公衆の面前で婚約破棄? 貴族社会の建前がダルすぎるので素でいきます
きらびやかなシャンデリアの光は、いつもわたしの網膜をひどく疲れさせた。分厚いベルベットのドレスに身を沈め、意味の空洞をきれいに飾り立てたような言葉を、互いに投げ合う。
「素晴らしいお召し物ですわね」と言えば「派手すぎて下品だこと」の裏返し。「ごきげんよう」の響きひとつでマウントを取り合い、誰もが決して本音を口にしない。言葉の裏の裏を読み、扇の角度ひとつで派閥の意思を示す。そんな回りくどくて、ねっとりとした「あたりまえ」の礼儀作法。
公爵家の長女として生を受けた私は、血の滲むような努力で完璧な令嬢の皮を被ってきたけれど、私の魂の根っこは、どうしてもこの陰湿なポーズを受け入れられないままでいる。
扇の角度で機嫌を伝え、天候の話に政敵への皮肉を混ぜ込み、何一つ本音を口にしないまま微笑み合う。この世界の「あたりまえ」。
けれど、内側にある何かが、どうしてもその当然の呼吸を拒絶し続けてる。コルセットで締め上げられた肋骨の下で、私の魂はずっと、この回りくどい茶番劇に悪態をつき続けていた。
本音を言えば、重たいドレスは肩が凝るし、コルセットは息ができないし、意味のない牽制のし合いはマジでダルくてしかたがないのだ。
そんなわたしの目の前で、いま、声の大きい男が叫んでいる。
「公爵令嬢セシリア! 貴様の悪逆非道な振る舞い、もはや看過できん!」
王太子の声だった。よく響く、見事なまでの上から目線が今日はひときわウザく感じる。
アレの腕の中には、純真という概念をそのままレースでくるんだような女の子が、可憐な小動物のように震えていた。
怯えたように私を見つめるその瞳に優越感が微かに滲んでいる。最後までちゃんと隠しとけば良いのに。と思う。ほんとうにもったいない。
「ミーアに対する数々の嫌がらせ! 教科書を破り、階段から突き落とし、あろうことか暴漢まで差し向けようとしたそうだな! 嫉妬に狂った醜悪な女め。よって貴様との婚約は、今この場をもって破棄する!」
バカすぎるでしょ。国家の盟約である婚約が、証拠もなしに、ただ一人の少女の涙だけでどうにかなるわけないじゃんか。
この公衆の面前で大声で宣言しようがしまいが、破棄の成立にはこれっぽっちも関係ない。
ビシッ、と王太子が私を指差している。
周囲の貴族たちが、息を呑んで私を見ていた。どうしてこの人たちは、こんなにも滑稽な脚本を疑いもしないのだろう。
彼らはこのまま、私がどのような「正しい悪役」を演じるのかを想像し待ち構えている。
扇で口元を隠し、「わたくしは、そのようなこと一切存じ上げませんわ。何かの間違いではなくて?」と優雅に、かつ計算高く反論を組み立てる光景を。
そうして弁明する側と証拠を突きつける側の、高度な政治的舌戦がこれから始まるはずなのだ。
でも、絶望するでもなく、悲しむでもなく。
私の胸を満たしたのは、どこまでも純粋で、ひどく冷め切った「呆れ」だった。
「――――てかさー、それマジで言ってんの?」
静まり返った広間に、私の低い声が響く。
それは、鈴を転がすような令嬢の声ではなく。ましてや、公爵家の娘としての威厳ある響きでもない。ただの、心底呆れ果てたひとりの女の素の声。
私はゆっくりと顔の前に掲げていた扇をパチンと閉じると、それを無造作にテーブルへ放り投げた。
ピンと張っていた背筋から露骨に力を抜き、片足にだらしなく重心を乗せる。そして、きつく締め上げられたコルセットを緩めるように、ふうっと深いため息を吐き出した。
「……は?」
王太子の顔が、間抜けに強張る。
広間の空気が、一瞬にして凍りついた。壁際のひそひそ話も、グラスの触れ合う音も、すべてが不自然に止まる。呼吸の度に入ってくる冷たくて重たい静寂が、この場の絶対的な支配権がどこに移ったのかをはっきりと教えてくれた。
王太子は口を半開きにしたまま、呼吸のしかたを忘れたように固まっている。涙を浮かべこちらを正視できないはずの彼女も、瞬きすら忘れて私を見つめていた。
無理もない。貞淑で高慢な公爵令嬢の口から、貴族のプロトコル(礼儀)を無視した、スラムのゴロツキか、あるいは異国の娼婦のような、得体の知れないほど砕けた言葉が飛び出したのだから。
いま広間に満ちるのは、静寂ではなかった。真空だった。全員の思考が、物理的に停止した音だけがする。
「いや、だからさ。マジで言ってんのかって聞いてんの。婚約破棄とか、ウケるんですけど。てか、その子がいじめられたーって媚びて泣きついてきたのを、証拠も裏取りもなしに丸呑みした感じ? 頭お花畑すぎでしょ」
「なっ……! ミ、ミーアがいじめられたという証拠なら……!」
「いや証拠とか今どうでもよくね? 婚約破棄の後始末のこと考えないとヤバいでしょこの状況。
つーかさ、ウチがこの女イジメて何のメリットあんの? マジで謎。教科書破るとか、階段から落とすとか、やり方が暗すぎっしょ。実家の権力フルスロットルでこいつの家ごと社会的に消せば終わる話を、なんでわざわざ私が自分の手ぇ汚してそんなチマチマした嫌がらせすんの?
