吐き出した。


「これから当分納豆だけだな」


そして落涙する。

先輩に、活動に必要な諸費用を折半してもらうという案はどうだろう。

先輩とはいえ女性に頼るのも男としてどうかと思ったが、よく考えたら部としては至極当然のことなので議論の余地なく頂戴することにしよう……。

今日の様子を見る限り、部員のみんなも一部を除いてやる気がないわけではなさそうだし、ともかくここまで来てしまった以上もう逃げ出すことはできそうにない。

どうせなら、せめてひと試合だけでもさせてあげたいと思っているのはきっと先輩も同じだろう。

愛煙生活にしばしの別離を告げる虎の子のラスト一本を根っこまで吸い終えて、俺は重たい腰をあげた。

保健室に顔を出さなきゃな。

と。


「醍醐教諭、お時間ありますか? お話があるのですが」

「うおっ……! り、理事長、どうもお疲れ様です」


突如巨漢のババアが平社員の聖域である、この給湯室に侵入してきた。

ババアはもくもくと漂うタバコの残煙を不愉快そうに見回しながら、これ見よがしに眉をしかめて話し始めた。


「醍醐教諭。あなたはたしか新設された野球部の監督でしたわね」

「えっと……、はい。佐々木先生からお渡しした嘆願書に記載してあるとおりですが……」

「その野球部についてお話があるので、理事長室までいらしてくださる?」


加齢臭を隠蔽するためのどぎついコロンの匂いをプンプン振りまいて、我が校の独裁者は薄ら笑いを浮かべた。

なんだか嫌な予感がする。

こいつがこの手の笑みを浮かべているときは、必ず何かしらの面倒ごとを押し付けられるのだ。


「お断りしますです。このクソブタ!」


……とここで言えれば俺も男なのだが、この封建的な閉鎖社会においては個人のちっぽけなプライドなんてものは、己の社会的地位の保全という至上命題の前に跡形もなく崩されてしまうものだ。

少しでも歯向かおうものなら、きっと俺は職を失うことになる。

大人の世界に理不尽はつき物で、それはまるで酸素や二酸化炭素のごとく、この『現実』の中に充満している。

決して避けては通れない。

だが人は呼吸をせずには生きられないんだ。


「……伺います」

「よろしい。では行きましょうか」


人を見下したような目でそう言うと、理事長はドアを開け、先に給湯室を出て行った。


――無いなら作るです!

――楽しみですねー野球!

――やるったらやるです!


 残念ながら、俺はガキではない。

 俺たち『大人』は、ただ権力が自分に背を向けているわずかな間、その背に向けて舌を出し中指を突き立ててみせることしかできないのである。


「やるったらやるです!……か。ハハ」


自分でびっくりする位、乾いた笑い声が出た。



理事長の話はものの5分ほどで終わった。

しかし、先ほど自己紹介に1時間以上かかったのと比べると、不思議とそれよりもよほど長い時間に感じられた。

理事長は特設の高価そうな革の椅子にドッシリと腰掛け、不敵に言い放った。

『監督がんばってね』

違う。

『部費は月にいくら必要なの?』

それも違う。

『あなたのこと……、好き』

嫌だ。


――対外試合は禁止とします。


だとよ……。

なんでも、『常に優雅たれ』が校訓である我が校の生徒にとっては、地べたを這いずり回り、好奇の衆視に耐え、汗と埃にまみれることによって得られるものなど何ひとつ必要ないし、そもそもそんなものはありえないのだと。


「……まぁ言いたいことはわかる」


そして対外試合をして万一敗北でもしようものなら、それは我が校の威厳と名声を貶めることになり、そんな恥辱は理事長として断じて許せないという。


「――方針は方針だからな」


ともかく。

俺は監督としてできるだけ速やかに野球部(仮)の活動を中止するようにとのお達しを受けたわけだ。


――な、なぜですか! 受理してくれたんじゃないんですか!


もちろん反論した。


――理事会の会議での正式な決定です。あれは私の独断でしたので。それに私が認めたのは、『(仮)』としての野球部設立です。それはあくまで暫定的なものです。

――そ、そんな。だって人数は集まっていますし、もうすでに顔合わせも終わっています。明日から練習なんです!

――さすがに即刻中止というのも気が咎めますし、なにも今日明日とは言いません。なるべく早く部員の皆さんに事情を説明し解散するように。いいですね? 佐々木教諭には私から伝えておきます。


それで話は打ち切られてしまった。


「でも、俺は――」


俺はみんなに、新田に、なんて言えばいいんだ。



俺は迷った末、結局保健室に来ていた。

新田も先輩ももう目覚めていて、ふたりでベッドに腰かけて雑談していた。


「あっ、センセーですー!」


 うわはーと新田。


「りっくん、おはよぉ~」


 ふんわりと花織先輩。


「おい新田、もう大丈夫なのか?」


いくら北条が好きだからってまさか鼻血出してぶっ倒れるとはな。


「だいじょぶだいじょぶですーっ! ギンッギンですーっ!」


ギンギンって……。


「――さっきあやちゃんが来てあのあとのこと教えてくれたですよ。センセー困ってたって言ってたですー、あはは。みーんな個性豊かで、これからとーってもおもしろくなりそうですねー!」


新田は表情も豊かに、身ぶり手ぶり、体をいっぱいに使って楽しそうに話す。

生きているだけでもう、楽しくて仕方がない――、そんなおさなごを見ているようだ。


「あぁ、困った。おまえなんであんな変人ばっか勧誘してるんだよ」

「だってそのほうが楽しいですー」


おまえだけな!

