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生臭い臭いを放つ排水溝が流れ、僅かに人が身体を横向きにすれば通れるような路地。
夕闇に混ざるようにして歩いていたのに、特徴的な制服を着る人間たちに見つかってしまって潜り込んだ。
「臭いな」
「我慢しなさいよ」
シっと彼が人差し指を口の前に立てて声を殺すように指示する。
真横を制服の一団が歩いていく。
冷や汗と緊張から来る鼓動で、ごくごく僅かな時間のはずなのに長い長い時のように思えてくる。
目線を表の広い路地に向けていて、もしも誰かに見つかったどうしよう。
そう思うと、目線を下に向けたまま顔を上げることもままならない。
あ……。
どうせお店で食事なんか出来ないからと買ったパンの袋を手に持っていたことを思い出す。
何となくなんだけれど、このすごい臭いが移ってそうで、後でこれを食べるのかと思うと陰鬱な気分になる。
おいしそうなのを見繕ったのに、意味無いよ。
じーっと視線を紙袋に向けたままでいると、ポンと肩を叩かれる。
「行ったぞ」
見上げた彼は、鼻と口元を自分の手で覆っている。
「この街、下水処理が適当すぎる。不衛生だから疫病が流行りやすそうだ」
冷静な判断をありがとう。でも今はそんなのいらないのよっ。
「それよりも今晩どうするの? 差し当たって、これ、私食べる気しない」
手に持っている袋を見せると、彼も顔をしかめる。
「そうだな。俺もちょっと無理。食べ物はあまり粗末にはしたくないんだが」
眉をひそめたままの彼が路地を少し進んだところにいる野良猫の集団を指差す。
「貢いで来い」
「何で命令形?」
質問に対する回答は無い。
仕方ないので排水溝に落ちないように気をつけながら、野良猫の集団のいるところを目指す。
近付くと蜘蛛の子を散らすように猫たちは逃げていってしまい、しょうがなくたむろしていた場所にパンの袋を口を開いて置く。
遠巻きに見ている猫たちが、きっと後で食べてくれるだろう。
猫が食べなくとも、鼠も足元を走り回っているし、確実に明日の朝までには処理されそうだわ。
再びゆっくりと路地を戻って彼のところまで行くと、彼はしかめっ面のまま周囲に目を配っている。
「いる?」
問いかけに彼が首を横に振る。
「ただ見えないところに隠れているかもしれないから、今出るのは得策ではないな」
路地にもたれかかっていた彼がこちらを振り返る。
「裏から抜けられそう?」
ついさっき見た光景を説明する。
「この先がちょっと広場みたいになっていて、他に抜けられそうな路地が何本かあったよ。ただねえ」
否が応でも、あの場所を抜けなくてはいけないわけで。
「何だ?」
「うーん、ちょっとどころでは無く鼻が曲がりそうなところを抜けないといけないよ。汚泥が溜まっていて溢れている箇所があって、そこは踏み越えないと進めないと思う」
深呼吸する事すら躊躇われるような悪臭なので、溜息をつくにも天を仰いで少しでも綺麗な空気を求めてしまう。
同じように溜息をする彼が、天を仰ぐ。
「それは避けたいな。しかしどうしたもんか」
建物に背を寄りかからせ、腕組みをしたまま彼が唸り声を上げる。
何でこんな事になったかというと、事の発端はやっぱり卑劣男(この国の第7王子)を怒らせたことなのよね。
ちゃんと妃にはならないって断っただけなのに、自分の脳内で描いた策略どおりにいかないからってこの仕打ち。
暢気に下船して港町を歩いていたら、職務質問。
で、曖昧に答えたわけよ。本当のことは言えないじゃない?
