1-3
一週間が経った。
夏休みを翌日に控えた退屈な終業式は、先ほど終了した。
木漏れ日も涼やかな裏庭。
雲は能天気に天と地の間を漂って、セミは何が楽しいのか狂ったように鳴いている。
「……まずい」
熱い日差しを適当に遮る古いイチョウの木のもと、俺は茂った青葉越しに青空の海を見上げる。
――面倒なことになった。
なんと!
新田ひなせは花織先輩の献身的な助力(シュークリームで買収したらしい)のもと、約束どおり今日までに、自身を含めた9人の部員を集めてしまったのだ。
さらにその酔狂な物好きたちの中には、どう説得したのかにわかには信じがたい人物も名を連ねているということが判明した。
「あぁ、俺の夏休み……」
そして先輩が脳みそをフル回転させて作成した佐々木花織名義での『野球部発足嘆願書』は、なんの因果かあのスポーツ大嫌いな理事長によって受理、承認されてしまった。
『(仮)』というおまけは付いているが。
どうしたことか、現実は、意外にすんなりと新田の願いを後押ししている。俺の願いではなく。
なんだってまた野球なんかに携わるはめに……。
「おのれ新田めぇ……!」
俺は携帯灰皿を取り出し、タバコをくわえて火をつけた。
と、その瞬間正午を告げる荘厳なチャイムが鳴り響いた。
同時にこれは麓原学園女子高校野球部(仮)の初活動開始を報せる無常な宣告でもある。
というのも、新田の提案によりこれから俺のクラスである1年B組の教室で、部員同士自己紹介をすることになっているのだ。
つまり今日を持って、海でエロい女の子たちとキャッキャウフフする素敵なバケーションプロジェクトは瓦解したわけで、代わりに酔狂な女子高生達との暑苦しいベースボールライフが待っていることだろう。
「それはそれで悪くないのかもしれない……。うん、そうだ。ギャルはギャルだ。あ、そうだ折角だから水着を着せて野球させよう。うへへへ」
精神を安定させるためひとりごとを呟きながら、俺はまだ長いタバコをもみ消した。
取り残された紫煙は、あっという間に空高く吸い込まれて消えていった。
一年B組の教室内には、すでに9名が揃っていた。先輩も入れれば10だ。めいめいが任意の席に着いて俺を待っていた。
俺は着くなり、一度新田を教室の外へと呼び出した。
「えっへへー、楽しみですねー野球!」
抑えきれないワクワクとドキドキが混ざり合ってオーラのように発散されている。はやく野球をしたくてたまらないといった様子だ。
「……あのさ」
実際に集合した生徒達を見て改めて思ったのは、これで甲子園目指すとか、そんなのはやはり夢のまた夢のまた夢……ということだ。
いくらなんでも荒唐無稽に過ぎる。
「――やっぱきついって。無理だよ、新田」
「ふぇ? なにがです?」
こいつが頑張ったのは認める。宣言どおりちゃんと人数集めたし、野球が好きなんだ! という熱意も伝わった。
だが、『現実』ってヤツがいい顔をしてくれるのもさすがにここまでだ。
「やっぱ全員女子で野球は厳しくないか、新田。甲子園なんてなおさらだ。どうせみんな未経験者なんだろ?」
本気で甲子園出場を目指している高校などは、金と知名度にものを言わせて日本各地から有望な中学生男子を発掘し、勧誘し、鍛え上げ、手塩にかけて強豪校を作り上げる。
だがそこまでしてもなお、予選を一度も負けずに戦い抜いていくことは非常にシビアだ。
あまり思い出したくはないが、それは身をもって体験している。
「始まる前から、厳しいとか無理だとかいう心構えで成し遂げられることなんてないです! やるったらやるです!」
むうー! とふくれっ面になる新田。
前から半信半疑だったのだが、どうやらこいつはガチで甲子園に行くつもりらしい。女子高の生徒達だけで。
初めにしていた甲子園だのなんだのという突拍子もない発言は、建前というか物のたとえというか、単なる野球への情熱のたとえに過ぎないと思っていた。
だが仮にそうだとしたら、果たしてこのように目に涙を浮かべてまで怒るだろうか。
教師をふたり道連れにして、この短期間で8人もの同士を集められるだろうか。
ここは女子高だ。きっと彼女ら8人の勧誘の過程で、その何倍もの数の拒絶を新田は受けてきたのではないだろうか。
「な、泣くなよ……。そういう問題じゃないんだ。ただもうちょっと現実をだな――」
「そーゆー問題です! まだ始めてもないのになんでそんなこと言うですかっ?」
現実がなんだ!
