先に出会うことも出来なかった男の、恋にもならなかった話
不器用な恋物語ですむ程度の話だった。
魔獣が跋扈する外の世界を転々と過ごしてたどり着いた親子と、とある村の地主。親子は定住する家が欲しかった。地主は魔獣への対抗手段が欲しかった。利害が一致した両者は、家の提供と魔獣の撃退手段を交換した。
地主の息子と、訪問者の子供は二人とも魔法使いだった。魔獣への唯一の対抗手段である希少な魔法が使えるとなれば、地主は尚更親子を手放すまいと世話を焼いた。奇遇にも地主の息子・ロルフと訪問者の子供・リゼは、似たような魔法が使えた。それを知った地主は親子に取り入ろうとロルフの背中を押した。
同じ年頃、似たような魔法、親からの根回し。
だがそんなものがなくても、ロルフはリゼを気にかけていた。
魔獣が好む血の色と同じ、真っ赤な髪、真っ赤な瞳のリゼを初めて見た時。不吉の象徴であるはずの赤がこれほどまでに美しい色なのかと、心臓が飛び跳ねた。
「初めまして。私はリゼ! あなたのお名前は?」
夜に佇む月が話しかけてきたと勘違いするほど、その声は涼やかで優しく耳に染み込んだ。
「……ロルフ。ロルフ・リヒターだ。よろしく」
赤い瞳に見惚れて、ロルフは自分の名前なのに口篭った。
だがリゼは赤い瞳を細めて歯を見せて笑い、手を差し出した。目を覆うまつ毛まで真っ赤だった。
握った手のひらは、ロルフと同じぐらいマメだらけで固かった。すでに髪や肌や爪を気にかけ始めている村の女の子たちよりも硬くてザラついている。剣を握っている人間の手だ。
その手が熱くて仕方がなくて、ロルフは自分の手が火傷したと思った。理屈ではそんなことないと知っていても、感覚器が誤作動を起こしたように手が痺れた。
親に何を言われるまでもなく、ロルフはリゼの家に足繁く通った。幸い、通うだけの理由は山ほどあった。
リゼの父・ハーヴィーに魔獣の生態を教わるのを口実にした。リゼと一緒に剣術の稽古をつけてもらいに行った。村の収穫祭の決まり事をリゼに教えるためとリゼを連れ出した。家の物置に保管されていた骨董品の銃を『秘密だ』だのなんだの言って勿体ぶって見せたりもした。
いつもノアという引きこもりが、リゼにだけは付き纏ってきたがどうでも良かった。二人はただの親友であるようにしか見えなかったし、リゼと親しいのは自分だと信じて疑っていなかった。
少し成長して、身体が大人に差し掛かったとき、ロルフは夢を見るようになった。
夢の中では決まってリゼの血を目にした。
魔獣が好む色。リゼの髪や瞳と同じ、美しい赤色。
自分の手のひらに広がったそれはどんな宝石より美しくて、思わず口付けるとどんな果実よりも甘かった。
全身を血で染め上げたリゼは美しいドレスを身に纏っているようで、ロルフは痴呆のようにそれをただ眺めていた。
「……うわッ!?」
飛び起きて真っ先に自分の手を見た。
甘い血の香りも、宝石のような血の輝きもない。見慣れた、荒れた自分の手だった。
そのことにロルフは安堵して
「……ゔぅ、」
夢を甘美だったと惜しんだ自分を嫌悪した。
夢は一夜で終わるどころか、毎夜ロルフを誘っては、朝に苦しめた。
夢の中でロルフは何度も泣き喚くリゼを抑え込んで剣を突き立てた。いつもの稽古の延長線だなんて言い訳がつかないほど追い詰めて斬りつけた。他の村人を切っても良いんだと脅したこともあった。
夢の中でリゼはいつも泣いていた。そんな泣き声さえも心地よいものだと夢の中のロルフは考え、朝起きた現実のロルフは耳に残る声を振り払おうとした。
「なんか最近のお前気持ち悪いぞ。いちいちリゼを睨むなって」
「やかましい。睨んでなんかいない」
とうとう、ひきこもりだったはずのノアに指摘されるぐらいに、夢はロルフを追い詰めた。
昔は家にいるか木陰で本を読んでいることしかしていなかったノアは、いつのまにか外で元気に走り回るようになっていた。
リゼに付き纏っているのはいつものことだが、常に周囲の顔色を窺っては無駄に噛みついていたころよりは随分と大人びた雰囲気を纏っていた。なんでもこの村で一番最初にリゼの活躍を見たのは自分だと言って憚らず、さらにはリゼを主人公とした小説を書くなどと嘯いている。