俺は胃が痛い!


「先輩ももう平気なんですか?」

「『先生』でしょ~? りっくんたら何度言っても直らないんだから~」


おまえもな!!


「――もっくんの方こそだいじょうぶ? なんだかさっきよりやつれて見えるよ?」


心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

先輩とは長い付き合いだ。言葉を交わさずとも、互いの異変はなんとなく察知できる。

でもその上目遣いはやめてくれ、ドキッとする!


「そりゃ、これからあの面子を相手にしなきゃならないんですからね。誰だってやつれますよ……」

「うふふ~、にぎやかで素敵な部になりそうだね~」

「センセーセンセー! いよいよ明日からですねぇ! ひなはもう楽しみで楽しみで眠れそうにないですっ! センセーも寝れないですかっ?」


おまえはさっきまで散々寝てたからな!


「いや、たぶん一瞬で寝る」

「りっくんはいつでもどこでも寝れるのが唯一の長所なんだもんね~?」


もうそれただの悪口じゃねーか! 

この人よく教師になれたな!


「はぁ……」


なんかこのふたりの能天気な顔を見ていると、ババアの話をいつまでも切り出せそうになくなってくる。

だが社会人足るもの、上司の意向に逆らうことなんてできやしないししてはいけないのだ。

いつかは言わなきゃいけないことだし、それはきっと早いに越したことはない。

 

なぁ律太郎、いいじゃないか。

おまえは野球とは縁を切ったんだろう?

今さらまた野球に触れようだなんて本気で思っちゃいなかっただろう?

思い出したくないこと、いっぱいあるじゃないか。

面倒ごとから逃れられる、いい大義名分を得られたと思えばいい。

こんなクソ暑いなか、野球なんてやってられるかよ。

はじめはよくても、どうせみんなすぐ飽きちまうってば。

だったらはやく解散しちまおう。

そもそもこいつらと甲子園なんて、現実的に考えて無理に決まってる。

今回ばかりは理事長に感謝しなきゃな。

だって、お偉い理事長様に命令されたんじゃどうしようもないだろ。

みんなわかってくれるさ。

これで晴れて、自由な夏休みはおまえのものだ。

な、醍醐律太郎。


「……」


開いた窓の外から吹奏楽部の未熟な合奏が風に運ばれてきて純白のカーテンを揺らした。

頼んでもいないのにやかましいセミ達のコーラスもセットだ。

そのセミ達のたまり場となった、裏庭の大きなイチョウの木が目に入る。

深緑の葉は薫風に遊ばれゆったりとそよぎ、いつもより大きな太陽の、その銀色の光をめいっぱいに浴びてせっせと光合成に励んでいる。

新田も花織先輩も何するでもなく、窓から吹き込んできたやさしい風に目を細めている。

一度沈黙すると、それはなかなかに濃密で。

決して戻らぬ時計の針の音が、いやに大きく聞こえた。


「……なぁ、新田。それに、先輩も」


口を開く。喉がからからだ。


「……はいです?」


ふと風がやむ。

吹奏の旋律は、7日しか生きられぬセミたちの狂騒に飲まれ、イチョウのそよぎもピタリとなくなった。

まるで、一瞬にして時間が止まったようだった。


「…………」

「りっくん?」

「センセー?」


――いっしょに野球しようです!


「……いや、野球がんばろうな! 俺がみんなを甲子園に連れてってやるから」

「にゃふうううっ! い、今のしびれるですぅ! もっかい! もっかい言ってくださいですー! ハァハァ! また鼻血でちゃうです!」

「うふふふ、今のりっくんちょっとカッコよかった~」

「最高の部活にしような。俺、またやり直すよ、野球」


残念ながら、俺はガキじゃない。

現実ってもんを、ちゃんと弁えている。

だから嘘をついた。

大人の俺は。

その日、風はもう二度と吹くことなく、心もとなくもなつかしい、つたないメロディーを運ぶこともなかった。



帰宅して、夜になった。

今日からはもう当分翌日の仕事のことを考えなくてもいいと思うと気が楽だ。

はじめて夏休みを迎えた小学生のような新鮮な気分で、俺は脱力し深く湯船に体を沈めた。


――ひなをこーしえんに連れてってほしいですぅ!