そんな威勢のいい激情がビシビシと伝わってくる。新田はごしごしと目じりをこすった。
――まぶしい。
こいつの瞳は、今の俺にはちょっとまぶしすぎる。
「ハァ……、わかったよ」
耐え切れずに視線を外す。いくつになっても、男は女の涙に弱いままだ。
「――悪かった、さぁ戻ろう」
仕方ない。一度乗りかかった船だ。しばらく活動を続けていればそのうちこいつも現実を悟るかもしれない。
ガキじゃない、もう理想と現実の区別は十分に付けられる年だ。
「言われなくたって戻るですっ」
まだ半泣きのままの新田はそう言い捨てると、俺の手をギュッと握り、強引に教室内へと引っ張った。
もうあんなふざけたこと言わないで!
そんな抗議の意が、つかまれた手から伝わってきた。
そんなこんなでまずは自己紹介だ。
せっかくやるからにはお互いのことをよく知っておかなくちゃいけない。
とりあえず全員の顔と名前を把握しておきたい。
あとスリーサイズも。
俺は教壇にのぼり、悠然と一同を見渡す。
「ゴホン。えー、俺がこれからみんなの監督として麓原学園野球部(仮)を率いることになった醍醐律太郎〈だいご りつたろう〉だ。よろ乳首!」
物事は掴みが大事だ。
指で輪っかをつくり胸部にあてがいながら、アヘ顔で爽やかに挨拶する!
「…………………………」
この決死のチャレンジに対して、あまねく3点リーダの応酬とはこれいかに。
……あれだな、最近の女子高生ってのはどうにもノリが悪いよな。
あのー、あれだろ? 急速にデジタル化されたコミュニケーション社会で生まれ育ち、人の気持ちをうまく考えることができず、傷つかず傷つけない無難な人付き合いしかしてこれなかったんだろ? そういう世代なんだろ? 悪気はないんだよな? だから俺がつまらなかったわけじゃないよな!
だってこれじゃあ俺、ただの変態だもんな!
「さ、さて、つかみもOK! というところで、気を取り直してまずはお決まりの自己紹介からはじめよう。名前と学年と野球経験、それと身長体重スリーサイズなんかも言ってもらおうか。そのほかに自由にPRしても構わないからな。あ、個人的にはみんなが今はいているパンツの色とか気になるぞ!」
「り、りっくん……。デリカシーがないよぉ」
花織先輩が赤面している。
乙女か!
「なお、ここでのアピール内容によってヒロインの座が決まるぞ!」
「セ、センセーがなに言ってるのかわからないです……」
「だいじょうぶ! 俺もよくわからない!」
さて前置きはこのくらいにしておこう。
「じゃあまずはそこのきみから順番にいこう」
みんなと離れるようにして窓際の席でひとり座っている、メガネ少女に呼びかけた。
どことなく地味~な印象だ。彼女は音もなく立ち上がり、口を開いた。
「結城瀬里〈ゆうき せり〉。2年D組。152センチ。44キロ。野球経験なし。夢なし。希望なし。彼氏なし。視力なし。胸なし。存在価値なし。出番な――」
ひぃぃぃ! ネガティブすぎ!
「ま、待て、俺が悪かった! ありがとう、もういいぞっ」
あまりに自虐的すぎてこれ以上は聞くに堪えない。というかあれ以上喋らせてはいけない気がした!