例えば彼が隣国の王子だとか、なんてこと。
そうしたら不審者扱いされて。国籍不明の侵入者ってでっち上げられた。それには絶対裏にあの卑劣男がいるのよ。
だって、職務質問だってなんだか難癖つけるだけの感じだったもの。真っ当な職務をしているようには思えなかった。
荷物の大半は、彼が信頼していると言っていた貿易商に預けてあるからいいんだけれど(悪目立ちしそうな正装とか、やたら派手な着替えとか)、問題は帰りの船に乗れるかなのよ。
今回の旅には期限があることは彼から説明された。
彼に使える時間は3ヶ月しかない。
そのうち2ヶ月は船での往復に使われてしまう。
本当なら残り1月をこの国で使うつもりだったらしいけれど、卑劣男に出くわして、彼の計画は変更を余儀なくされた。
明後日に出る、例の貿易商の出す船に乗って、とんぼ返りする事になった。
けれど、そこは卑劣男が邪魔しに来たわけよ。
船に乗れないよう邪魔しているのか、それとも一気に国家安全を揺るがす侵入者として指名手配中だからかしら(それもあの男の謀略だと思うけれど)、乗りたい船に一切近づけない。
乗ってしまえば、そこはある種治外法権みたいなものだと彼が言っていた。
国籍の違う国の船を家捜しするのに、あんな小者の王子が策を巡らそうとも不可能だと。
けれど近づけず、逃げ続ける日々。あと2日以内に何とかなるかしら。
夜中ならいけるかも? と思っても、船の傍で寝ずの番をしてくれる素敵な制服さんたち。
その制服を着ているのが、果たして警官なのかそれとも軍なのか。
それすらも私たちにはわからないので、どう動くのが最良なのかわからない。
彼に聞いてみた。他の港からは船は出ていないのかと。
答えはここだけしかないという絶望的なもの。
だからこそ、卑劣男はここに閉じ込める事に必死になっているらしい。
「表に出る為には、やはり変装しかないか」
ポツリと彼が呟く。
「お前、どうやったら風貌変えられる?」
唐突な彼の質問に首を傾げると、指を指される。
「目の色とか」
ああ、本来の目の色に戻せるかどうかって言っているのね。
「一度戻しちゃったら、死ぬまでそのまま変えられないよ。今の色はまやかしを使っているだけだから」
「そうか。なら止めておくか」
腕組みをしたままの彼が、じーっと私を見る。
「なら、化粧落としてみようか」
にやりと笑う彼は、まだまだ全然余裕っぽい。何で逃げ回っているのにそんなに楽しそうにしているの。
非日常を楽しんでいるのかな。でも楽しめるような事態じゃないわよ、これ。
そもそも、化粧なんて。
「ここでどうやって落とすのよ。それにスッピン晒して歩きたくなんか無いわよ」
ぷっと彼が笑う。
「眉が無くなるから?」
むっとした顔で彼を見ると、くくっと彼が笑って身を捩る。
「こんな暗がりじゃ見えないって。それに誰もお前の事ばっかり見てるわけじゃないんだから、気にすんなって」
「あなたが気にしなくても、私は気にするの! 何で男ってこう無神経なのかしら」
夕闇を背に、彼が外向きの穏やかな笑みを私に向ける。何、企んでるのかしら。
「化粧なんかしなくたって、お前は魅力的だよ」
極上の笑顔と一緒に吐かれたセリフにクラクラする。
どうせ心底そう思っているわけじゃないってわかっているのに、その笑顔にやられそうになる。
持ちこたえるのよ、私。
「心にも無い事を」
ドキドキを封じ込めて彼のほうを見ずに答えると、彼の手が頬に触れる。
「本気だって。だから、とりあえず化粧落として化けてみよう、な?」
結局そこに繋がるのね。
あーあ。やっぱりドキドキし損だったわ。
「だからね、お化粧落とすっていっても、洗顔料も水も無いこの場所でどうしろって言うのよ」
目を丸くして、彼が何度か頷く。
「ああそうか。そんな事考え付かなかったな」
「……バカ」
もうヤだ、この人。頭抱えたい気分になってくるじゃない。でも抱え込んで前のめりになったら排水溝に落ちそうだからしないけど。
代わりに努めて冷静に冷静に。
「それよりもあなたが変装すればいいじゃない。男女の二人組で追われているんだから。ああ、そうだわ。その手があった」
ニヤリと笑うと、彼が冷ややかな目で私を見つめる。
「やらないよ」
「まだ何も言ってないじゃない」
微笑んで彼を見ると、彼の目が冷凍光線を発している。
「大体わかる。それこそ俺にここで着替えろと? 不可能だろ」
「だから、奥の野良猫の集会場所で」
「い・や・だ。絶対しない」
「きっと美人だよー。お化粧もちゃんとしてあげるし。ワンピース着ろなんて言わないから」
ポコンと頭を小突かれる。
「入るか! っと、大声出しすぎたな。変装案はナシにしよう」
「女装したくないからって。名案なのに」
もう一度ポコンと、さっきより強く叩かれる。痛くは無いけれど。
「あのな、そんなの知り合いに見られたら、俺の威厳台無しだろ」
「……あったんだ」
ポソっと呟いたつもりなのに、彼に思いっきり睨まれる。
「冗談じゃない。そんなに怒らないでよ。いつも私のことからかって遊んでるんだからお返しよ」
ふーっと二人同時に溜息をつく。
それがおかしくて顔を見合わせると、今度は同時に頬が緩む。
「冗談言える余裕があるなら、まだまだ大丈夫だな」
頬に触れた手が、くいっと顎を引き寄せる。見つめあったのは一瞬だけで、彼の唇が頬に落ちてくる。
「色々面倒に巻き込んで悪いな」
チュっと音を立てて唇が離れると、彼は普段の彼からは想像つかないような覇気のない口調で話す。
「ううん。大丈夫。こんな経験なかなか出来ないから面白いよ」
本当に心底そう思っているわけではないけれど、そう言えば彼の気持ちが少しは軽くなるんじゃないかって思ったの。
それをどう捕らえたのか、彼はうっすらと笑みを浮かべる。けれど妙にそれが儚い。
「ありがとう」
短い言葉に首を横に振る。
そうね、まさか「一緒にいよう」という決断が、こんなオオゴトに発展するなんて思ってもいなかったわ。
大事というか大事件?