この貴族社会で、王家と婚約を結ぶ家柄の人間にそんな暇も発想もあるわけないんだわ」
ヒールの踵を、カツン、と大理石の床に打ち鳴らす。
私はもう、泣き真似をする男爵令嬢など見ていなかった。ただひたすらに、目の前の世間知らずな男の知能の低さを憐れむように見つめ返した。
「そ、それは……! 貴様がミーアの愛らしさに嫉妬して……」
「じゃ暴漢雇ってその子の顔に硫酸でもかければ愛らしさとやらは即終わるじゃん。私がソレの容姿に嫉妬したって言うなら、なんでそんな私の前にソレを連れてくんの?
私に危害加えられないようにこの場から逃すべきじゃん? ああ自分に縋ってくるか弱い女の子守っちゃう俺カッケーって? そういう演劇は身内だけのサロンでやってくれない? 巻き込まれるこっちの身にもなってよマジで」
「ひ、ぃ……っ」
男爵令嬢が、ひぐっ、と奇妙な悲鳴を上げた。
彼女の台本には、「いじめていないと必死に弁明する悪役令嬢」しか存在しなかったのだろう。
けれど、言葉の引力を変えただけ。たったそれだけのことで、彼らが用意していた「断罪」という名の安い悲劇は、ひどく滑稽で間抜けなものへと姿を変えた。
いじめたいじめてないの議論になんて、もうなりようがない。彼らの計算も思惑も、私の気怠い溜息の前に、あわのように弾けて消えた。
「お前……正気か……?」
「公衆の面前で王家の恥晒したそっちが正気じゃねーじゃん。あーあ、めんどくさ。慰謝料とか領地の割譲とか、後の処理どうすんの?
ああ、婚約破棄には私は同意するってこと、この面前において宣言しとくわ。お父様たち、あとで超キレると思うけど。とりあえず私、もう帰っていい? てか帰るわ。だるいし」
誰一人として、私を止める者はいなかった。
貴族社会の絶対的なルールである「体面」や「面子」を一切気にしていない私の態度は、この場においてはたまたま最強だった。
王太子と男爵令嬢が用意した劇の舞台は、私が放った理解不能な言葉の暴力によって、完膚なきまでに焼け野原と化していた。
ぽかんと口を開けて立ち尽くす元婚約者たちに、私は最後にひらひらと手を振った。
「とりま、お幸せにー。おつかれっしたー」
私は背を向けた。
ざわめきすら起きない、凍りついた夜会を堂々と歩き去りながら、私は小さく息を吐いた。
きつく締め上げられたコルセットの紐を、ドレスの上から指でなぞる。もう、この息苦しい鎧を着る理由も、扇の角度で機嫌を伺う必要もない。
背後で凍りついたままの豪奢な鳥籠を振り返る気など、とうに失せていた。ただ、カツン、カツンと暗闇の庭園に響く自分の足音だけが、ひどく軽快で、馬鹿馬鹿しいほどに心地よかった。
夜風が、火照った頬を無遠慮に撫でていく。
この飾らない冷たさだけを肺の奥深くまで吸い込み、私は、迷うことなく前を向いた。