新田の瞳を思う。

思えば昼間の俺はちょっとどうにかしていたのかもしれない。

なぜあんな期待させるようなことを言ってしまったのだろう。『みんなを甲子園に連れて行く』だなんて。

ただでさえ前しか見えていない新田のことだ。

きっと俺のその嘘を鵜呑みにする。

今ごろはあいつもこうして風呂にでも浸かりながら、自分の純潔な夢の今後に思いをはせているかもしれない。


「あの太陽みたいな瞳で……」


屈託なく笑い、忌憚なく憤る。

人の踏み入れない秘境に湧き出る、清澄な泉にも似ている。

ただただひたすらに前向きで、まぶしくて、今のあいつは純粋すぎる。

そんな彼女の透明さに、大人の俺はあてられてしまったのだろう。

だがあんなことを言ってしまった反面、野球に対する気持ちが変わっていないのも確かだ。

俺は教師をはじめるとともにきっぱりと野球を絶ち、それにまつわるたくさんの思い出も心底に封じ込めたんだ。

その決心は揺らいでいない。

行くだけなら簡単に甲子園へは行ける。

車でも電車でも、その気になれば歩いたって行ける。

だが、そういうことではない。

俺はきっと思ってしまったんだ。


――この子と、甲子園の土を踏みたい、と。


俺は新田に誘われたその瞬間に。

あの瞳に、見つめられた瞬間に。

『矛盾』という名の魔法にかかったんだ。


「……現実的じゃないな。俺ともあろう人間が」


などとひとりでシリアスなモノローグを展開し自分に酔っていると、玄関の方から物音が聞こえた。

足音は玄関から浴室の前を通り過ぎ、一度居間のほうへと遠ざかっていったが、しばらくの沈黙の後再びこちらへと近づいてきた。

汗が、ほほを伝い零れる。

――ヤツが……! 来る……!

ドタドタドタ……! バタンッ……!


「おいクソ兄貴!」


浴室のドアが勢いよく開け放たれる。

充満した湯煙が逃げ場を見つけて一気に外へ滑り出していく。

その湯気の先には、悪鬼羅刹のごとき表情を浮かべた制服姿の愚妹が仁王立ちしていた。


「いやん。変態!」

「いやんじゃないよ! なんで納豆しか置いてないの!」


晩飯のおかずのことだろう。


「黙れ、食費も支払ってないやつに文句言われる筋合いはないな」

「だ、だからって育ち盛りの女子高生にご飯と納豆だけってのはあまりにも残酷……!」


補足しよう。

今年の4月から麓原学園へと赴任した俺は、それを機に、学校から程近い場所にあるぼろアパートの一室を借りて愚妹と住んでいるのだ。

というのも、俺は気ままななひとり暮らしをひっそりと営んでいこうとしていたのに、日ごろから交通の不便を嘆いていた愚妹がいきなり押しかけてきてこれ幸いと勝手に住み着きやがったのだ。

実家はここから遠く、通学に不便だから、と。

そんなん知るか、自分で選んだんだろ。

兄のそんな反論もむなしく、両親まで味方につけた愚妹は。

――この学校に関してはあたしのほうが先輩だから。

などと意味不明な供述を繰り返し、春休みにボストンバッグ片手にノコノコやってきてそのまま帰らないのである。

しかし俺は今でもこやつの同居を認めていない。

家賃も食費も光熱費も、すべて俺持ちだしな。

この愚妹まじ愚昧。


閑話休題。

大体なんでこいつはこんな時間に帰ってくるんだ。


「楓に宿題手伝ってもらってたの!」


こいつが夏休みの宿題を夏休み初日に始めるだなんて、明日はきっと雪が降るぞ。


「なんだってまたそんな。宿題なんていつも貯めるだけ貯めて最終日に泣きながらやってたじゃないか」


こいつは昔からそうだ。

計画性ってものを微塵も持ち合わせていない。

小学校のときから何度も何度も手伝ってやった記憶がある。

風呂場の湯気はほとんど出て行って、代わりに愚妹の連れてきた夜色の外気が浴室内に入ってくる。


「だ、だって、野球あるし……。なるべく早く宿題終わらせて――」


――野球に、集中したいから、さ……。

愚妹は頭をかきながら、少し気恥ずかしそうに言った。


「ぐ、愚妹……」


とりあえず、受験生の発するセリフとはとても思えない。


「あ、兄貴が監督なのは気に食わないしまだ納得できないけど、ひなせにさ……、後輩にあんな瞳でお願いされたら、頑張らないわけにはいかないっしょ。もうやるって決めたことだし、やるからには全力でやりたいんだ。甲子園とかはよくわかんないけどね」


てへへ、と苦笑いする愚妹。

が、別にかわいくはない。


「そっか……。ところで」

「……ん? な、なななによっ、べ、別に兄貴のためじゃないんだからね! てゆーか晩ご飯他にもなんか作ってよ!」

「あがってもいいか、そろそろ。ぐへへへ」


湯船の縁に手をつけて、お湯からゆっくり腰をあげつつ訊ねる。


「――――ッ!」


5分後、錯乱した愚妹からの通報を受けて大急ぎで駆けつけたお巡りさんにぺこぺこと謝る俺たちであった。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