「…………そう、ですか」
のっけからすごいの来たな……。
なんかこいつをこのまま窓際に座らせていてはいけなさそうな気がしてきた。ここは3階だ。
「え、えっと、結城はなんで入部しようと思ったんだ?」
どう見てもスポーツが好きそうなタイプだとは思えない。
ましてや野球なんて、やってる姿を想像するのすら困難だ。
「占い」
「……へ?」
「占い」
「……どゆこと?」
「ケルト十字法で占った。今こそ舞台に上がるべきだという結果が出た。まず一枚目のカード、魔術師がこのように――」
結城はおもむろに机の上へ大量のカードをばら撒き始めた。
何だ何だ、と10人の視線が集中する。
「瀬里先輩はタロット占いが好きなのですよー」
絶妙なタイミングで新田からのフォローが入る。
「あ、あぁ、なるほど……。で、おまえなんでこいつを誘った」
「――さらに八枚目、十七番の星が逆位置。これは周囲の人達が叶わぬ夢を追っているということの暗示であり――」
ぶつぶつぶつ。メガネくいっ。カードぺらっ!
ぶつぶつぶつ。メガネくいっ。カードぺらっ!
占い好きのメガネ少女、結城瀬里は自分の世界へと没入し、半笑いでひたすらマニアックな解説を続けている。
……よし、そっとしておこう!
「じゃ、じゃあ次……」
俺は次の生徒に目をやった。
結城から少し離れた席で、椅子の上にあぐらをかいている。
「――あ、あぐら!?」
思わず二度見してしまった。
さっぱりとしたショートヘアに小麦色に焼けた健康的な肌が印象的だ。制服着崩しすぎな気もするが……。
指名されると、ガタンッ! と勢いよく立ち上がる。
「はいはいはーい! 2年C組、足利あしか〈あしかが あしか〉だぞー! 身長は1600メートルくらいで、体重は50トンだー! ガオーッ! んっとね~、もともと陸上部で野球はよく知らなかったんだけど、無理やり引き抜かれたんだぞ! いえーい! NTR! NTR!」
うわなにこれテンションたっけ! 思わず後ずさってしまった。
NTRっておまえ……。
「スリーサイズはねー、上から、500! 5! 500! どうだこのダイナマイトボディーは! わーっはっはっは! あ、ちなみにパンツの色は白だぞ! 見るーっ? ガオガオッ!」
見る見る!
じゃなくって……、なんなんだこの人間離れしたテンション。
「あ、あしかちゃん、本当に言う必要はないんだよ?」
先輩が戸惑いの表情を浮かべている。スリーサイズやパンツの色のことを言っているのだろう。
心づかいは認めるが先輩、あなたは甘い!
監督の発言は絶対なのだっ!
元気いっぱいの褐色少女、足利あしかは、もっとしゃべらせろーと言わんばかりに机の上に体を乗り出し、うずうずとしている。
ガッタンガッタンと前後に揺れる机。危ない。
「えっと、さっき陸上部からの引き抜きとか言ってたが、もちろんちゃんと話はついてるんだよな?」
足利と新田を交互に見ながら訊ねる。気になったのだ。
……というのも、我が校の数少ない運動部の内のひとつである陸上部の顧問、大友は、真面目で生徒第一主義で謹厳実直を絵に描いたような素晴らしい教師――を演じている理事長子飼いの腐ったハゲ野郎なので、もしなにか不手際があったらきっと面倒なことになると思ったからだ。
「話はついてるぞ! たぶん!」
そう、能天気に足利は答えた。
こんなに信用できない発言はめったにない。
「しばらく借りるってことになってるですー」
緊張感のない様子で新田も続ける。
部員の貸し借りなんてできただろうか……?
俺は規則を思い出そうと必死で記憶のページを手繰った。
「――醍醐センセー名義で」
「おうふ!」
「ひ、ひなせちゃん。あれは借りたって言うより拉致じゃ……」
花織先輩が補足する。
「なんてことををををを!」
まさかの失職危機!
先輩、あなたという方がついていながら……!
「た、頼む足利! 今すぐ陸上部へ戻ってくれ!」
「あーいいのいいの! 陸上はひとりだからつまんないし、野球ってなんだかワイワイ面白そうだなって前から思ってたのだよー! だから絶対戻らないぞっ! わんわんっ!」
わんわんっ! じゃねー!
満面の笑みすぎるだろ!