あまーい婚前旅行のはずが、船では卑劣男に嫌がらせを喰らうし、降り立った地では逃げ回ることになるし。全く想像もしてなかったわ。
そりゃ、穏やかに全てのことが進むなんて思っていなかったけれど、これはそういうレベルじゃないわ。想像の範疇を超えすぎ。
だけれど不思議と嫌じゃない。
卑劣男に絡まれたりすれば嫌だし、今まさにこの場所の臭いも耐えられないと思うけれど、だからといって彼と一緒に過ごす時間は嫌じゃない。
こうやって一緒に逃げ惑っているのも、なんだかちょっとだけ楽しかったりもする。
実際には楽しいなんて言っていられない状況なのは、重々わかっているけれど。
だって二人で何かをするって事、今までなかったんだもの。
この何とも言えない連帯感と高揚感。
私たちの間には今まで生まれなかったものだわ。
ただ実際にはそんな暢気なこと思っていられる状況じゃない。
もしも彼が捕まったら……どうなってしまうのだろう。
いつかは彼の本当の身分がばれてしまう日がくるのだろう。それはそれで大問題を引き起こしそうだけれど、もし国籍不詳の密入国者として取調べなんてされたりしたら。
彼の本来いるべき国に比べて、色んな部分に粗野な面が見られるこの国でどんな扱いを受けるのか。
「せめてお前だけでも逃がしたいんだけどな」
溜息交じりの発言に顔を上げると、彼が私の頭を撫でる。
「あんなのにお前が捕まった後、何されるかと思うと、気が狂いそうになる」
瞳には心配の色が浮かんでいる。
「だけど預ける先も無い。それにお前の姿が見えないと、俺のいないところで何かあるんじゃないかと不安で堪らなくなる。ごめんな、無理させて」
「大丈夫。私は大丈夫だから。上品な暮らしよりもこういう街でも暮らしのほうが私の人生の基本にあるわけだしね」
「そういう事を言っているんじゃないよ。本当にお前は」
言い淀み、彼は黙ってしまう。
目を細めて私を見るだけで、何も言おうとはしない。彼は心の内でどんな言葉を飲み込んだのだろう。
「とりあえずここにずっといても鼻が曲がる。出よう」
排水溝に落ちないように私のことを支えてくれる彼の手を握り、臭気垂れ込める空間から解放される。
行き交う人々に紛れ、何も無かったかのような顔をして幾つもの路地を曲がっていく。
どんどん潮の香りが強くなっていく。
もしかしたら誰もいないかもしれないと祈りながら、大型商船の停まる船着場の方へと目を向ける。
相変わらずの厳重体勢。
思わず溜息をつくと、彼に背中をポンと押される。元来た道を戻るよという言葉の変わりに。
歩きながら、なるべく人が多くて繁盛している飲食店を探す。
さっき猫に与えてしまった代わりの食事を探さなくては。
一番大きな通りはさすがに目に付くかもしれない危険性もあるので、それより少し小さな通りで。
それでも雑多な大通り。
たくさんの商店が軒を並べ、どこもかしこも活気に満ち溢れている。
その中の一軒に目が留まり、彼の腕を引きながらお店の中へと足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
威勢の良い声に出迎えられ、満面の笑みを浮かべる。
不思議そうにする彼に目配せして、背伸びしてこそっと耳元で囁く。
「変装じゃなくて、変身するの」
丁度空いていた一席に通され、彼はそのまま店内のソファに腰を下ろす。
「どうなさいますか?」
鏡越しに店員が聞いてくる。
「ばっさりいっちゃって下さい」
鏡の向こう側の彼と目が合う。もしかしたら切らないほうがいいのかもしれないけれど、そのほうが良いと思うんだ。
「田舎のほうでは長いほうが流行っていたけれど、こっちではみんな短くしているから短くしてみたいんです」
口から出任せだけれど、見たところ短い髪をしている人が多いから、この辺りではそれが流行しているんだろうと思っていた。
実際、鏡の中の店員もものすごく短い髪を無造作に散らしている。
「わかりました」
短い返答の後、大分長い間伸ばし続けていた髪がばっさりと切り落とされていく。
まるで興味なさそうな顔でいる彼だけれど、その心中はいかばかりなんだろう。後で怒られるかな。
それでも今私が出来うる範囲の事といったら、このくらいしか無い気がしたの。それで彼が助けられるなら、髪位安いものでしょ。
出来上がりはまるで少年のようで、予想したとおりの出来だった。
彼に視線を送るけれど、頷くだけで何も発しようとはしない。
こういう時って、何か言って欲しいものじゃない? 似合うとか似合わないとか。可愛いとか可愛くないとか。
普段ならふんだんに甘い言葉を言う彼が、恐ろしく無口なまま会計を進めている。
もしかして、怒ってる?