リゼと出会ったことがノアにとって良い方向に働いているのは明らかだった。
それと比べて、自分はどうか。
「負け越したからってリゼに必要以上に突っかかるなよ! 筋肉ダルマめ!」
「ぶん殴ってもいいんだぞ」
「……ちょっと聞いてよリゼぇ!! またロルフがぁ!!」
「ノアがなんかバカなこと言ったの? 早めに謝っておきな?」
「なんで僕が悪い前提で話すのさ!!」
木刀を素振りするリゼと、その隣で好き勝手に本を読んだり何かを書いたりしているノア。一見ノアはリゼを邪魔しているようにも見えるが、リゼはノアが何かいうたびにケラケラと歯を見せて笑っていた。
いつもの笑顔だ。
夢で見た泣き顔の面影なんてない。
それに酷くロルフは安堵した。
「ノアがなんか言ってたの、気にしないでね」
素振りを終えたリゼは汗を拭きながら笑った。いつの間にかノアはいない。また何か思いついたか、紙かペンがなくなったか、それとも飽きたのか、よくわからないやつだ。
だがいないノアのことよりも、ロルフはリゼの髪に見惚れた。
鍛錬で乱れた赤い前髪を指先で撫でて整える。ロルフから見ればそう変わりはないように見えるが、リゼはいつからかそうやって前髪を気にする癖があった。
風がリゼの前髪を撫でて、結い上げた長い髪を巻き込んで遊んでいく。
いつものくせで、ロルフはそれを目で追いかけて、赤い髪の端に小さな埃がついていることに気づいた。ロルフはほとんど無意識に、手を伸ばして髪を掬っていた。
長い髪は指通りがよく、あっという間に指からこぼれ落ちて埃だけが手に残った。
————この髪を思いっきり掴んだら、楽しそうだ。
そんなことを一瞬だけ考えた。
「あ、えっと……ロ、ロルフ……?」
赤い髪から覗く耳は真っ赤だった。よく見れば首すじも火照ったように赤い。
戸惑うように揺れる赤い瞳は、ロルフを映していた。
「……埃がついていた」
「あ、そ、そっか! ありがとねあはは」
「いるか?」
「いるわけないでしょ、何言ってんの」
ノアと何か言い合っていた時と同じようにリゼは白い歯を見せて笑った。
その夜の夢は酷かった。
甘ったるい血の匂いが充満する中で、ロルフはリゼを抱きかかえていた。腱を切ったリゼの足からはとめどなく血が流れて、痛みから腕の中のリゼは震えていた。
なのに夢の中のロルフは、リゼを固く抱きしめたまま傷口を弄った。腕の中でリゼが暴れて泣き喚き、逃げようとする。痛みのあまり気絶すれば、また少し傷口を広げて無理やり起こす。自分に媚びてでも苦痛から逃れようとするリゼの額に口付けて、またロルフは血だらけの足に爪を立てた。
リゼが悲鳴を上げる。涙で潤んだ赤い瞳は美しかった。
眠りはあまりに心地よく、目覚めは筆舌に尽くし難いほど凄惨だった。
「……ゔううう……っ」
頭に爪を立てる。髪が抜けるのも構わないほど乱暴にロルフは皮膚を掻きむしった。
リゼを見るたびに愛おしいと思う。強くて勇ましいリゼが好きだ。赤にまつわる他人の揶揄なんて気にしないで笑っているリゼは、何よりも美しい。その思いに嘘はないはずだ。
なのにどうして自分はこんな夢を見続けるのか。なぜ普通にリゼを慈しむ夢が見られないのか。
どうしてこんなに夢に欲情してしまうのか。
リゼを十何年もそばで見続けたのだから、リゼの仕草の意味をロルフは分かっていた。
だが。
『いちいちリゼを睨むなって』
リゼを見るたびに夢を現実にするのが怖くて、一歩踏み出すのが遅れる。無意識にリゼに伸びた手がいつリゼを苦しめるのか想像してしまう。
夢で酷いことをすればしただけ、償いのようにリゼを気に掛けたつもりだった。だがいつも夢を現実にしてしまうのではないかと、ロルフは怯えていた。
それでも。
悪夢でも、長く付き合えば踏ん切りがつく。
ノアが有名な作家に会いに行くのに、リゼがついて行くのを見送ったのもあったのかもしれない。
揺れる赤い髪がどんどん遠くなっていくのが網膜に焼き付いて、夢にまで見た。追いかけたいと思った。
やっとロルフはリゼに自ら手を伸ばす決心がついた。
リゼを追いかけて、そして思いを伝えて。
もし、もしもリゼが同じ気持ちであってくれたなら。
そうでなくても、いつもみたいに笑ってくれたら。