あとで陸上部に謝りにいかなきゃな……。
「うぅ……、次……」
半泣きで足利の隣に着席する生徒を指名する。
今のところふたり連続で変人だ。『二度あることはなんとやら』。『類は友をなんとやら』。
そんな嫌な言葉が頭に浮かんだ。
――お。青い瞳にブロンドの髪だ。
「斯波エレナ〈しば えれな〉。2年C組。イギリスと日本のハーフ。以上」
はっや。
「ちょ……、他になんかないか? スリーサイズとかパンツの色とか……」
「はぁっ? なぜあなたみたいな野蛮人にわたくしの体型や下着の色を教えなくてはならないんですの? あなたはわたくしのなんだと言うのです? ハーフなのがそんなに珍しくって?」
いや、そんなことひと言も……。
なにやらおっかない子だ。
「斯波……、俺なんか気に触ること言ったかな」
「言いましたわ。教室に入ってくるなりわたくしのことを見つめて、無遠慮にこの肢体を舐めまわすように吟味し、あまつさえ人の気持ちも考えずスリーサイズや下着の色をあっけらかんと質問しましたわ」
どうやらこいつにはジョークが通じないようだ。
英国人の血を引いているとは思えないユーモアのなさだ。
「――これだからこの国の男性は嫌なのですわ。それがレディーに対する態度なのですか? こんなのただのセクハラですわ! まったく、少しは恥というものを知っていただきたいものです。大体胸が大きいからなんだと言うのでしょう。巨乳の持ち主意外は女性ではない、とでも? まさか胸が大きいことがそのまま人間的に優れていることの証明になるとでも? いいですこと? わたくしには海の向こうに心に決めた男性がいるのです。わたくしのこの体は、ミスター・ジョーンズのものですの。よってあなたみたいなジャパニーズ・ヘンタイのバーバリアンには指一本触れさせるつもりはありませんわ。あ、あとわたくしの名前を馴れ馴れしく口にしないでくださいませんこと?」
また変人のようだ。占いお化け、テンションお化けに続いてツンツンお化けと来たか。
新田め、やってくれるぜ。もうすでに胃が痛い。
見た目はモデル級の超絶美少女だが、その中身は自意識過剰で、被害妄想が激しくて、勘違いも甚だしい、そろそろ貧乳が気になってくる難しいお年頃な毒舌帰国子女だった。
「し、質問いいかな? エレナ女史」
「むっ……! な、なんですのっ? あなたと話すことなんてこれ以上ありませんわよ!」
こいつがデレる日は果たしてやってくるんだろうか……。
「野球に興味は? 入部の動機は?」
とりあえずそこだけは聞いておきたいと思った。
仮にも野球部だからな。
それにまた、どっかから新田によって拉致られてきたとか言われたら笑えない。
「べ、別にベースボールに特別な興味などありませんわっ。ま、それ以上にあなたにも興味ありませんけど。……でもわたくしクリケットなら向こうで多少はたしなんでおりましたのよ。この国ではクリケットがまったく盛んではないようなので、今度ミスター・ジョーンズに会った時に幻滅されてしまわぬようルールの似ているベースボールを練習代わりにしてみようと新田さんの勧誘を受けた際に思いついた次第で、動機としてはそれ以上でも以下でもありませんわ」
ハーフのくせにどことなく古風な日本語を流暢に操って、斯波はひと息にまくし立てた。
「そ、そうか。わかった、もう座っていいぞ」
「――あぁ、せっかくですので少し教えてさしあげますわ」
「え? あぁ、いやもう座――」
「わたくしのたしなむクリケットというスポーツは、イギリスが発祥の地なんですのよ。競技人口はフットボールに次いで世界で2番目に多いんですの。ま、クリケットは紳士と淑女による高貴なたしなみですし、あなたにそのなんたるかをお話したところでピッグにパールというものかもしれませんが。……そう、ついでに言いますと、クリケットはベースボールの原型とも言われてますのよ。そもそもの起源は13世紀、羊飼い達が考え出した娯楽に端を発すると伝えられており、18世紀には――」
うんぬんかんぬん。かくかくしかじか。
「エレっち、結局しゃべりまくってるな!」
となりでマシンガンのように自己満トークを繰り出す斯波を、同じクラスの足利が囃したてる。
「エレナ先輩かわいいですー」
新田はなごみ顔でにこにことしている。
「うふふふ~」
花織先輩も微笑ましげに斯波を見つめている。
「言うなればタロットとは――」
結城は相変わらずだ。
「よくわかった。とりあえずおまえはその『クリトリットス』とかいう際どい名前のスポーツをこよなく愛しているってことだな? ま、野球には野球の面白さもあるはずだから、それを見つけられるようがんばってくれ!」
「あ、あぅ……」
英国帰りの金髪少女は己の饒舌を呪うように押し黙り、赤面したまましおしおと着席した。クリトリットスはスルーされた。
よし、次だ。
人外三連発でなかば諦めムードに入っている俺は、執着を捨てあるがままを受け容れんとする悟りの境地に近づいていた。
「こ、こここ、こんにちわわ……。ボ、ボクは、たぶん、あの、な、名和絢子といいます……。ご、ごめんな、さい……。あうぅ……。緊張しすぎて死んじゃうぅ……」
キョドりすぎいいい!
