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物語を止める栞、溶けゆく雨

 彼女は、僕の首に回していた腕の力を、ふっと抜いた。僕を包んでいた熱が、剥ぎ取られるように遠のいていく。

 

 

 コタツの上には、二つのマグカップが並んでいる。どちらも彼女が淹れた、砂糖を三本もぶち込んだ激甘のコーヒーだ。

 

 

 彼女は立ち上がると、迷いのない手つきでカップの中身を流しに捨て、再び湯を沸かし始めた。

 

 

 やがて、鋭く、鼻の奥を刺すような苦い香りが漂い始める。

 

 

「……つい、意地悪したくなっちゃって」

 

 

 彼女は、新しく淹れ直したコーヒーを僕の前に置いた。


「……今のあなたは、まだ、この何も入っていない苦いコーヒーの方がいいんだったわね。確かに、その方がお似合いだもの」

 

 そのまま僕の隣に座り、吐息が届く距離で濃褐色の瞳を覗き込ませる。


 栞は細められた瞳で、じっと僕の顔を観察した。逃げ場を塞ぐようなその視線は、僕の皮膚を突き抜け、ドクドクと不規則に跳ねる脈動まで数えているかのようだ。


 唇の端に微かな愉悦を滲ませ、彼女は満足そうに喉を鳴らした。


 

「……どういう意味だ」

 

 

「言葉通りの意味よ。あなたは今、必死に『自分』を繋ぎ止めようとしている。……なら、その苦みで麻痺した神経を叩き起こして、精一杯、直人くんでいる努力を続けなさいな」

 

 

 彼女は僕の頬を、熱を帯びた指先でゆっくりとなぞった。

 

 

「でも、気をつけて。いつかその喉に、抗えないほどの『甘い毒』を流し込まれる時が来たら……その時は、もう戻れないわよ?」

 

 


心臓の音がうるさくて、このままでは彼女に中身をすべて引きずり出されてしまう。

 僕はたまらず視線を逸らし、震える手でブラックコーヒーのカップを掴んだ。

 

 

 けれど、逸らしたはずの視線は、磁石に引き寄せられるようにまた彼女の瞳へと戻ってしまう。


 今日、彼女と出会ってから何度目だろうか。

 まるで深淵を覗き込んでいるような、その濃褐色の瞳と不自然に目が合う。

 

 

 絡み合う視線から逃れるように、僕は唐突に言葉を投げつけた。


 

 

「……あの男とは、どういう関係なんだ。あんな怪物と、君は仲間だったのか?」

 

 

 僕の問いに、栞はコーヒーの湯気越しに、淡々と答える。

 

 

「猛は、この世界に紛れ込む『異質な力』を狩る掃除屋よ。そして私は、その獲物を見つけ出すための目。……私は、猛にとって必要なパーツなの」

 

 

「獲物……」

 

 

「そう。あなたの中に眠る『オト』は、彼にとって最優先で排除すべき毒なのよ。忘れたの? 直人くん。昨日の路地裏が初めてじゃないわ」

 

 

 栞の視線が、僕の記憶を抉るように細められる。

 

 

「二週間前くらいかしら?朝起きたら、身体中が酷い打撲のような痛みに襲われていた日があったでしょう?」

 

 

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 

 

「……ああ。前日の体育で、張り切りすぎたせいだと思ってた。慣れない運動をしたのもあって一日中、ペンを持つのも億劫なほど全身が痛くて……」

 

 

 僕がそういうと、栞は声を立てずに笑い。僕の喉元に指を這わせた。

 

 

「あれは猛があなたを路地裏に追い詰めたの。一度目の『狩り』を行った夜よ。……あなたは無意識のまま――いえ、あなたの中の『オト』が表に出て、あの男とやり合った」

 

 

「……あいつと」

 

 

 否定はできなかった。


 僕が眠っている間、オトというやつが勝手に僕の肉体を使い回していることは、もう薄々感づいていた。

 

 

「そうかしら? 自分の体を、よく見てみて」

 

 

 栞の言葉に促されるように、僕は浴室の姿見に視線を向けた。


 脱ぎ捨てたシャツの隙間から覗く、自分の胸板。

 

 

 ……おかしい。

 

 

 鏡の中の肉体は、僕の記憶にある「自分」よりも明らかに逞しく、凶暴なほどに仕上がっていた。

 

 

 栞が背後に回り込み、僕の肩から二の腕にかけて、品定めするように指を滑らせる。

 

 

「ここ、覚えがあるでしょう?」

 

 

 彼女の爪が、僕の肩に残る薄い、けれど確かな痣をなぞった。

 

 

 その瞬間、脳の奥で不快なノイズが走った。


 朝、着替える時に目に入ったはずの痣。

 けれどその時、僕はそれを単なる背景の一部として処理し、一秒で思考を切り捨てた。そんな気がする。

 