そんなありきたりな、ちょっと不器用で面倒臭い男の恋物語になるはずだった。
リゼが魔獣と戦って死んだことを聞かされるまでは。
——————————————————
「————っ!!」
俺はもたれかかっていた木から飛び起きた。森で過ごす習慣で最初に周囲を見回す。
暗い森に魔獣の気配はなく、フクロウが静かに鳴く声だけが響いている。差し迫った命の危険はない。
それに安堵してから、自分の手を見下ろした。いつもの夢の中で真っ赤なリゼの色に染まっていた手は、今は何もついていない。マメとタコで荒れた見慣れた俺自身の手だ。
そして視線をさらに下に降ろす。
「……くそッ」
自分の欲を認めたくなくて、何も見たくなくて、俺は顔を覆った。
夢に逃げたい。夢の中でならリゼがいつものように元気に笑っていて、いつものように前髪を気にしていて、いつものように俺と手合わせをしてくれる。
そんなリゼに俺はうまく笑い返せなくて、リゼの髪についたものをとる振りをして、リゼの赤を目で追って。
————リゼを傷つけて、あの赤を全身で浴びることを夢見ているんだ。
「ぐぅ……ぅ、うぅ……」
頭を掻きむしる。
『痛いよ』
少しも痛くない。こんなのじゃ足りない。
『痛いよ』
指先が濡れる。それでもまだ足りない。
だって、だってリゼは。
『痛いよロルフ』
夢の中でもっと苦しんで痛がってた。
俺はいつもそれを聞いて、喜んでいた。
リゼが死んだと聞いたとき、俺を襲ったのは哀惜と失望と安堵だった。
リゼが死んだという悲しみと。
リゼを殺せなかったという絶望と。
リゼを手にかけないで済んだという安堵。
自分の中にそんな想いが本当にあったことを思い知って、自分を心底見損なった。
毎夜見る夢は、若気の至りだと思いたかったのだ。
俺は地主の息子だ。両親はハーヴィーさんに俺の不在中の魔獣の対処を金を積んで頼んでまで、俺を送り出してくれた。
親として尊敬できる、素晴らしい人の間で正しく育てられた存在だ。
「こんなものが、愛なもんか」
なのに、俺はリゼの死を知って。自分の手でリゼを最後まで傷付けられずにいたことに、もう2度と傷付けることができないことに、何よりも絶望した。
一度死んでしまえばもう殺せない。死体から流れる血は美しくない。
そう思ってしまった。
「こんなものが、恋なもんか」
いつのまにか指が赤く染まっていた。
鎧とも違う鉄の臭いが鼻をつく。
リゼと同じ赤、血の色。
グルルルルル……
魔獣が好む色だ。
「……はは、」
喉から乾いた笑いが漏れた。
血に塗れた手を拭うこともしないで剣を握る。魔獣を相手にする上では禁忌も禁忌だが、いまはそんなことはどうでも良かった。
グオォォォ!!
唾液を纏った鋭い牙が襲いかかる。魔法を使えない人間であれば致命傷になるであろう飢えた牙。
だが魔法使いの俺からすれば、あまりに直線的で分かりやすい動きすぎた。ただ、剣を差し向けるだけで十分だった。
ギャウンッ!
ほんの少し切り上げただけで、血に酔っていた魔獣の腕は吹き飛び、あっさりと地面を転がった。タールのような血液があたりに飛び散り、蒸発する。
「……なあ」
致命傷を負ってもなお動く魔獣の首に剣を突き立てる。白く濁った瞳に血を翳してやると、魔獣は死にかけのくせに瞳を爛々と輝かせた。
まるでリゼの髪をずっと追っていた俺の目のように。
ごぽ、
何かに応えるように魔獣の喉が詰まったような音を立てた。言葉を話す魔獣など聞いたことがない。発声器官すら人間と異なるのだから、その問いは無駄だと知っていた。
だが口は勝手に呪詛を吐く。
「赤い血を好むお前らと、リゼの赤をなによりも美しいと思う俺とで、なんの違いがある」
魔獣の喉が鳴った。喋れたんだろうか。
「リゼの血を夢見続けた俺は、魔獣なのか?なあ」
「惚れた女の血を望むことしかできなかった俺は、お前と同じ魔獣じゃないか」
魔獣はとっくに事切れていた。
食事として欲するものは違うが、構造は獣と同じだ。首が離れれば魔獣も絶命する。
俺も、首が離れれば死ぬ。
じゃあリゼへ抱いていたこの思いは、食欲だったのだろうか。
きっとそうだ。
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