恐る恐る立ち上がった少女は、ただでさえ小さい体をさらに小さくして、蚊の鳴くような声で喋りだした。
耳まで真っ赤にしてうつむきがちに、懸命に言葉を繋いでいる。
どんだけ緊張してるんだ……。
みんな変人ばっかなんだからもっと肩の力を抜けばいいのに。
「あの、その、この、どの……あわわ」
彼女、名和は新田と同じで一年B組、つまり俺の受け持つクラスの生徒である。こいつは我がクラスでもいつもこんな感じなのだが、こいつと会話をするとはたからは俺がいじめているように見えるらしく、よく誤解されてしまうのだ。
「がんばって、あやちゃん!」
となりの席から新田がエールを送る。
「う、うん……、ごめんねひなちゃん。し、死ぬね……?」
「えええ!?」
生きろ!
名和は息をするように謝るのだ。
その後もどもりまくってまったく要領を得なかったので、俺が要約することにする。
名和絢子〈なわ あやこ〉。1のB。A型。野球経験は無し。145センチ。40キロ。パンツは白地に青のしましま(終業式で無防備に体育座りをしていたため窃視)。入部動機は、新田に誘われて嬉しかったから。
こんなところだろう。
「よくがんばったな、名和。えらいぞ」
緊張のし過ぎで過呼吸気味になってきた名和をなだめて着席させる。
照れすぎて小動物ほどの大きさにまで縮まってしまっている。
こいつは自分の担任する生徒だし、一種の親バカ然とした感情も手伝ってついつい甘やかしてしまう。
なんというか、こいつを見てると妙に保護欲を駆り立てられるのだ。
「これから頑張ろうな。入部してくれてありがとう」
そんな心にもないことを言ってしまうのは、自分のよく知っている生徒がいてくれるという安心感のせいもあるだろう。
「あ、あぅぅ……。がんばるます……。あ、あ、ありが、ありががががががが――」
壊れた……。
この調子で野球なんてできるんだろうか。
さて、緊張お化けの次は、と。
「んっふふ~」
「……」
「でへへ~」
名和のとなり。
楽しくて楽しくてしょうがないといった様子でニコニコとお行儀よく座っている新田と目が合う。
ま、こいつはここにいる全員と面識があるはずだし、最後にまわそう。
「3年A組、北条楓〈ほうじょう かえで〉です。野球にはあまり明るくありませんが『日々精進』を目標に精一杯頑張りますので、どうぞ皆さん、よろしくお願いします」
はきはき。しゃきしゃき。ペコリ。シャララララ~ン。
「お、おぉ……」
これは!
なんというか、すごくまともだ!
礼儀正しいし超絶美少女だし、言うことないな! なぜかSE付きだし!
「――スリーサイズとパンツの色も是非聞きたい!」
「りっくん、鼻息すごい……」
「え、えっと、それは……」
俺の紳士的な要求に対し困惑し口ごもる北条。
うん、この子間違いなく常識人だ! よかった……。
「センセー! ハァハァ……、楓先輩が困ってるですっ。あんまりえっちな質問しちゃダメですっ。ハァハァ……」
と、なぜか新田が手で鼻元を抑えつけながら飛び跳ねんばかりに起立した。さっきまで大人しく腰を下ろしていたはずの椅子が後ろに吹っ飛ぶ。
「ひ、ひなせちゃん、りっくんより息荒い……」
「いいですかセンセー!」
両手机バーン!!