 

 オトが外で何をしていようと、僕は「僕」として明日を生きる。


 そのためには、肉体の変質も不自然な腫れも、僕の能力はすべてを無意味なノイズとして握りつぶし、意識の底へ沈めていたのだ。

 

 

「猛は驚いていたわ。器であるはずのあなたはただの男なのに、その中身は、自分と対等に殺し合えるだけの『完成された暴力』だったんだもの。……あなたが必死に無視し続けていた、この肉体がね」

 

 

 栞は僕の耳元に唇を寄せ、熱い吐息とともに囁いた。

 

 

「あなたが拒んでも、身体はもう、オトとして生きる準備を終えているのよ」

 

 

 栞の指が僕の身体に触れるたび、麻痺させていた感覚が再起動し、全身が悲鳴を上げ始める。

 

 

 鏡の中に映っているのは、僕の顔をした「見知らぬ化け物の器」だった。

 

 


「……あいつは、僕の居場所に気づいていなかったのか?」

 

 

「ええ。私がずっと、猛に嘘の情報を流して、あなたの居場所を隠蔽し続けてきたわ」

 

 

 栞は僕の喉元から指を離し、楽しげに目を細める。

 

 

「猛が血眼になってあなたの行方を追っていた間、私はずっとあなたの近くにいた。ある時は駅のホームで。ある時は、コンビニのレジの列で。……いつ彼にトドメを刺させようか、それともこのまま私の玩具にしようか。それを計算しながら、特等席であなたを眺めていたの」

 

 

「……」

 

 

「でも、私は規約を破った。猛に殺させるには、その力はあまりに美しすぎたから。彼がナイフを振るう前に、私はあなたを奪って、私の『栞』の中に閉じ込めることに決めたの」

 

 

 栞はふっと、皮肉な笑みを浮かべた。

 

 

「せっかく情報を隠蔽していたのに、直人くん。君はあの裏路地に来てしまった。あろうことか、殺しの瞬間を見てしまったわね」

 

 

 昨夜、猛の振るったナイフが、僕の視界を裂いたあの瞬間。

 

 

「あの時、猛のナイフがあなたの眉間を捕らえられなかったのは、私が座標を逸らさせたからよ。猛は私の指示通りにしかナイフを振るえない。だから私は、彼の脳に送り込む情報をほんの数センチだけ書き換えた」

 

 

 窓の外では、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。


 窓ガラスを無数の雨粒が叩き、世界を遮断していく。

 

 

「……雨か」

 

 

「ええ。これじゃあ、外には出られないわ。

雨粒は私たちの偽装を物理的に剥ぎ取ってしまう」

 

 

 雨が降っている間、僕たちも、あの男も動くことはできない。


 だがそれは同時に、僕がこの部屋で、彼女と二人きりで閉じ込められたことを意味していた。

 

 

「だから、今夜はここにいさせて。……器があなたでも、中身が彼なら、私はそれでいいの。……今夜は、彼を感じながら眠らせて?」



心臓の鼓動が、耳の奥まで響いてくる。

 拒絶すべきなのに、彼女の差し出す甘い絶望を、僕のどこかが待ち望んでいた。

 


 

「……好きに、すればいいだろ」

 

 

 僕は視線を落としたまま、力なくそうこぼした。

 それは許可というより、これ以上彼女に抗う術を失った、敗北の宣言に近かった。



 消灯した闇の中。

 窓を叩く雨音を聴きながら、僕は他人であるはずの彼女の、驚くほど熱い体温を感じていた。


 

 

 ……オト。

 

 

 僕のなかに巣食い、僕の知らないところで僕の肉体を「暴力」へと作り変えた、もう一つの人格。

 

 

 彼女が愛し、焦がれ、規約を破ってまで手に入れたかったのは、この「直人」という器の奥に潜む、その化け物なのだ。

 

 

 なぜ、彼女はあんなにもうっとりと、恐ろしいオトの気配を語るのだろうか。


 なぜ、彼女は僕の皮を被ったその影に、これほどまでの執着を注げるのだろうか。

 

 

 どれだけ肌を寄せ合っても、彼女の指先が求めているのは、僕という人格のさらに奥、暗い奈落の底にいる「彼」なのだと思い知らされる。

 

 

 僕もまた、彼女にとっての栞でしかないのだろう。


 オトという狂気に満ちた物語を読み進めるために、今このページに挟まれているだけの、無機質な目印。

 

 

 物語が終われば、あるいは別のページが開かれれば、僕は指先一つで弾き出される存在で。


  それでも、この熱を拒みきれない自分が、たまらなく惨めだった。

 

 

 僕は彼女という名の奈落に抱かれたまま、自分という輪郭が雨に溶けて消えていくような長い夜を、ただ目を開けてやり過ごした。

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