店を出て歩く彼は決して早足ではないけれど、隣に並ぶ事を拒絶するかのような速度で斜め前を無言で歩く。
居心地の悪い時間に耐え切れず、彼の腕を掴む。
「どう?」
なるべく明るく問いかけたのに、冷ややかな視線と声が返ってくる。
「何が」
「だから、髪」
笑顔で聞いたのに、彼は思いっきり顔を顰める。
「そこまでして欲しいなんて、俺言ってないだろ」
やっぱり怒ってるんだ。
「でもこれなら男二人に見えるかもと思ったんだもの。服を変えれば」
はあっと思いっきり溜息をつき、彼が立ち止まる。
「あのさ、そういうの嬉しいと思った?」
「え?」
「俺はお前を守りたいの。お前に守って欲しいわけじゃないの。それに一人で勝手に決めんなよ。そういう大それた事する気なら、事前に一言相談しろよ」
彼の怒りが、私の怒りに火をつける。
「守ってなんて言ってない。一緒にいるって肩を並べて歩く事じゃないの? だから私は私で出来る事をするのよ」
「他にもあるだろ。出来る事なら」
吐き捨てた彼の頬を両手で引っ張る。
「女装させる事? 化粧させる事?」
「そうじゃなくって」
むにっと掴んでいた指を払いのけられると、余計に怒りが増してくる。顔を掴んだ私がいけないのかもしれないけれど。
「俺はお前に何かを犠牲にして欲しいなんて思ってない。もうちょっと自分を大切にしてくれ」
「髪くらい、また伸ばせば良いよ。飽きてきた頃合だったし」
多種多彩なまとめ髪とかはもう出来ないだろうし、もしかしたら彼の隣に並ぶのには長髪のほうが見栄えがいいのかもしれないけれど。
「その代わり、あなたにも変わって貰うよ。まさか自分だけ美しく終われると思ってないよね?」
にっこりと笑うと、彼が眉をひそめる。
「何をさせる気だ」
「化けるのよ。思いっきりね」
女装も化粧も、まだ諦めてないわよ。一番手っ取り早い方法だもの。
男女の二人組で追われているから、男二人組に化けてもいいし、全然印象の違う男女に化けても良い。
怪しまれずに船に乗り込めれば、それでいいのよ。
この際手段は選んでられないわ。
心の中で意気込んでいたら、彼が対外用じゃない優しい笑みを私に向ける。
「お前には敵わないな」
頬を撫でられたかと思いきや、あっという間に彼の指が首筋や耳を這い回る。
くすぐったさに身を捩ると、彼がくすくすと笑い声をあげる。
「まあこういうイタズラはしやすくなったから、それでチャラにしてやるよ」
ぞわぞわっという鳥肌の立つ感触に耐えつつ彼を睨むと、あっという間に腕の中に攫われる。
首、耳、頬と自在に指や舌が這い回る。
「……くすぐったい」
身を捩って抵抗しようとすると、ペロっと首元を撫でられる。
「このアザが目立たないような服を着ような」
そういう問題じゃないでしょ。往来のど真ん中で何してんのよっ。一応私たち逃亡者で指名手配犯なのよ。これ以上悪目立ちしてどうする!
その夜、彼に聞いてみた。
「ねえ、この髪型どう思う?」
「ちょっかい出しやすくていいよ」
「そうじゃなくてー」
不満を漏らす私に微笑み、彼が短くなった髪の毛に触れる。
「可愛いよ。これはこれで好きだな」
あっさりと言い放つから、顔から炎が噴き出した。
そんな事言われると思ってなかったから。
「ただ長いほうが触り心地がいいな。また伸ばして」
笑顔交じりで言われたら、絶対に断れないじゃない。早く伸びてなんて思っちゃうよ。