「――楓先輩はこの学園内、いや、この県内では知らぬものなしっ、泣く子も黙るミス・パーフェクトなのですよ! 成績表はおしなべて5! 既に某超有名国立大学への進学が内定! 容姿完璧、性格完璧、スタイル完璧、頭脳完璧、運動神経完璧の、オールパーフェクトな天才でありこの麓原学園のアイドルでありシンボルでもあるです! だからそんな野暮なこと訊いちゃダメですっ! 楓先輩はみんなのお姫さまであり、女王さまであり、女神であり、聖母であり、聖処女であり、希望であり、夢なのですよ! だからスリーサイズやパンツの色とかそういうのは読者の皆さんの数だけあるです! 理想の楓先輩像を各々方に自由に脳内補完してもらうべきです! 型になどはめてしまってはいくないですっ!」
新田よ、どこへ行く! 背後に波しぶきが見えるぞ!
なにやらトランス状態に入っている模様。
鼻にあてがったその手の指の隙間から、赤い液体が染み出している。
「だ、だいじょうぶか新田。てかおまえ言っていいことと悪いことが……」
「ひ、ひなせちゃん、鼻血が……。だいじょうぶ?」
先輩も心配そうだ。
「……」しゃららら~ん。
トランスひなせからの大絶賛を浴びた当の北条も、目を丸くして驚いている。
ただ驚いてるだけでもSEが付いてくるとは、さすがは県下随一のお嬢様学校のエース……!
「ぜんっぜんへーきです! むしろ楓先輩の素晴らしさを語るのにこの程度の出血では釣りあわないですっ! ハァハァ……」
ちらちらと北条のほうを横目に伺いながらも、決して直視しようとはしない新田。
これまでのどんな変人にも増して変人である。
――あ、あの、新田さんっ。
見るに見かねた北条が席を離れ、新田の元へと近づいていく。歩くたびにバラの花びらがふわふわと舞い散った。
「私なんかのことたくさん褒めてくれてありがとう。でも、私だってまだまだ未熟な人間よ? だから野球というスポーツを通じて素晴らしい経験をいっぱいしたいと思っているの。一緒に頑張りましょうねっ」
キラキラキラ……。そんな効果音をどこか別の次元から発しながら穏やかにそう告げると、麓原のミス・パーフェクトは純白のハンカチを差し出して天使のように微笑んだ。
う……、かわいい……。
北条楓、恐るべし。
「にゃぎひうぅっ!」
だが鼻から噴き出す真紅のアーチを中空に描いて、新田はそのハンカチを握りしめたまま気絶した。
「うーん……うーん……。まぶ……し……」
「ひ、ひなちゃんっ……?」
隣の名和が大慌てだ。おまえ、返り血浴びてるぞ……。
「た、大変っ! すぐ保健室に連れて行かないと!」
北条が狼狽した様子で、『にゃぎひう』という謎のダイイングメッセージを残したまま昏倒してしまった新田を抱き起こそうと駆け寄る。
どうやら新田が倒れてしまったのが自分の魅力のせいだとは気づいていないらしい。
「北条! いいからいいから。新田はおまえのファンみたいだ。これ以上おまえに優しくされたら出血多量であの世に逝きかねない」
自己紹介なんかで死者を出すわけには行かない。
俺は目を合わせない(可憐すぎて俺の腐った目が溶けてしまうから)ままに北条を制すると、代わりに、新田を保健室へ連れて行ってもらうよう花織先輩にお願いすることにした。
「すいません、先輩。俺はこの血を始末しますので……」
「ううん、だいじょうぶ。ひなせちゃんのことは任せてっ」
「すみません佐々木先生。よろしくお願いいたします」
新田を抱きかかえた先輩に向かってビシッと頭を下げる北条。そんな姿もまた、つつましく咲くしだれ桜のように美しい。
「はうううううっ!」
そしてそれを間近で見た先輩もまた、新田を抱きかかえたまま間抜けな断末魔の叫びをあげて倒れてしまった。
「…………」
「あ…………」
まるでメデューサだな。
「ボ、ボクも倒れたほうがよさそうな流れです……」
「冗談はよしてくれ、名和……」
なんて部だ。
早くも先行きが不安で仕方がない。
今からでも監督の話をなかったことにはできないかと、割と真剣に考える俺であった。